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第92話
と、いけぞんざいに押しやられた。
「バイトに遅刻するから帰るね。後始末をよろしく、先生」
そう、慇懃に頭を下げて身支度を整えるさまに、ハッと我に返った。仁科はワイシャツをかき合わせて縮こまった。べたべたする顔を洗いたいが、水道は止まっている。
不意に雨音が耳につき、苦笑がこぼれた。表に出て雨に打たれれば情交に耽った痕跡を洗い流すとともに、火照りを冷ますことができて一石二鳥だ。
スキャンダルの種を自分で蒔く度胸があれば、という話だが。
せめてもの腹いせに、しぶきがかかった眼鏡のレンズを戸神のネクタイで磨く。そのネクタイが取り上げられたあとで、あらためて胸ポケットにねじ込まれた。
「クリーニングに出しておけ。シミの種類は何かと訊かれたら『ザーメンです』と正直に答えるのを忘れるな」
言い置きざますたすたと戸口に向かい、ところが豹のようにしなやかな身のこなしで反転した。
うっかりしていたと言いたげに、ぺろりと舌を出すさまが小面憎いまでに魅力的だ。
戸神は、キャビネットに入れたうえで扉に鍵をかけてあった仁科のスラックスと下着を取り出し、それを放ってよこすと、鹿爪らしげに人差し指を立てた。
「問題です。世界歴代一位に輝く摂氏マイナス六十八度を記録したのは、シベリアのオイミャコン村。では、最高気温を観測した場所はどこでしょう」
クイズを出す暇があるなら、未練がましげにそわつく内奥に憐れみをかけてほしい。
仁科は上の空で相槌を打ちつつ、スラックスを広げた。
「非公認記録だけど答えはイラク南東の都市、バスラ。摂氏五十八・八度まで上昇したって話で、ちょっと眉唾くさいよね。要するに何が言いたいかっていうと……」
思わせぶりに口をつぐむと、きゅっ、と上履きの底を鳴らしながら調理台のかたわらをすり抜ける。
ありふれた制服姿にもかかわらず、その物腰は類い稀な威厳と優美さを兼ね備えていた。
「極寒の地でも極暑の地でも暮らしを営む者はいる。人間は、どんなひどい環境にも順応する生き物だ」
そ
う、うそぶくと仁科の真正面に片膝立ちにしゃがんだ。猫に対してそうするような指づかいで、白い喉をくすぐる。
それから残滓がまだら模様を描く頬を両手で挟みつけると、レンズの奥の瞳を見据えた。
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