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第35話
返事をする気にはなれず息を潜めていると、呼びかける声とインターホンの音が止まらず、「近所迷惑は嫌だろ?」との台詞が決定打だった。
ぎゅっと狭くなった喉を何とか震わせ、怜は扉は開けずそのままに返事を返す。
「な、なんの用ですか」
「お、やっぱりいるじゃないか。敬語だなんて寂しいな。まるで他人行儀だ」
「もう関係ないですから。帰ってください」
「この前久しぶりに怜の顔見たら、またいいかな、なんて思ってさ」
「っ、なに、言って……」
またいいかな──軽率なその言葉に怜を吐き気が襲う。口を両手で押え、激しく胸を上下させながらなんとか堪える。
それが何を意味するのか分かっている、セックスをしようと言っているのだ。
この男に抱かれ愛されていると勘違いしていた憐れな自分をもう思い出したくもないのに。
女を抱きながら嘲笑った三条の顔も、便利だったよと言ったその声も。もう全部忘れて消してしまいたいのに。
「なあ怜、君だってよかっただろ?」
手に持ったままだったスマートフォンに気づき、震える指で操作する。メッセージアプリの一番上にある梓の名前を見ると涙がぼろぼろと零れてきた。
通話ボタンをどうにかタップし、耳に当てるとまるで世界と切り離されているかのように遠くに機械音が響く。
一秒がもどかしい。
あの声を、梓の声を聞きたかった。
『もしもし? 怜さん? どうかし……』
「あ、梓くん、ひっ……」
『っ! 怜さん!? どうしました!?』
声が聞こえてくると、体中が叫ぶかのようにいっそう涙が溢れだす。恐怖が去ったわけではないのに、その声だけで安心しているのだと怜自身がよく分かった。
絞り出した自らの声は今にも消え入りそうな弱々しいものだったけれど、丁寧に拾ってくれる梓の優しさが更に涙を誘う。
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