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「嗚呼・・すまん・・もうこれ以上は・・」
「あんたも大変だねえ・・。あとで寄ってくんな」
「?」
魯肉飯 (細切り豚肉の煮込みをご飯にかけたもの。ふわりと香る五香粉が食欲を誘う一品)奢ってやっから」
「・・・・ご面倒掛けまする。お気持ちだけ有難く」
ハハハと笑って去っていく店主の背中を見送りながら、塵煙は揚げたての排骨を食せなかったことを若干悔いていた。
ああ。この店の揚げたて排骨はさぞや美味かろう。砂肝も空心菜も美味かったに違いない。
ぐぬぬ・・と思うものの、いつの間にか隣に引っ付いていたこの酔っぱらいは、蛇のようにべっとりと絡みついて離れようとしない。
それどころか、幾度も髪に手を入れられ、枕のように抱きつかれ、それでも片手は瓶子をしっかと掴み手放そうとしないものだから、さすがにこれはと困り果てた塵煙が他の客に助けを求めてみるも『アテクシ何も見てオリマセン』と顔を背けながら、そそくさと料理を手に席を移ってしまう始末。
『嗚呼待って・・』と手を伸ばせば、どの客も言葉の代わりに眩しいほどの笑顔を見せてくれる。
いや、欲しいのは笑顔じゃない。そう言おうにも『いいからいいから』と皆が皆、手をヒラヒラと揺らしながら生温かい視線のみを渡してくれるものだから困ったものだ。
「・・・紏鶆殿~?」
「・・・・んふふ・・・・」
「はぁ・・」
それにしても、なんという酒癖の悪さだ。そう思わずにはいられない。
普段は「でする~」と語尾上がりの口調で相手と接し、相手が苛つきを覚える度に腹の底でヒヒヒと笑っては騙して遊ぶという事を至極の喜びとする彼でも、これには辟易してしまう。
嗚呼、願い叶うならば二時間前に舞い戻って、自身の頭をパチコーンとぶっ叩いてやりたい。
そう思いながら、彼はこの店に入った時の事を思い出していた。
わいわいがやがやと賑やかなその店は、亭主である中年の男性とその息子が二人で切り盛りしているらしく、訪れる客も勝手知ったるなんとやらでテキパキと自分たちで皿を片付けては卓を拭いたり、新しい皿を重ねたりと皆忙しく動き回っている。
「ほほぅ・・」
「わー。こういうお店、私好きです」
「気が合いますにゃあ。ワタクシもでするよ~」
二十ばかりの卓がある店内は、ほぼ満席で空きが見えない。
その中で空いている席を見つけた彼らは、迷うことなくその席に着くことにした。
卓の中央には数枚の小皿と箸。杯が重ねて置かれている。
自由に使っても良いということなのだろう。
店の厨房から聞こえる揚げ物の音や中華鍋を振る音に耳を澄ませながら、店内をよく観察してみれば、皆が皆、卓に乗せている紙と筆を手に何やら書き込んでいる光景がちらほら見えた。
「あ。前金制ですね。お品書きが書いてあります。こういう店は楽でいいですね」
そんな事を紏鶆が言う。
フムフムと頷きながら注文用紙を見てみれば『排骨 』十銭の文字が視界に入った。
「おおっ!排骨がありまする!これを食べに来たのですから頼まねば」
「では二皿にしましょう。他は何を?」
「清蒸鮮魚 (白身魚の腹に生姜スライスを詰めてネギなどを乗せて蒸した料理)と砂肝炒め。それに・・」
「東坡肉 (豚肉の煮込み)も良いですね。干し豆腐炒めも悪くありません」
「ふむふむ。空心菜炒めも欲しいでするな」
「いいですね。海老も頼みましょう」
そんな事を話しながら注文用紙に数と印を書き込んで、合計にして百十五銭程だろうと予想した塵煙が、三百銭程のお金を手にして席を立った。
この店は先に金額を支払って料理を待つという手法を取っているせいか、どの客も同じようにお金を支払い、注文を終えて自分の席へと帰っていくその光景に、紏鶆の表情も自然と柔らかくなっていく。
隣の卓に座っている客は麺料理を食べているらしく、美味しそうに麺を無言で食べている。
その光景を頬杖をつきながら眺める紏鶆の表情も、どこか嬉しそうに見えた。
一方、塵煙はというと厨房前で料理を作る店員に用紙を渡し、戻る途中で酒が置いてある場所に気が付いた。
その店の壁には酒の入った大きな壺がいくつも置いてあり、背後の壁に【酒は自分で運んで飲んで下さい。一壺一律三十銭。瓶子一本十文。酒壺所望の方は瓶子ご自由に】と書かれた板が見える。
板の下に木箱が置いてあり、何だ?と思い覗いてみれば、そこにお金が入っていた。
『なるほど、この店は店主と客の関係が凄く良いのか』
色々な店があるけれども、大体の店は酒が欲しいと思った場合は、店主に本数を告げて金を渡して店員に持ってきてもらう方法を取っていることが多い。
勿論、不正や泥棒と言ったトラブルを防ぐことを目的としているわけだが、ここは他とは違い、全てが客の良心に委ねられた状態で成り立っている。
客と店の信頼関係で成り立っている店ほど心地良いものはない。
きっとうまい酒が飲めるのだろう。そんなことを思いながらも、ふと
『ほほぉ・・ここは他よりもちとお酒がお高いでするな。でも瓶子一本、五文の店が多いでするから、そこから考えればこの店は瓶子よりも酒壺の方がお得なのかも』
そう思いながら店内を見渡せば、瓶子用と書かれた壺の蓋を開けて柄杓で瓶子に酒を注ぐ者。転がしながら壺ごと席へと持って行く者と様々だった。
「となりますれば・・壺ごと頂いて行くというのが常というもの。ついでに瓶子も数本貰っていきましょう」
ほくほく顔でお金を投入し、ころころと酒壺を転がして、すぐに瓶子を手に戻ってみれば、若干顔を顰めて酒を見る紏鶆と視線がかち合った。
「いや。私、お酒は・・」
「そんなに強くはありませぬから、どぞどぞでする~」
「いえですから・・あの・・」
とくとくと杯に酒を注げば、ほのかに映る明かりが見える。
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