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第73話
夜に漂うぬるい空気に走る梓の息が溶ける。
星の見えないこの夜空をいつかの自分が思い返す時、どんよりと淀んだ色だと一人憂うのか、それとも想いを孕んだ深い色だったと二人で表すのか。
後者だといいと祈るように仰ぎ、一秒でも早く会いたくて恐れを置き去りにする。
怜のアパート前に到着し、膝に手を置いて息を整える。
ここ数カ月は夜も遅くに帰る事ばかりで、毎日のようにここから怜の気配だけでも感じたいと見上げたものだ。
まるで最初からそんな時間などなかったかのように、この道で出くわす事も街の中で見かける事もなかった。
心が大きく欠けたような感覚をずっと抱えて過ごしてきた。
「よし、行こう」
ぽつりと呟き、梓は階段を上がる。一歩一歩が決意の印で、正直な心臓は少しだけ竦む。それでも引き返すわけにはいかない。
一度深呼吸をしてから怜の部屋のインターホンを押す。小さく物音が聞こえたから居るのは間違いないだろう。
久しぶりに顔を見られる。整えたはずの息が上がるのを感じ、静まれとの願いは叶わぬうちに扉を隔てたすぐそこに怜が立つのが分かった。
何も反応はない、きっとドアスコープから梓の姿を確認したのだ。戸惑っているだろう彼を思いながら、梓はしずかに口を開く。
「怜さん。突然ごめんなさい。ここ、開けてくれませんか?」
返事はないまま、息を飲む音が小さく聞こえたような気がする。
ここからも声が届くとしても、こんな時間にアパートの外で響くそれを怜はきっと望まない。梓は怜が開けてくれるのを待つしかないのだ。
「すぐ帰ります、玄関で済むのでお願いします。怜さん……顔、見たい」
懇願する声はみっともなく震えてしまった。
気恥ずかしさを苦笑で笑い飛ばし、梓は扉に額を預ける。温度が伝わるはずもないが、怜を少しでもそばに感じたかった。
そのままの格好でどれくらい経っただろうか。
数秒、数分……怜の事を考えているといつもあっという間に時間は過ぎる。
そうして怜への想いを噛み締める梓に、ガチャン、と金属音が届く。鍵が開けられた音だった。
「っ、怜さん!」
ゆっくりと中から扉が開き、どうぞ、とか細い声が梓を呼ぶ。
あぁ、本当に久しぶりだ。
あの日ここで迎えた、この世の終わりのような時間以来の怜の声だった。
「え、っと……どうしたの?」
サンダルを履いている怜は、梓のスペースを空けるように左側の壁へと寄った。梓は右のスペースに入り扉を閉める。
言いたい事はたくさんあるのに、ぐすりと鼻を鳴らし俯いた怜を抱きしめたくて仕方なくなった。
けれどそれは駄目だ。ぐっと拳を握って堪える。
「怜さん、痩せた?」
「あ……うん、ちょっと痩せたかも」
自分より一回り以上華奢だった怜の体が、もっと小さく梓の目に映る。
どんな日々を過ごしてきたのか、ノリの言葉と照らし合わせれば想像は簡単についた。
笑っていてほしい願いは、怜の望む通りに離れていたって叶わなかったのだ。
それならばと躊躇いはたちまち霧散してゆく。
「怜さん、俺、怜さんが好きです」
「……え?」
「ずっと、好きでした」
「え、あ……何言って……」
驚きに思わず顔を上げた怜の頬を、涙が一粒滑った。
その跡を拭いたい、けれど勝手に触れる事は駄目だ。
繰り返したくない、もう傷つけたくなかった。
「びっくりした?」
「う、うん」
「そうだよね。でも本当です、怜さんが好き」
「…………」
また俯き、暫く黙りこみ、怜は再び涙を落とした。
怜の見せる全ては何を示すか、見誤らないように梓はひとつひとつを心に刻むかのように見つめる。
「あ、あのね、梓くん」
「はい」
「えっと、僕、その……」
「あ、待って」
「っ、え?」
怜が何かを言おうとしているのに気づき、今度は梓が慌てる番だった。
今日は好きだと伝えたら、渡したいものがあった。
好きではないとこの想いを受け入れられないのだとしても、差し出したい真実がある。
「怜さんの気持ちはその、まだ待ってもらっていいですか? すごく勝手ですよね、でも今はまだ……それで、これを受け取って欲しいです」
「え、っと……?」
意を決しただろう何かを遮られ、その上矢継ぎ早に言われては理解が追いつかないのも無理はないだろう。そうやって困らせると分かっていても譲れない自分が梓は情けなくもあるけれど。
上手く出来ないなと自身を歯がゆく思いながら、ノリに渡したものと同じものが入った封筒を怜の手を持ち上げて乗せる。
怜の指先の冷たい温度がそっと梓の心を刺す。
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