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番外⑥ 帆乃のダンススキル
梅雨が明けた頃、『turn up!』のミュージックビデオ撮影が行われる。
今までのidのミュージックビデオは基本的に半日で撮影が終了していたが、今回はidの初めての円盤リリースということでプロモーションも気合を入れているのだろう。
idのソロカット、ダンサーのみのカットと既に別日に別のスタジオで完了していた。
そしてこの日は最後のカット、ダンサーと帆乃が一緒にライブハウスのステージにセットを組んで撮影をする。
前回の『sky high』では1カット撮影だったのが打って変わって今回の曲は複雑なカット割りをされているので、理玖と帆乃はあまり慣れない環境下での撮影だった。
「ふあぁ……だっめだ、眠い」
スタンバイ中はライブハウスのロビーが控室になっていて、ダンサーたちは各々ストレッチを始めていた。そんな中、理玖は大きなあくびをする。
「理玖くーん、そんなあくび見られたらナノハさんに蹴られるよー」
「まぁでも気持ちは分からなくないよー、集合が朝の7時だしねー」
「それに、偶然なのか、主役サマもお眠のようだし」
理玖と一緒にストレッチをしてたダンサーたちは理玖をからかいつつ、視界に入ってきた帆乃の方にも目をやる。
帆乃は同じ空間の中で衣装に着替えを既に済ませて、今はヘアメイクをされている。美顔器で保湿をされている中うつらうつらとし始めてメイクさんに何度も顔を固定されていた。
そんな帆乃の姿を見ると、理玖は少しだけ笑ってしまった。
「あ……idさん、ここ、首のとこと鎖骨、コンシーラーとファンデで隠しますね」
メイクさんにそう指摘されると帆乃はバッと目を覚まし、鏡で自分を見た。
(あ……)
その鬱血に覚えがある理玖は「さぁてと、ストレッチ完了ー」と言いながら立ち上がってダンスの練習場所にしている2階エントランスへ向かい階段を駆け上がった。
そんな理玖の背中を見て、顔を赤くしてしまった帆乃は頬をぷぅっと膨らませた。
今の帆乃は素顔が見える程にすっきりした髪型だったため、エクステを付けてミステリアスな風貌になった。
1階ロビーに降りるダンサーたちは完成したidを見るたびに「おぉ…」と驚く。特に女性陣から帆乃は写真攻撃を受けている。
「帆乃くんかわいー♡」
「ふえ…か、かわいい? ですか?」
「んー…私は素顔の帆乃くんの方が好きだなぁ」
「idって間近で見るとこんな感じなんだぁ…」
「あ、あんまり見ないで下さい……は、恥ずかしいです…」
メイクが崩れない程度にほっぺをプニプニしたり、イヤリングを装着する前の耳たぶをプニプニして女性たちは帆乃を愛でる。
その様子を階段で座りながら男性陣は見ていた。
「理玖くんよぉ、昨夜はどんだけハッスルしてんの」
「いや、あんな、ねぇ…露出ある衣裳とは思わず」
「俺らの衣裳見りゃ予想はつくだろ。ナノハさんにバレたら拳骨じゃすまねぇぞ。あーあー知らねー」
今回の衣裳は、男性はVネック、女性は丸ネックで首と鎖骨を露出し、そこにラメやストーンを貼り付けた衣裳とメイクだった。帆乃も首元が露出し、シルバーのチョーカーをはめていた。
「あー、やっば、エロいなぁ」
「マミーさん、そんなこと思ってませんよ俺」
そんなこんなで撮影場所であるステージの準備ができたようで演者は呼び出された。
* * *
場当たり、テクニカルリハーサルを終え、いよいよ本番が始まる。
ナノハたちがidを円で囲んで壁になり、egoだけカメラの前で始めのポーズをとる。音楽が鳴りだすとegoが動き出し、それに呼応するように他のダンサーも動き出し、idの姿が出てくる。
egoの表情は挑発するような不敵な笑みを浮かべていた。idはまだ下を向いている。
歌が流れだすと、idは口を動かす。
___ここから始まりどこまでも追われる 音の歪みに心も弾むのは
___理性が壊されて自我もこじ開けられて
idは歌いながら自分の前にいるダンサーたちを押し退けて歩みを進める。
___本能が 本能が 求めてんだよ この音を
先頭にいたegoをあざ笑いながら押し退けるとくるりと反対を向き、ダンサーたちと対峙する形になる。
___ここから始まりどこまで追われる
___どこまで追われてどこから追いかける
egoをセンターに踊るダンサーたちに向かってidがガンフィンガーを向けて撃つと人差し指だけを上に向けて、「グルグル」の歌詞に合わせてクルクルと回す。
1番のサビ前まで終わりカットがかかる。
「映像チェック入りまーす」と助監督が声をかけると、演者たちは一度リラックスし汗を拭いたり水分補給をする。
「うぅ……」
ストローで水を吸い込みながら帆乃は不安そうな顔をする。メイクを直してもらった理玖が帆乃の近くにやってきた。
「帆乃くん、どうしたの?」
「次、ですよね…お、俺が踊るの…」
今回のミュージックビデオで帆乃は最初のサビのシーンで理玖とダンスバトルのような振付が与えられていた。
ダンス未経験の帆乃に合わせた簡単なターンなどで構成されていたのだが、いつも理玖のダンスを目の当たりにしていたので自分は足を引っ張るのでは、と怖くて震えまで出始めた。
そんな帆乃を理玖は帆乃が持っていた大きめのタオルを奪い、それ越しに抱き締めた。
「大丈夫だよ、あんなに練習したし…ね? ナノハさん達も褒めてたし、自信持と?」
「理玖さん……」
理玖の心音とぬくもりだけで不安がスーッとなくなった帆乃は理玖を見上げて微笑んだ。
「頑張ります、ね」
「うん、頑張ろう!」
そう声を掛け合って、もう一度帆乃を抱きしめると、助監督から「次のシーン行きます」と声がかかる。
1番サビのシーンは、ステージ上にidとegoが向き合ってダンスバトルをする、というものだった。
「idは上手の3番、egoは下手3番に立って」
リハーサル通りに2人は位置について、深呼吸をしながらお互いを見つめ合うとなんだか嬉しくなって笑ってしまった。そんな甘々な雰囲気に他の演者たちは笑うが、振付師の華笑は違って「ego! 顔が緩んでる!」と注意する。
理玖はメイクを崩さないように、顔でなく脇腹を叩き気合を入れなおす。
「よし、音楽流すから雰囲気作って。いいか、バッチバチにやってくれよ」
今回も監督をやってくれる小泉からの指示で一気に2人は緊張し、一緒に目をつぶって一緒に目を開けると、もう2人は恋人でなく敵同士になった。
idとegoの呑み込まれそうな雰囲気に、見守るナノハも一筋の汗が流れる。
(理玖……なの? 何これ…idの雰囲気に負けてない…)
「よーい…音ぉ!」
小泉の掛け声でサビの少し前から音が流れる、理玖は足で小さくカウントを取り、帆乃はスッと理玖に手を向けた。
* * *
サビのシーンは一発オーケーが出て全員で映像チェックを行う。
「すっごいじゃーん帆乃くん!」
「ちゃんと理玖くんの動きについてってるよ」
「つーか理玖くんのが引っ張られてる感もあるよな」
ピリピリした本番から一転、緊張から解き放たれた帆乃と理玖はバテて息を整えながら水分補給をしていたところに映像を見たスタッフや演者から次々と声を掛けられる。
「帆乃くん、よくできたわね」
「ナノハさん…」
ナノハも帆乃の頭を優しく撫でて褒めたたえた。帆乃は顔を赤らめて「ありがとうございます」と小声で返した。
「それに比べて……理玖っ!」
「はい!」
「情けないわね! あんたからダンス取ったらゴミカスでしょ⁉」
「ご、ゴミカス…」
「次からのシーン、idに負けるようなパフォーマンスしたら、ただじゃおかないわよ」
理玖だけが感じていたidに負けそうになっていたegoの表現をナノハが見抜いていないはずがなかった。しっかりお説教をされて理玖は不貞腐れるように水を飲む。
「あーあ、南里くん、しっかり説教されたわね」
「華笑先生…」
「まぁ、idに対峙できるだけ偉いわよ。明日からライブに向けてまた一層厳しくいかないとね」
「ひぃぃぃ!」
華笑からの地獄宣告に理玖は震えた。
理玖の様子を見た帆乃は小さく駆けて、理玖を後ろから抱きしめる。
「理玖さん……」
「帆乃くん…」
「あの、あのね…俺、すっごく、ドキドキしました。理玖さん、すごくかっこ良くて…世界で一番カッコいいです」
「帆乃くぅん…」
精神的ダメージからの帆乃からの言葉は心にしみ、理玖は帆乃の方を向いてぎゅーっと抱きしめ返す。
「あと半分くらいだし、これで頑張れるわぁ…」
「り、り、理玖さん…! みんないます、から…っ」
「大丈夫だって、ね?」
「き、キスは駄目ですからねっ!」
帆乃は理玖から離れてとっととメイクさんの元へ行ってしまった。ミニ扇風機に当たっていることから、顔が熱くなっていることが窺える。
理玖がずっと帆乃を見つめていると、帆乃は恥ずかしそうに理玖を見て笑った。
「マミーさぁん、私も彼氏ほしぃぃい!」
「俺に言うなよ…」
「甘すぎてゲロ吐きそうだな」
「いいじゃないですかぁ、青春って感じ、私好きですよぉ」
甘い雰囲気の2人を温かく見守る現場であった。
* * *
全ての撮影が終わったのは午後8時過ぎで、スタッフも演者も急いで撤収をしてライブハウスをあとにした。
「お疲れ様でしたー!」
理玖もヘトヘトになり、一刻も早く家に帰ってシャワーで汗を流したかった。急ぎ足で最寄り駅へ向かおうとすると、シャツの裾を引っ張られた。振り返ると、帆乃が息を切らして理玖を引き留めていた。
「帆乃くん? どうしたの?」
「あ、あの……えっと……その…」
帆乃はフルフルと顔を横に振って、今度は理玖の手首を握ると、上目遣いで理玖を見つめる。
「今日、泊まったら…迷惑、ですよね?」
理玖は帆乃のおねだりに鼻血を出しそうになるが、どうにか堪えて帆乃を抱きかかえ喜びを爆発させた。
「俺も今日は帆乃くんと一緒にいたいって思ってたから嬉しいよ」
「り、理玖さん…っ⁉」
「めっちゃイチャイチャしたかったから、いいよね?」
「い、いいですけど……ちょっと、これ…恥ずかしいですよぉ!」
理玖は帆乃を抱きかかえたまま、駅に歩き出して現場をあとにした。
「いやぁ…ラブラブだわ」
「今日の演技からは想像できないくらいラブラブだわ」
「やっぱり私も彼氏ほしぃい!」
主役コンビを大人たちはずっと温かく見守ってましたとさ。
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