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第77話
「アニキ? 大丈夫っすか?」
「大丈夫じゃないかも」
チケットに記された席は一番後ろ、端の席だった。
怜とノリのものは連番で、隣にノリがいてくれる事が心強い。
それでも怜はいよいよ平常心を保っていられない。
身を竦ませ、膝についた両手で顔を覆う。
周りはみんな今か今かとその時を待っているのに、痛いほどの緊張感が胸を襲うのだ。
「ノリくん、梓くんいないね?」
「んー、そうっすね」
もしかすると遅れて来る可能性だってあると思っていたが、一番端に座る怜とノリのすぐ隣にも二人連れの女性たちが着席してしまった。
梓だけ離れた席の可能性ももちろん捨てきれないが、どこを見ても見当たらない。
梓がもしいたら、すぐに見つけられる自信が怜にはあった。やっぱりいないのだ。
「来れなくなっちゃった、のかもね」
「ううん、来ますよ。絶対に」
「……それってもしかして、いや、ないと思うけど、客席じゃない、とかじゃないよね?」
「…………」
さっきから周りの迷惑にならないようにと潜めた声で話していたのに、意を決した怜のその言葉だけノリは聞こえないふりをする。
黙ったまま微笑んで、片眉をくっと上げる仕草がちょっと憎らしい。
ノリのそのリアクションは、暗にそうだと認めているようなものではないだろうか。
まさか、いやそんな事があるはずない。
思考がまとまらない、いや、頭が真っ白で何も考えられない。
膝に突っ伏してしまいたいのをどうにか堪え、怜はノリに断りを入れて腕を掴ませてもらう。
とりあえず冷静になろうと大きく深呼吸をした時、客席全体が一斉に興奮する声が怜の耳を劈いた。
「っ!」
「アニキ、始まりましたよ」
司会の男性が作品名を読み上げ、今日の来場を観客たちへ感謝するアナウンスと、落ち着いたノリの声が聞こえる。
頭を上げられないまま何とか頷き、震える手を口に添える。
「それでは皆さんお待ちかねですね、声優の皆さまに登場して頂きましょう」
挨拶もほどほどに、司会者がそう言うとますます観客たちは色めき立つ。
怜はそれどころではないが、この場でついて行けていないのは怜だけなのだ。
この為に来場しているオーディエンスが大きな拍手で迎える。
割れんばかりのそれが暫く続く中、ノリが怜に耳打ちをする。
「相山梓、来ましたよ」
「っ」
「アニキ、見なくていいんすか?」
「あ……こわい……」
「うん。でも見てあげて。梓くんの覚悟、っすよ」
「っ……」
司会者が主役を演じる男性声優の名を呼び、マイクを渡したのだろう。河野と呼ばれた彼に歓声が大きく上がった。
それはすぐに止み、凛とした声がユーモアを交えながら作品への思いや意気込みを語っている。
こういう場をもう何度も経験していて、作品もファンも大切にしているのだと伝わる言葉たちに誰もが真剣に耳を傾けている。
挨拶が終わり、また拍手が起こる。
すると河野が、じゃあ次はと言って相山梓の名前を呼んだ。
すごく緊張しているみたいだから優しく見守ってあげてね、とマイクを渡す前に河野が言うと、頑張れ、との声援が客席のいたる所から上がっている。
「ご紹介頂きました相山梓です。こういう場は初めてですし、二番目に名前を挙げてもらえる事もなかったので、誰だ? と思ってる方も多いと思います。どうぞ宜しくお願いします」
真面目だなと茶化しながらも応援する河野の声が、小さくマイクに乗っている。
怜の隣ではノリが肘で怜をつついて早く見るようにと急かす。
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