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三,もたぬ人

「……分かり、ました」    女手二人で意識を失いかけた人魚を運ぶというのは、いくら館が浜の近くとはいえ、一苦労であった。  西の対を持たぬ小さな寝殿造。静養地としている館へなんとか辿り着き、余り物の夜具に寝かせると、その人はちょうど気を失ったようだ。  すらりと伸びた青白い手足が、力なく褥に落ちる。  単衣や狩衣とも違う、ゆったりとした不思議な装束。すっかり潮を含んだそれを、すみれは脱がしにかかる。  玻璃乃が手ぬぐいや着替えの衣を広げていると、すみれは小さく悲鳴を上げた。 「どうしたの?」 「あ、い、いえ……この方って……一体……」  はらりと開かれた袷から覗く腿……その付け根付近には、なにもない。その体は、性器らしきものを失っていたのだ。  女性かと思えばどこか堅く、男性かと思えばどこか柔和で、どちらとも捉えられない不可思議な外見であった。その要因はこれだったのかと、玻璃乃とすみれは戸惑いに目を合わせた。  月ノ輪においては一般的でない行いであり、彼女たちにはそれがどういう意図のものなのか。まったく分からなかった。 「ま、まさか本当に、この方は人魚なのでしょうか……?」  ついには、すみれまでがそんなことを言い出して仕舞うほどであった。 「……とにかく、着替えさせましょう」  一先ずは、すみれの衣を着せておくとして、真相はすべて当人が目覚めるまで待つこととなった。  玻璃乃はその日から、熱心に彼の人の看病を始めた。自らも療養の身だというのに、寸暇も惜しんで身の回りの世話をし始めたのだった。 「綺麗な髪……海乙女の髪って、こんな感じなのかしら」  砂色の髪は水中に咲く花のように揺れる――その人の、緩やかな波を打つ髪に微かに触れてみる。  柔らかで、滑らかな絹の糸のような心地が、指先に気持ちいい。 「はやく目覚めて、あなたのことをわたくしに教えて」  玻璃乃にとってこの佳人は、まるで物語の登場人物が目の前に現れたかのようで、まさに夢見心地であった。どこの誰かも分からない恐怖や不安は、不思議と一切抱くことなかった。ただ切に、その目覚めを願う。   「ふふ、貴女はわたくしの自慢の娘。玻璃乃が幸せなら、母はどうなっても構わないわ」 「お母様……」  艶々とした黒髪を、母のやせ細った指先が梳いては撫ぜていく。それは母が儚くなる前日の言葉だった。 「玻璃乃も、お母様が幸せなら、なんでもします……だから、だから」  どうかいなくならないで。今まで、何度も何度も夢の中で繰り返した台詞を、今日も虚しく繰り返す。   「おかあ、さま……」  熱く流れる涙。もう幾夜を、こうして母を想って泣いただろう。 「ん……すみれ……?」  そっと、下瞼を撫でる感触に、玻璃乃は慌てて目を開いた。  意識がはっきりと覚醒する。どうやら看病をしながら、眠ってしまったようだ。 「えっ?」  触れていたのは、玻璃乃の目の前に現れた人魚だった。 「泣かないで。笑ってください」  そう言うと、人魚はふわりと微笑む。目覚めたその人は、とても、とても美しかった。  ようやく見ることのできた瞳は、深い海の色をしている。 「……ここは、月ノ輪でしょ?」  少し癖のある月ノ輪語。住んでいる地方によるなまりではなく、話し慣れていないことによる不自然な抑揚。  ある意味それは、可愛らしくも聞こえるものだ。 「月ノ輪語……ご存じですの?」 「はい。あまり上手ではありませんが。習ったこと、あるんです」  その人に目の前に、玻璃乃は不思議な感情に包まれた。まるで憧れの、ずっと恋焦がれていた人を目の前にしたような、少し浮ついたような感覚。  かけたい言葉が次々と喉に迫って、口をぱくぱくさせることしかできない。 「あの、あなたは――」 「まあ! 起きたのですね!」  そこへすみれが通りかかり、ようやく事態は動き出した。

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