56 / 93

第56話

「はぁ、さすがに追ってはこない、かな」  人の通りがないわけではないが、軽やかに駆ける足音などは聞こえてこない。  脱いだキャップを顔に被せ、梓は天を仰いで呟く。  どくどくと煩い心臓は突然訪れた窮地にまだ狼狽えている。 「梓くん」 「あ……怜さんごめんなさい、大丈夫ですか? 急に走らせちゃって、折角楽しみにしてた日なのにすみません。苦しくないで、」 「梓くん」 「っ、怜さん……」  ふと届いた怜の声に梓が慌てるけれど、珍しくそれを怜は制す。怒らせてしまっただろうか。  けれど月明かりが照らして見せる怜の表情は眉が下がっていて、梓を心配しているのだと手に取るように分かった。 「僕は全然平気、梓くんこそ大丈夫? 何か嫌なことあった? もしかして、やっぱり誰かになにか言われた?」 「怜さん……違います、大丈夫。大丈夫ですよ」 「でも……何かあったんでしょ?」  繋いだままの手を怜がきゅっと握り返す。  染み込んでくるような怜の体温を腕の中に閉じ込めてしまいたい。  空いている片手を浮かせ、だめだと宙を握り、けれど梓は堪えきれず怜の背中を引き寄せる。 「っ、梓くん!? ちょ、ちょっと……」 「ちょっとだけ、ちょっとだけでいいんでこうしてても良いですか?」 「でも……」 「だめ?」 「そんなの……ずるい。断れないよ」  拗ねたような口調を梓のシャツに滲ませながら、怜はそろそろと梓の背を抱きしめ返した。  添えられた手はそれだけではなく、まるで幼い子をあやすようにぽんぽんと撫でてくる。  吸い込んだ息は時が止まるのを願うみたいに、うまく放たれてくれない。こんな風に受け入れてくれるなんて思いもしなかったのだ。 「怜さん、俺……」 「ん、なぁに?」

ともだちにシェアしよう!