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第55話
怜がこれほど好いている声優・相山梓は、今ここで怜と共にいる梓自身なのだ。
怜はその事実を知らないとは言え、目の当たりにしたものの衝撃に梓は叫び出してしまいたい。
怜にこんな風に想われたい、声優としてだけじゃなく、ひとりの男として。
早鐘を打つ心臓の部分のシャツを握りこみ、震えたため息にどうにか衝動を散らせる。
「すぐお会計してくる、待っててね」
横顔に注がれる視線に梓が前を向けずにいると、怜はそれだけ言って早足でレジへと向かってしまった。
具合が悪いと思わせてしまったのかも知れない。
何か言うべきだったなと少し伸びるレジの列に並ぶ怜を見ながら後悔していると、梓の視界の端に二人組の女性が映った。
何かを囁き合いながら、チラチラと梓を窺っているように見える。
まずい、気付かれてしまっただろうか。
一人の時なら有り難くすら思ったかも知れないが、声をかけられてそれを怜に見られるわけにはいかないのだ。
怜はあとひとりで会計に進めそうだ。
レジを確認出来る位置を保ちつつ、梓はキャップを目深に下げ適当に目の前の商品を手に取る。どうかこのまま、何事もなく過ぎ去って欲しい。
けれど梓の願いとは反し、女性たちもこちらに視線を向けたまま少し距離を詰めてきた。万が一の時は人違いだと言うのも手か。
頭を過ぎった最悪の事態に冷や汗を流し、CDを棚に戻した時だ。
会計を終えた怜がまた早足で梓の元へと戻ってきた。
梓がほっと息をついたのも束の間、先ほどより近くに女性たちの姿がある。
ここで怜に名前を呼ばれてしまったら──梓は咄嗟に怜の口を自身の手で覆った。
「ん!? んんっ」
「怜さん、ごめんなさい、しー……ね?」
「っ、」
何事かと目を見開く怜への申し訳なさと、こんな時だと言うのに手の平に当たる怜の唇の柔らかさに気が動転して目眩がしそうだ。
それでも反対の手の人差し指を口元に添え、黙ってもらえるように頼むと怜は訳が分からないという顔をしながらもこくこくと頷く。
「怜さん、走ります」
手首をそっと握りこみ、梓はそう耳打ちしてから走り出す。怜は梓のされるがままだ。
エスカレーターへと向かい、怜が転ばないように腰に手を添え二人でステップに乗る。
ふとフロアに目をやると、女性たちの姿が見えない。
諦めてくれたか、それとも別のルートで下りてきたりするだろうか。
「怜さん本当にごめんなさい、もう少し走って平気?」
「ん、大丈夫だけど……」
道へと出て、夜空と明るい街灯りの下で怜の顔を覗きこむ。
こうなる事を少しも想定しなかったわけじゃなかった、アニメなどに特化したショップなのだから声優の自分の顔を知っている人がいたって何もおかしくはないのだ。
それでも自身のワガママでついてきてしまった、怜の楽しみに水を差してしまったのではないか。
不安な想いが怜へと手を伸ばさせ、梓は縋るかのように怜の手を握る。
「っ、ちょ、梓くん、手……」
「こっちです」
動揺して跳ねる白い指先を、懇願するように親指でひと撫でして走り出す。
店から少し離れるだけで細い道が入り組む街で助かった。
数回角を曲がり、人気のない小さな公園を見つけてそこに逃げ込む。
道路に背を向け、垣根の影に二人してずるずるとしゃがみこんだ。
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