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第97話

 もはや過去の話だ。  仁科は今年度いっぱいで姉妹校に異動する。戸神は関西の名門大学に進学する。  一昨年来、戸神とこのうえなく濃密な時間をすごしたのは確かだ。だが、ふたりを結びつけるものはセックス以外に何もなかった。  もとより卒業後も親しくつき合っていくような間柄じゃない。戸神は新天地で次の玩具を見つけるだろう。  仁科は仁科で性奴であった記憶を封印して坦々と生きていく。  今日を限りにふたりの道は分かれた。数百キロの距離で隔てられていれば戸神は物理的にも心理的にも遠い存在になり果てて、めでたし、めでたしだ。  ただし平穏な毎日とは、言い換えれば無味乾燥な日々のこと。今さら平凡な人生を歩めるか否か、はなはだ疑問だが。  と、教室前方の引き戸が開いた。 「なんだ、ここにいたのか。灯台下暗しって言うの? 先に国語科準備室を覗きにいって損した」 「戸神……とっくの昔に帰ったんじゃ」  てっきり打ち上げと称してカラオケボックスあたりに繰り出して、友人たちとはしゃいでいると思っていた。 「更衣室に隠れて女子の集団をやり過ごしてた。第二ボタンをくれって体育館を出たとたん揉みくちゃにされて、もうちょいで全校生徒の前でストリップかますとこだった」    そう言って、大げさに身震いしてみせる。  なるほど薔薇の花を(かたど)った紙製のコサージュはびりびりに破れて、熾烈な争奪戦が繰り広げられたことを物語っている。  ブレザーのボタンはおろかシャツのボタンもすべてむしり取られたとみえて、なかなか壮絶な姿だ。 「モテ男ならではの贅沢な悩みだな」  酸素が薄まったように息苦しい。仁科は伏し目がちに眼鏡を押しあげた。  戸神が下校すれば、彼と再会するのはおそらく何年後かの同窓会の席上で、ふたりきりで話す機会はきっとこれが最後だ。  人生の門出にあたって教え子に(はなむけ)の言葉を、と思うのだが、仮にも国語の教師のくせに名作からの引用ひとつ浮かばない。  戸神が真正面に立てば心臓が跳ね、壁伝いに横にずれた。  別離に際して性奴に一応筋を通しておくか、といった程度の軽い気持ちで捜しにきたのかもしれないが、心をかき乱されるこちらとしてはありがた迷惑だ。  きみのおかげで充実した毎日を送ることができた、と皮肉ってやろうか。

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