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二,小舟

「舟遊び?」  その視線をたどっていくと、ふらふらと浜辺に近付いてくる小舟が一艘。揺蕩うように揺れているが、そんな優雅なものではない。よくよく見据えれば破損が激しく、半分ほど沈んでいるように見えた。 「すみれ、持っていなさい」  大切な『うみをとめ』を託すと、玻璃乃は裾が濡れるのも構わず波打ち際に飛び出した。あっという間に草履が海水を染み込んで重くなる。 「姫様! いけません! 危険です!」  すみれが悲鳴のように叫ぶが、玻璃乃は果敢にも小舟へと手を伸ばしその底を覗き込んだ。沈みかける小舟は、波打ち際では暴れる馬のようにゆらめいている。 「人が倒れているわ! すみれ、手伝ってちょうだい!」 「で、でも……」  体の弱い姫は、その細い腕で小舟を砂浜へ寄せようとしている。しかしすみれは、そんな玻璃乃の行動に頭がついていかない。 「すみれは、わたくしが『春の微睡み』の辰の君のように、非情な姫でもよいと言うの? わたくしは、後悔せずに義を貫く『金剛物語』の黒澤姫になりたいわ!」 「わ、分かりました……」  やたらと物語で例えられても、それがすみれに伝わることはない。なにせ読んだこともない偏執的な書名である。  しかしこうなっては止めることはもはや不可能だと、すみれは預かった書を自分の荷と合わせて置くと、玻璃乃の元へ向かった。  二人の女性が、ぼろぼろになった小舟をなんとか陸に着け、そこに横たわる人を覗き込む。  玻璃乃はその瞬間、息を呑み込んだ。  そこに横たわるのは――見たこともない、美しい人だった。瞼を縁取る長い睫毛に、梔子染めを施したような砂色の髪、青白い頬。  その人は見慣れぬ異国の装束をまとい、眠るように、しかし苦し気に瞼を閉じていた。 「大丈夫、ですか……?」  すみれは恐る恐る手を伸ばし、その白い頬に手の甲をつける。そして伝わったその体温に、すみれは呼吸を荒くして声を上げた。 「い、生きてます! でも、どうやら熱があるみたいで……」 「わかったわ、館に運びましょう」 「正気ですか!? どこの馬の骨とも分からぬ者を連れて帰るなど、それこそ旦那様に知られたら……!」 「う……」  美しい漂流者が、短く呻く。震える瞼が薄く開かれるが、瞳を覗かせる前に再び閉ざされる。 「しっかりなさって! もう大丈夫ですわ」 「……你……、耶……」 「え?」  耳に届いた言葉は、おそらく異国の言語だった。しかし意識が朦朧としているのか、その声は唇の手前で消えてしまったように途切れた。 「このまま、放ってはおけないわ。お願い、手当くらいさせて」 「姫様……」  「……それに、わたくしにはどうしても、」  玻璃乃はわずかに迷うように唇を開きかけ、一度閉ざすが、再び息を吸うために開いた。 「この者が……海乙女のように思えて、ならないの」  そこですみれは、再三にして玻璃乃から語り聞かせられたうみをとめ物語の一節を思い出した。  ――悲憤に暮れる海乙女。ついに小舟に飛び乗ると、海原へ帰るように、その櫂をかきだした。と。  ひとり、海へ還った人魚の姫君のその後は、作中に語られてはいない。  それから彼女がどうなったか。誰にも分からない。答えなどそもそも用意されていないのだろう。

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