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番外④ 理玖の歌唱力
大学は無事に夏休みに入ったが、理玖はegoの活動といつものコンテンポラリーダンスのレッスンは変わらず続いている。
火曜日、通常レッスンでスタジオの入り口を開けようとした理玖は鉢合わせた崇一に呼び止められる。
「南里くん、お疲れ様」
「香島さん…どうしたんですか?」
「南里くんも早いじゃない」
「俺はライブでのソロダンスのコレオを組んでみたので華笑先生に見てもらおうかと」
「そっかー…今ね帆乃くんが事務所でボイトレしてるよ。よかったら見学す」
「します」
食い気味に承諾すれば崇一は若干引いていた。
日曜日も帆乃はレコーディングで早くに理玖と別れた時間も早かったのでこんな嬉しいことはなかった。
* * *
事務所の奥の部屋にある防音室で帆乃はロージーからボイスレッスンを受けていた。
「はい、じゃあお腹と声の出口を意識して、出だしから」
「はい」
防音室に音が流れる。
理玖は小窓から中を覗くと、ロージーは帆乃の後ろに立って、帆乃の身体を真っ直ぐに固定し、お腹に手を当てていた。
___ 僕の声は 僕の声は 僕の声は 聞こえないよ
idが初めて発表した曲である「僕の声は」を歌っていた。
冒頭から高音で滑らかなメロディーは女子でも歌うことが難しいらしい(鈴野 唯・談)
「だめだめぇ、もう一回」
「はい!」
「これ歌った時の気持ちを、遠くにいる南里ちゃんに訴えるように! 切なく、綺麗に届ける意識よ!」
「はい!」
もう一度冒頭から歌い始める。
ただ声を出すだけでなく、感情が乗り、かつ滑らかな高音が聴き心地良い。
「ん? ちょっと待ってください…ロージーさんもしかして…」
「もしかしなくても気が付いてるよ。君たちの交際…ったく面白がってるよなアレは…」
理玖はその場でしゃがんでしまう。恥ずかしくて居たたまれない。崇一はそんな理玖の肩を優しく叩いた。
「まぁ…君らの正体含め世間にバレないようにしてくれればいいから。それに、君と付き合いだしてからの帆乃くん、言葉を発することに戸惑いや躊躇いがなくなって、声量も大きくなったんだよ」
(そういや…防音室で頑丈な扉越しでも帆乃くんの声が聞こえた…)
「歌うことも一層楽しくなったみたいで、全部前向きになり始めてる。これは南里くんのおかげかな」
崇一が理玖にそう伝えると理玖は立ち上がって笑う。
「あれが本当の帆乃くんですよ」
* * *
防音室の中の2人は休憩に入ったようで、崇一と理玖は防音室のドアを開けて入る。
「帆乃くん、お疲れ様」
「理玖さん…!」
帆乃は顔がパアッと明るくなって笑い、小走りで理玖に駆け寄ると理玖は帆乃を抱きしめた。
そして帆乃が理玖を見上げると理玖は帆乃の頭を撫でた。
「今日ってレッスンの日じゃないんですか?」
「そうだけど、ちょっと早く着いて香島さんに帆乃くんのボイトレ見せてもらってたよ」
「は、恥ずかしいです………でも…」
「でも?」
「また土曜日まで会えないって思ってたから、会えて嬉しいです」
帆乃も理玖と同じだったことが嬉しくて理玖は帆乃にキスをしようとした、が。
「はーい、オッサンたちにラブラブ見せつけなーい」
もちろんロージーに止められた。
「そういえばさ、南里くん」
「はい」
帆乃を離した理玖に崇一は前々から抱いていた疑問を投げかけた。
「君って、ダンスは超一流だけど…もしかして歌も歌えたりする?」
「……………………………今日はこれで失礼します」
理玖はさっさと逃亡しようとしたが後ろからロージーに羽交い絞めされ阻止された。
「あらぁー、私も興味あるわぁ♡ ちょーっと歌っていきなさい、よっ!」
理玖は圧倒的腕力に屈してしまった。
* * *
ロージーはキーボードに座って先生モードに入る。
「さぁて、南里ちゃんはどんな曲が歌えるかしら?」
「………………すいません、歌には疎いもので」
「じゃあ知ってる曲は?」
「ギリ、合唱曲…っす」
「それじゃあ面白くないわぁ。あ、idの゛snow drop”の音源持ってるでしょ? あんた死ぬほど聞いてるはずよねぇん?」
既にidのアルバム全曲のレコーディングは終了しており、理玖たちダンサーチームはコレオグラフや練習の為に発売前だが音源をデータで所持していた。
中でも『snow drop』は帆乃から理玖へのラブレターのような歌詞で、正直人生で一番リピートしていたので一字一句すべて覚えていた。
それを見抜いていたであろうロージーは意地悪く訊ねるので理玖はヤケクソになって「そうですよ!」と答えた。
作曲者であるロージーは『snow drop』を弾き始めた。
イントロが終わりに差し掛かるとロージーが「1,2,3,ハイ」とカウントを取った。
「くぅぅもり、ぞぉらーをぉ、わぁる? ひかりぃがぁ」
コントかと思うくらいの音程の外し方にロージーは伴奏を止めた。
「いやあああああああぁぁぁぁぁ! み、南里ちゃん! あんた奇跡レベルの音痴よ!」
幼い頃から音痴は自覚していたので今更そこに恥ずかしさはなかった。
ただ、帆乃の前で醜態をさらしてしまったことがショックでその場で膝をついてしまった。
「み、南里くん……その、ひ、人には向き不向きってあるから、ね?」
「香島さん、何笑ってんスか」
「あんたの姉さんからの情報は本当だったのねぇん。ダンス以外の芸術がぜーんぶポンコツだって」
ロージーも理玖の姉と親交があったらしく、知らぬ間に自分の弱みを暴露する姉に腹が立って仕方がなかった。
「南里くんは、別のことでidのプロジェクトに貢献してくれればいいから。この前の作詞だって物凄くよかったよ」
崇一は落ち込む理玖にフォロー入れまくる。
帆乃はそんな理玖のみじめな姿に耐えきれなくなって、理玖に駆け寄って抱きしめた。
「俺は…理玖さんの声、大好きです」
「………ありがと、帆乃くん」
理玖は帆乃を抱きしめ返してこのままキスをしようとしたが、グイっと首根っこを掴まれて帆乃から引き剥がされた。
「ぐえぇぇっ!」
理玖を掴んでいたのは、とんでもなく怒りのオーラを纏った華笑、その隣では無表情のナノハが仁王立ちしていた。
「人に頼み事しといてこんなとこで油売ってんじゃねーよ、雑魚が」
ナノハから放たれる罵詈雑言は相変わらずストレートで理玖は心が抉られた。
その直後に帆乃には美しく笑うもんだから崇一とロージーはそれに恐怖を感じる。
「うふふ…頑張ってるわね、帆乃くん」
「は、はい」
「あなたの素敵な歌を完成させる為に、この馬鹿鍛えておくからね」
「ナノハ、さん…」
「今日のコレオが最悪だったら容赦しないわよ」
「ひぃぃぃぃいいい!」
理玖はすぐに荷物をまとめて先に事務所をあとにした。
「ごめんね帆乃くん、邪魔しちゃったわね」
「いえ。あの華笑さん、ナノハさん…」
「ん?」
「どうしたの?」
帆乃は去ろうとした2人を呼び止めた。そして不安そうな顔を向けてお願いをする。
「理玖さんは本当に頑張ってるので…その、もうちょっと優しくしてあげて下さい…」
そう言われてナノハと華笑は顔を見合わせておかしく笑った。
「優しくは、ねぇ」
「無理ですよねぇ」
「えぇ…」
帆乃が泣きそうな顔になるとロージーが帆乃の肩を叩く。
「この2人は、本気で良くしようとするものに対しては厳しくしかできないのよ。それは南里ちゃんもプロなんだから知ってるわよ。あなたのその思いやりは大事だけど、この場では必要ない思いやりね」
「ロージーさん…」
「帆乃ちゃん、あなたもプロなの。南里ちゃんはidを支えるためじゃなくて、egoというアーティストとして厳しさに耐えてるの。互いに支え合うことが一番素敵だと思うわ」
「はい…」
帆乃はロージーの言葉で笑顔を戻すと、華笑とナノハに頭を下げた。2人は「さ、愛のある指導をしましょうか」と意気込んで事務所をあとにした。
「私たちも休憩終了よ。もうひと頑張りしましょ」
「はい!」
一層気合を入れてボイストレーニングを再開する。
そして、夕方、同じビルの地下では一人の男の悲鳴が聞こえてきたとか……
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