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第98話
同じ歩幅で戸神が動き、あらためて向かい合って立つとブレザーのポケットをまさぐった。
「絶対、先生にプレゼントしたくて、これは死守した」
ネクタイを渡された。仁科は目をしばたたいた。校章が刺繍であしらわれたそれは、戸神の衿元を飾ってきたものだ。
「高校時代の大事な記念を、おれに……?」
「これで何回も手首を縛った。最高の思い出の品だろう?」
目縁が赤らむ。いらない、と突っ返すのが正解で、なのに戸神を偲ぶ縁 になるなどと考えてしまうのは、これから将来 も彼の支配下にありたいと望んでいるのか……?
仁科は頭をひと振りした。卒業式の日は多かれ少なかれ誰もが感傷的になる。それだけのことだ。
戸神が、うなじを搔いた。そして珍しく口ごもりがちに切り出した。
「俺、遠慮して先生にしなかったことがある。それが心残りで、帰る気になれなかった」
ほんの数百グラムのネクタイが鉄骨に変じたように感じられて、持て扱う。
仁科は困 じ果ててきれいに巻くと、とりあえず上着の胸ポケットに収めた。深呼吸ひとつ、顔をあげたせつな胸を突かれた。
熱っぽい視線が眉間に突き刺さって金輪際、目を逸らせない。
「キス……唇にしていいかな」
キス、と鸚鵡返 しに繰り返して、ぽかんと口をあけた。きみの、と紡ぐ声がかすれる。
「きみの口から可愛らしいおねだりが飛び出すとは、まさしく青天の霹靂だ」
くちづけは大切な相手と交わすもの。少なくとも、ふたりの間には情愛の類いなど入り込む余地はないはず。
どうした加減か、黒板アートを彩る風船がひとつ突然割れた。それで金縛りが解けた。
仁科はよそゆきの笑顔をこしらえると、努めて淡々と答えた。
「そもそも、きみが遠慮する柄だとは寡聞にして知らなかった。参考までに、そういう言い種を盗人猛々しいという」
それを聞いて戸神は不敵な笑みを浮かべた。文句があるなら俺の流儀でいく、と言いたげにスーツの肩越しに壁に手をついて早速、顔を傾ける。
そして拒まれるわけがないと決めつけてかかる驕慢さでもって、ゆっくりと唇を近づけていく。
廊下に面した窓のカーテンは開け放たれていて、誰かがこの教室の前を通りかかりしな、ひょいと内部 を覗けば、その時点でアウトだ。
戸神との関係が露顕しなかったのには、たぶんに運が味方している。最後の最後で現行犯逮捕といけば、泣くに泣けない。
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