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第56話
「はぁ、さすがに追ってはこない、かな」
人の通りがないわけではないが、軽やかに駆ける足音などは聞こえてこない。
脱いだキャップを顔に被せ、梓は天を仰いで呟く。
どくどくと煩い心臓は突然訪れた窮地にまだ狼狽えている。
「梓くん」
「あ……怜さんごめんなさい、大丈夫ですか? 急に走らせちゃって、折角楽しみにしてた日なのにすみません。苦しくないで、」
「梓くん」
「っ、怜さん……」
ふと届いた怜の声に梓が慌てるけれど、珍しくそれを怜は制す。怒らせてしまっただろうか。
けれど月明かりが照らして見せる怜の表情は眉が下がっていて、梓を心配しているのだと手に取るように分かった。
「僕は全然平気、梓くんこそ大丈夫? 何か嫌なことあった? もしかして、やっぱり誰かになにか言われた?」
「怜さん……違います、大丈夫。大丈夫ですよ」
「でも……何かあったんでしょ?」
繋いだままの手を怜がきゅっと握り返す。
染み込んでくるような怜の体温を腕の中に閉じ込めてしまいたい。
空いている片手を浮かせ、だめだと宙を握り、けれど梓は堪えきれず怜の背中を引き寄せる。
「っ、梓くん!? ちょ、ちょっと……」
「ちょっとだけ、ちょっとだけでいいんでこうしてても良いですか?」
「でも……」
「だめ?」
「そんなの……ずるい。断れないよ」
拗ねたような口調を梓のシャツに滲ませながら、怜はそろそろと梓の背を抱きしめ返した。
添えられた手はそれだけではなく、まるで幼い子をあやすようにぽんぽんと撫でてくる。
吸い込んだ息は時が止まるのを願うみたいに、うまく放たれてくれない。こんな風に受け入れてくれるなんて思いもしなかったのだ。
「怜さん、俺……」
「ん、なぁに?」
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