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snow drop 8

 初台駅で降車して、渋谷を目指して2人は歩くことにした。  帆乃は理玖と手を繋いでみたかったが、日曜日、渋谷に近づくにつれて人が多くなっていき我慢して手を引っ込めていた。そんな帆乃を見て理玖はそっと囁いた。 「2人きりになったらいっぱい甘えていいからね」 「へ……えっと……そ、それは…その…」 「俺は今でも帆乃くんとイチャイチャしたいけどね」 「理玖さん……」  きっといつもの理玖だったら皮肉っているくらいの甘い雰囲気、だけどこんな空気がいつまでも続いてほしいくらいに心地が良い。 「昨夜さ、歌詞をなんとなく勢いで書き上げちゃったよ」 「え⁉ 本当ですか? どんな歌詞ですか?」 「それはレッスンとレコーディングまでのお楽しみ」 「えー! 意地悪です」 「id(帆乃くん)に歌えるかなー」 「…なんか、変なこと書いてませんか?」 「さぁね」 「むぅ……絶対歌って理玖さんをビックリさせますもん」  こうして楽しく会話をしていたら30分以上かかる道のりはあっという間で、気が付いたら渋谷のランドマークである109が見えていた。 「確かこの近くの電器屋だったな…あ、あった……けどまだ2時かー…」 「社長は2時半過ぎに来るんですよね?」 「そうなんだよねー…ちょっと近くで休憩しよっか?」 「はい」  理玖は現在地からあまり離れていない場所のファーストフード店を見つけて、そこで休むことにした。  店に入り、理玖はアイスコーヒーを、帆乃はショコラシェイクを買うとカウンター席に隣り合って座る。 「さっき一樹にさ、恋したなって言われて…ちょっと思い出したことがあってね」  理玖はアイスコーヒーを一口飲んで、街の人の流れを見つめながらポツリポツリと話し始めた。 「俺、自分の初恋は高2の時だと思ってたんだけど……その時に、通っているバレエの教室が東京のプロバレエ団と合同でホールで公演をすることになって…『眠れる森の美女』って知ってる?」 「はい……少し本で読んだことあります。16歳になったお姫様が糸車の針に触って眠りについて、100年後に王子様のキスで目を覚まして結婚するっていう…でしたよね?」 「そう。俺はその王子様役、男性役の主役に選ばれたんだ」 「すごい…」  帆乃は驚いて理玖を見つめた。 (…理玖さんが王子様みたいって思うのは俺だけじゃなかったんだ…昔からそうだったのかな?) 「相手のオーロラ姫役は勿論バレエ団のプリマドンナ…プロ中のプロ。だからその稽古の期間は毎日バレエ辞めてやろうかって思うくらいに彼女は厳しくて、多少あった自信も何もかもへし折られて、初めてバレエで泣いたし…」  理玖は自嘲する。そんな顔すら華があって帆乃は見とれてしまう。 「それでも、彼女のおかげで俺は何十倍も成長して…実際次の年の国際コンクールで目標だった1位を獲れたわけだし……毎日毎日一緒にいて、ファーストキスも舞台上のオーロラ姫に捧げた。だから俺は彼女が大好きだと思って、学校で一樹たちにも相談したよ」  帆乃にまたモヤモヤが増えた。  過去のことだとしても他の誰かを好きだった理玖の姿を想像もしたくなかった。 (俺、独占欲が酷いな……唯ちゃんが話した時と同じくらい苦しいよ…) 「最後、千秋楽の幕が下がった瞬間に、彼女が好きって気持ちがパッて消えちゃったんだよね」 「…消えた?」 「そう。急にね…シャボン玉が割れたみたいに消えたんだよね。だから告白もしてないし一樹たちに言われたのは『王子役にのめり込み過ぎて役の延長線上で好きになっただけじゃね?』って」 「役……」 「そんなことがあって、それから彼女ができたとしてもどこか冷めてて…今回も」  帆乃は理玖から目を逸らして、放置しすぎてグラスに汗をかいてるショコラシェイクを見る。 「鈴野と一樹に何回も言われてたんだよね、俺が帆乃くんに恋してるって。だけどそれはidとegoを演じているからじゃないかって、そう思って何度も否定してたんだけど……昨夜の帆乃くんが寝言……かな…」 「ふへ? ね、寝言…?」  覚えにないことに恥ずかしくなり帆乃は思わず顔をあげて理玖を見る。 「俺とずっと一緒にいたい、だなんて可愛いこと言ってくれてさ……もうそれで俺落ちたんだよね。idとかegoなんて関係なく帆乃くんが好きなんだって」  理玖はアイスコーヒーを飲んで、帆乃に微笑んだ。 「俺自身の初恋は帆乃くんだから…これから嫌なこととか変なこととかしちゃうかもしれないけど、絶対帆乃くんを誰よりも大切にする気持ちは嘘じゃないってこと、覚えてて?」 (理玖さん…どうして、理玖さんは俺をこんなに幸せにしてくれるんだろう…)  朝から溜まった帆乃のモヤモヤした気持ちはスーッとなくなっていた。  こぼれそうになっている涙を我慢して、溶けたシェイクを飲んだ。

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