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第7話
チョコを溶かし始めてから動きがなかった希望が、ついに動き出した。
火を止めて、またごそごそ、がたがた、と音がする。
それから、ゆっくり、一歩一歩、キッチンからリビングへとやってくる。
思っていたより早かったな、とライは不思議に思った。
待っている間パソコンを開けて作業していたが、珍しくあまり進まなかったし、進める気もなかった。
希望がソファの近くまで来て立ち止まったので、ライは顔を上げる。
希望は両手にミトンをつけて、大きめの鍋を持っていた。
てっきりハロウィンの時のように細工の凝ったものや馬鹿みたいに飾り付けられたチョコで武装してくるかと思ったが、どうやらチョコを鍋で溶かしてそのまま持ってきたらしい。
チョコの量が量だったので、ケーキやクッキーやらチョコ関係のものを何種類も作るものだと思っていた。
予想より早かったのは、チョコを溶かしただけだったからのようだ。
希望は唇をぎゅっと結んで、やや不満そうな顔のままだった。
こうして改めてみると、希望は整った顔立ちをしている。
いつも笑ったり泣いたり怒ったり表情豊かで、きゃんきゃん吠えているから気づきにくいが、きゅっとつり上がった目尻と長い睫毛で縁取られた眼差しは強くて鋭い。凜々しい眉や厚めの唇も、それをより際立たせているように感じた。
そうだ、希望は本来頑丈で、気丈な男であったとライは思い出した。
そんな希望はじっとライを見つめている。
ライがそのまま待っていると、ずい、と鍋を突き出した。
「ライさんにかけてたべる」
ライは希望をしばらく眺めた後、視線をパソコンの画面に戻した。
希望が、一歩近づく。
「チョコを、ライさんに、かけて、たべる」
……聞き間違いじゃなかったか。
ライは八カ国語の言語を習得しているが、二回聞いても希望の言葉の意味が分からなかった。
ライはもう一度希望へ視線を向けた。
希望はライと目が合うと、少し寂しそうに瞳を曇らせて、悲しそうに眉を寄せた。
「……ライさんから本命チョコ貰いたかったけど、ライさん嫌なんでしょ……。こういうのは、無理強いするの良くないもんね……。欲しかったけど……、嫌なら、しかたないもん。諦める」
希望はうるっ、と涙を滲ませた。
「だから、ライさんにチョコかけてたべる」
どこからの『だから』だよ。
バグったのか?
希望の支離滅裂な言動に、ライは珍しく悩んでいた。
ライはチョコが嫌いだ。チョコだけではなく甘いものはすべて嫌いだ。
チョコの匂いさえ甘ったるくて好まない。
触れたくもない。
けれど、希望の言う『ライさんにかけてたべる』というのが気になって仕方なかった。
それがどういうものなのか、非常に興味があった。
というのも、ライの人生の中でそんな状況は今までなかったし、そんな台詞を聞いたこともなければ、もちろん考えたこともなかったからだ。
だから、希望はいったい何をしようとしているのかライには想像できなかった。
どうするつもりなのか、何がしたいのか、ライにはわからない。
『ライさんにチョコをかける』と言っているから、そのままの意味なら、チョコをかけるつもりなのだろう。あの溶けたチョコを。熱されて、熱々のどろどろのものを。
熱してあって、ある程度粘度もある液状の物質を身体にかけるなど、拷問に近い。いや、ほぼ拷問である。
そう考えると、希望が言っていることは、脅迫にも聞こえた。
希望がそんな脅迫じみた、人を痛めつけるようなことを言うのは珍しい。
確かに希望は降りかかる火の粉は全力で振り払うし、ライに刃向かう時も、誰かとの話し合いで解決しない時も、拳で解決するような男だ。そういう物騒な『平和主義』の希望だが、拷問めいたことを言ったことはない。ひと思いに仕留めるタイプだ。
だから珍しいし、面白い。興味深い。
絶対にろくなことにならないことはわかるし、予想できるが、好奇心が刺激されて堪らない。ライは幼い頃から、知的好奇心に溢れ、それがどんな残酷なことでも興味を持ったら抑えられないことが多かった。
そういうわけで、ライは少しだけ、本当に珍しく悩んでいた。
しばらく考えて、ライは再び希望を見た。
希望はライが黙っている間も待っていて、鍋を持ったままそこにいた。
瞳はいつもより更に潤んでいるが、悲しみや怒りで潤んでいるのとは少し違うようだった。
何度もパチパチ、と瞬きをして、目の下がうっすらくすんでいるように見える。
いつもはほんのりピンク色の頬も、なんとなく色が悪い。
そういえば、あの馬鹿みたいな紙の束は「寝ないで作った」と言っていた。
仕事も立て込んでいて、休みも少なかった。
希望がやたらと機嫌の悪い理由が、ライにはわかった。
ライは立ち上がって希望に近づく。希望はぼんやりとしていて、ライが目の前に立ってようやく、びくっと身体を震わせた。
希望は驚いたようにライを見上げたが、すぐに、キッと潤んだ瞳で睨む。
けれど、ライは希望の手から鍋を取り上げてしまった。
「あ!! かえして! かえして!」
キッチンへと鍋を運ぶライを、希望が追う。
「かえして! チョコ、ライさんにかけてたべるんだからぁ! かえしてよ!」
希望はライの背中をぽかぽか、と叩く。かえして、おれのチョコ、かえせ、と希望がぽかぽかと殴る。ライは無視してコンロの上に鍋を置いて、振り向いた。希望はびくっとまた震えた。
ライは希望の肩を抱いて、強引にキッチンから出て行く。
「やだっ! なにするの! やめて! チョコかえして!」
じたばたと暴れる希望を、ソファに座らせる。
「……ここで待ってろ」
ぐっと肩を押さえる。希望はライの強い力に、座らざるを得なかった。
大人しく鳴った希望を置いて、ライが再びキッチンに向かおうとすると、手を掴まれて止まる。
希望がじっとライを見上げて、瞳を潤ませる。
「……おれのチョコ、すてちゃうの?」
悲しそうに眉を寄せて、声を震わせる。
ライはそれに答えず、希望の手を振り払ってキッチンへと行ってしまった。
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