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第70話
「怜さんとずっと会ってないんだ」
「ケンカしちゃった?」
「ケンカならまだ良かったのかも。俺が全面的に悪いんだ」
「……ほんとに?」
「うん。もう会わない方がいいって言われて。自業自得」
「…………」
「春の終わりくらいにさ、凄い雨が降った日があったでしょ? 夜からいきなり。あの日……──」
雨音が閉じ込める世界に、怜と二人きりになったような心地だった。
空腹を満たし、コーヒーの香りの中で怜から聞く自身への称賛はひどく甘美で。堪らず抱きしめた感触に、もっと先をねだってしまった。
怜の優しさに付け込んで、想いを伝えもしないで触れていいかなんて傲慢だったのだ。
さすがにキスをした事や触れようとした事までは言いはしなかったが、梓は怜と仲違いしてしまった日の事を掻い摘んでノリに話す。
反応を見るに、どうやら怜は少しもノリに話していないように見て取れた。
「んーなるほど。それで?」
「それで……次の日に会いたいってメールしたら、一日空けて返事が来たんだけどさ」
まだあの瞬間も、事の重大さに梓は気づけていなかった。
一日も返信がないのは初めてで気がかりではあったが、誠心誠意謝ってそれが伝わったら、好きだと言うつもりだった。
キスは受け入れてくれたのだから、少なくとも嫌われてはいないだろう。
そのほんの一ミリかもしれない可能性を掴みたい、その覚悟を決めて約束をもらった夜に怜のアパートを訪れた。
玄関先ですぐに渡された、洗濯された自身の服が入った紙袋。
部屋には入れないのだと、見えない距離が生まれてしまったのだとその時に梓はやっと理解した。
『怜さん、あの、』
『梓くんこれ、貸してくれてありがとう。その……下着は新しいの買って入れてあるから』
『そんな、良かったのに……わざわざすみません。あの、怜さん、俺! ……あ』
悪い予感がしたのだ。ぎこちない空気がまるで今生の別れのようで、そうはさせまいと追いすがるように怜に一歩近づいた。
けれど、びくりと跳ね上がった細い肩を見た時、伝えたかった想いは梓の奥底に沈んで出てこなくなってしまった。
口にしても伝わらないと分かってしまったからだ。
怯えさせてしまった、守りたかった誰より大切な人を。
『梓くん、僕達もう、会わない方がいいと思う』
『……俺があんな事したから、ですよね』
『ううん、そうじゃない。僕が悪いんだ。僕のせい』
『怜さんはなにも悪くないでしょ。俺のせいだから』
『ううん、違う。梓くんこそ何も悪くないよ、僕が悪い』
『……っ』
なんでそんなに頑固なのだと、そんな酷い事言えるわけがなかった。そうさせているのは他でもない自分なのだから。
強張った体を抱きしめることも、今にも溢れそうな涙を拭う事も出来ない。
春のあたたかい空気が怜と梓の噛み合わない心を際立たせる。
友達だと言われたのが悲しかったはずなのに、もうそれすら失くしてしまうかもしれないと恐ろしかった。
『また連絡してもいいですか?』
『…………』
『もう顔も見たくない?』
『…………』
ついにぽろぽろ零れだした怜の涙は、梓がなにを言っても止まらないどころか、いっそう溢れるだけだった。
この手もこの口も怜を傷つけてばかりだ。
『怜さん、ごめんね。怜さんは自分のせいって言うけど、やっぱり俺はそうは思わないから。泣かせてごめんなさい』
どうすれば怜が笑ってくれるのか考えても、その手段をもう自分は持っていないのだと思い知った梓は、最後にそれだけ伝えて怜のアパートを後にした。
重い扉が閉まる音が今でもずっと梓の耳の奥で鳴りやまない。
身を引き裂かれるような思いというのは本当にあるのだと刻まれた瞬間だった。
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