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第40話

 課題と、もういちど呟くと苦いものが口の中いっぱいに広がっていく。  昼休みのことだ。提出物に目を通しているところに、戸神が国語科準備室を訪ねてきた。その場に居合わせた同僚の手前もあって無下に追い返すわけにもいかず、戸神をともなって廊下に出たうえで用件を訊くと、 「俺のやり方を参考にしろ。カマトトぶるなよ、使い道はわかるな」  小さな紙袋が胸ポケットにねじ込まれた。そのさい戸神はスマートフォンをひらひらさせて、否を言わせなかった。  もしも人心掌握術という教科があれば、戸神はさぞかし得意とすることだろう。そう思えてならない、ひと幕だった。  なにしろ紙袋の中身は、ふざけるな、と一喝してやりたいようなシロモノだ。  それがワセリンとくれば、意図するところは明白だ。  後刻、何かを挿入されることを前提に、あんなところをワセリンで潤して相応の準備をしておくだなんて、それこそ淫乱のやることで、とんでもない話だ。  結局、ワセリンは机の抽斗(ひきだし)に放り込んでそれっきりだ。  ゆえに秘花は咲き初めるどころか、楚々と閉じている。谷間をさらけ出してみせしだい、自分を苛む口実を与える形になるのは必至。いや、戸神はむしろそれを楽しみにしているのか。  戸神に泣き落としは金輪際、通用しない。それは先日の『リコーダーを吹く』という一件で実証ずみだ。 「毎回、時間ぴったりに授業をはじめるくらいマジメな仁科先生に限って課題をサボりっこないよな?」  などと、にこやかに相槌を求めてきた。幼児のように白目が青みがかっている双眸が、不気味に底光りがする。  カラスが窓のすぐ外でひと声鳴き、仁科はつられてそちらを振り返った。羽ばたくさまを思い描くと妬ましさに顔がひきつる。  猥褻な画像という弱みを握られて戸神の掌中にある自分は、カラスごときが謳歌する〝自由〟を失った……。  伏し目がちに、せかせかと眼鏡を押しあげる。すると、戸神がしびれを切らした様子で腕を摑んできた。  時間稼ぎに走っている、と曲解されれば必ずや痛い目に遭う。仁科は、ため息をついた。  大ざっぱに言えば、数値に不安があるなかで健康診断を受けるときと同じ理屈だ。いやなことこそ、さっさとすませるに限る。

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