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一,玻璃乃

 長く長く伸ばされた黒髪の毛先が、穏やかな潮風になびき踊る。砂浜に広げられた敷物に腰を下ろす壺装束の少女は、海へ向かって感嘆の溜息をこぼした。 「浜で読む『うみをとめ』は、格別に良いものですわね……」  貴族の姫・玻璃乃は、そう独り言ちながら、書を静かに閉じる。そしてそれに合わせるように、うっとりと瞼をも閉ざした。潮の香る海風が、頬を優しく撫でていく。 「あの……姫様」  そんな姫に向かって、中年のやや脂ののった婦人は恐る恐るといった様子で声をかける。彼女がこうして趣味の読書に没頭している際に、あまりしつこく声をかけると機嫌を損ねるのをよく知っているからだ。  そうするとまた、気分が悪くなったと言って暫く寝所に籠って物語に没頭する。食事も取らずにだ。 「……そろそろ日も高くなってまいりましたし、館に戻りませんと」 「わかっているわ」  しかし姫はまだ、愛読書である『うみをとめ物語』の書を抱きしめながら、海のさざめきに耳を傾けているようだ。この玻璃乃という姫君は数えで十六になる年頃であるが、いまだ実家の庇護のもと、こうして物語に酔って暮らしている。  本来であれば十四を迎えた頃には、彼女も許嫁の元へ嫁いでいたであろう。 「療養にいらしているのに……熱に中てられて倒れでもしたら、旦那様に叱られてしまいますよ」  というのも彼女は体が弱く、療養のために嫁入りを先延ばしにしているのだった。 月ノ輪王朝の世を生きる姫は、婚姻相手である夫の家に招かれ、そこで余生を過ごすのが慣例とされている。しかし、それをするには、玻璃乃の体はどうにも弱いのだった。 「……今朝もなかなか起きられなかったではありませんか」  実際どこがどう悪いのかと問われると、彼女自身困るところなのだが、とにかく思うように動けない。胸の辺りに重い心地がして、頭が痛く、家を出るという気にはとうていなれなかった。医者にもかわるがわる診せたが、やはり何も変わらない。  この様子で嫁入りをしたとて、妻としての役目を果たすのは難しいだろう。  そんな体を癒すため、真夏には猛暑の都ではなく、風のほどよく乾いた海沿いの別宅に滞在していたのだった。 「はあ……すみれときたら、わたくしと共に叱られるのが嫌なだけでしょう?」 「姫様……!」  すみれと呼ばれる玻璃乃の侍女は、その白く丸い頬を朱に染める。耳挟みにした髪を一層耳の後ろへ流して仁王立ちになると、じっと玻璃乃を見つめた。  このすみれという女は、以前は宮で女房をしていたらしい。それもそこそこの姫の教育係との噂だが、宮中の堅苦しさに耐えきれずこうして一貴族の姫に仕えることにしたとか。しかしそれすらもひけらかさず、気取らない婦人は、玻璃乃にとって気の置けない存在だった。 「……分かりました。館に帰りましょう」  玻璃乃は諦め、書を抱きしめ直すと浜に敷いた布から立ち上がる。 「ねえ、すみれ。明日は市が立つでしょう。また都から絵巻が……すみれ?」  そしてすみれを見遣ったものの、彼女の視線は波の方に縫い付けられるように固まっていた。怪訝に思い、もう一度声をかけようと口を開こうとすると同時に、すみれもまたぽそりと疑問を零した。 「どなたか……舟遊びでもされているのでしょうか?」

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