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scene02-01 いたいけペットな君にヒロイン役は(2)

 桜木大樹が五歳のとき、母親は病に倒れて若くしてこの世を去った。  それからというものの、大樹は他人に対してすっかり心を閉ざすようになってしまった。  唯一の肉親である父親との仲もうまくいかず、孤独な日々を送っていたが、幸運にも救いの手はすぐに差し伸べられたのだった。  ――“彼”との出会いは、学童保育の場だ。  両親共働きや片親といった、さまざまな家庭の児童が集うこの教室でも、大樹は孤立していた。ずっと俯いていて、話しかけられても何も返さないのだから無理もない。  母親を亡くしているのは周知の事実であり、周囲も気遣ってか、それ以上追及してこなかった。……ただ一人を除いては。 「だいきくんっ、あーそーぼーっ!」  言うまでもないが“彼”とは戌井誠のことである。  無視していると、すぐにパッと他の児童のもとに行くのだが、いつも決まって真っ先に声をかけてくるのだった。毎日毎日、何度無視されても懲りもせずに。  そのうち根負けして誘いに乗ってみたら、ぱあっと心から嬉しそうな笑顔が返ってきて、ドキリとしたのを覚えている。  始まりは、間違いなくそこだった。  彼の笑顔を見るだけで、胸があたたかくなって自然と笑うことができたし、心地の良い安堵感を得られた。自分の居場所はここなのだと子供ながらに感じ、いつも一緒にいるのが当たり前になっていた。  けれども、思春期を迎えると、その感情も様変わりする。  最初はもちろんのこと、彼に対する恋愛感情を否定した。これは本当の恋ではなく、多感な時期によくあるだろう思い違いだと。  自分の場合は、ラブロマンスを描いた映画を好んで見ていたせいだろう。映画のような恋愛に憧れ、身近で一番好意を寄せている相手に対して錯覚を起こしているだけだ。  だが、それで納得できていたら今の大樹はいない。  どうしようもなく自分は彼に恋をしている――自分を救ってくれた笑顔を思い返せば、そうとしか思えなかった。 《最高の愛は魂を目覚めさせ人を成長させる。心に火をつけ精神に平安を与える。君がそれをくれた》  ――特に胸を打たれた映画『きみに読む物語』。主人公がヒロインに送った手紙の内容が、ずっと頭の中にあった。     ◇  大樹の想いが報われて、はや二ヶ月。 「大樹のオムレツって、なんでこんなうまいんだろ~っ」  今日も、朝から元気な声がダイニングに響く。  朝食を口いっぱいに頬張りながら、至福のひと時を過ごす恋人。その姿を見て、自然と頬が緩むのを感じた。 「行儀が悪い。あまり口に詰めこむなよ」  注意するも、ついやんわりとした言い方になってしまう。  こうして生活をともにするようになってから、食事の類はすべて大樹が管理していた。  誠に好き嫌いはこれといってなく、なんでも「うまい!」とにんまり微笑んでくれるものだから、作り甲斐があるというものだ。 (こんな日が来るとは思わなかった)  ポーカーフェイスで誤魔化しているが、間違いなく自分は浮かれているだろう。  いや、長年片思いしてきた相手とこのような関係になれて、浮かれずになどいられるものか。  幼い頃からひたすらに想い続けてきたし、恋焦がれて苦悩した日々もたくさんあった。それが今では――と思うと、幸福感で胸がいっぱいになってどうにかなりそうだ。 (このバカは、どれだけ好かれているのか知らないんだろうけど)  いつまでも見つめているわけにもいかず、朝食のトーストを口に運ぶ。最近、どうにも見つめる時間が長くなって仕方なかった。  恋人ができると、世界が色づいて見えるとはよく言ったものだが、本当に些細な日常の出来事でさえ愛おしく思えるのだから不思議だ。  そのようなことを考えていたら、また意図せず視線を向けてしまった。 (……ガキだな)  誠の口元に、いつの間にかケチャップが付いていた。やれやれとティッシュを一枚引き抜き、拭ってやろうと手を伸ばす。 「付いてる」 「!」  誠がビクッと身を硬くしたので、思わず手が止まった。 「いいよ、自分で拭くから」  目を逸らしつつ、誠はティッシュをひったくるように取る。 「そ、そうか」  対する大樹は、やり場のなくなった手をぎこちなく下ろした。  口元を拭くのは今まで散々やってきたし、別に珍しい行為ではないはずだ。拒否されたのは初めてな気がした。 「そーいや、今日は映研の撮影だよな。四限終わったら参加するけど大樹は?」 「俺も、ちょうど四限終わったらだな」  受け答えするも、内心はそれどころではない。 (浮かれているのは俺だけか?)  まさかとは思いつつも、ここしばらくハグやキスといった――ましてやセックスだなんてあのとき以来まったく――恋人らしいことをしていないのは確かだ。それらの行為をしようとすると、決まって顔を背けられていた。  こちらはともかくとして、彼としては、長いこと親友として付き合ってきた相手なのだし、突然付き合い方を変えるというのも無理な話だ。体を重ねたときは、おそらく熱に浮かされていたのだろうが、平常時では簡単にいくはずもない。  そうあれやこれやと理由付けして納得し、無理強いせず、相手の意思を尊重しようと、これまでどおり世話を焼くだけにとどめていた。しかし……、 (一向に許してくれる気配がなく、ずっと自制心と忍耐力を試されている。まさか、今になって後悔してるとか言わないよな?)  あの告白は場の空気に流されて、ということだったら目も当てられない。考える時間を与えずに、衝動のまま抱いてしまったのはまずかったかもしれない。  仮にそうでなくても、いざこうして付き合いを始めたら一気に冷めて云々、というのもよく聞く話だ。付き合って数か月で別れるカップルなんて山ほどいる。 (いや、そもそも自分たちの関係は一般的なそれとは違うか)  同性同士の恋愛は、やはり難しいのだろうか。  決して表には出さないが、なんともすっきりしない気分で朝食を終えて、大学へ向かうのだった。

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