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四,耶雉
「迷惑をおかけしました。あなた方が命の恩人、です?」
一先ず、人魚ではなく人間らしいその人は、美味しそうに粥をすすった。初めて食べるらしい月ノ輪の粥に、その人は美味しそうに舌鼓を打っている。
「僕は、耶雉といいます」
やがて落ち着いたのか、そう口を開く。玻璃乃もすみれも、内心でほっとしていた。拙い発音ではあるが、月ノ輪語が通じる安堵だ。
「僕は、黎星国の宦官です」
「かん……、がん?」
聞き慣れない言葉を、言い慣れない声にして玻璃乃は問いかける。すると、耶雉と名乗った人魚はふわりと微笑んだ。
「着替えのとき、体を見たでしょ?」
玻璃乃とすみれの顔色を答えと察して、耶雉は続ける。
「僕に月ノ輪語教えてくれた方、言ってます。月ノ輪には宦官の風習、ないと」
「そう、ですね……私が知る限りでは」
すみれが恐る恐る答えると、耶雉は頷いた。
「黎星では、あることです。国に性を捧げるかわりに、仕事を与えられます」
「お仕事を?」
「そう、仕事……僕は太子さまの守役でした。城外へ出る許可が出たので、太子さまと舟遊びに出かけたんです」
「まさか、それでここまで?」
その事情に、玻璃乃は目を丸くした。月ノ輪は島国である。それも幾重にも連なる渦潮に囲まれ、いつしか閉鎖的な国とならざるをえなかったのだ。
それをあの小舟で乗り越えてきたというのか。
「はい。海が荒れて、太子さまは陸へ押し返せたんですが……僕はどうやら流れていたようです」
自分の国を離れる悲しさ、苦しさ……それらを玻璃乃はしみじみと考えた。本意でなく故郷を離れる物語は、今までいくつも読んだことがある。
海乙女も海の宮を離れたし、『吉日中納言物語』の中納言もそうだった。あらぬ疑いをかけられ都の妻子の元を離れる……そういった人物たちに物語上で出会う度、玻璃乃はその小さな胸を痛めた。ああ、寂しさに心が引き裂かれてしまいそう。
「黎星と月ノ輪、とても遠いと聞いてます。よく無事でした」
それでも平然としている耶雉を想うと――玻璃乃の双眸は、思いがけず涙に潤んだ。その真珠のような粒は、はらはらと頬を撫で落ちていく。
「ひ、姫様?」
すみれは驚いて姫を見る。むろん、耶雉も同様であった。
「あなたのことを想ったら……涙が止まりませんの。そんな遠い、海原を渡ってしまったと思うと」
「大丈夫ですよ。月ノ輪語教えてくれた先生も、命あっての物種、と言ってました」
僕には命、ありますから。と穏やかな口調で耶雉は言う。目覚めたら異国に流れ着いたという状況下で、動揺していないはずもないだろうに、彼はやけに落ち着いていた。
それが耶雉という人の性分なのだろうか。取り繕うような違和感は見受けられない。
「そういえば、その先生というのは……?」
すみれがやや身を乗り出して、問いを投げる。
「ああ、月ノ輪から黎星に流れ着いたんだそうです。外交のない国から調査に出たと言ってました」
「なるほど、そういうこともあるんですね」
しみじみ、といった様子ですみれは頷いた。玻璃乃はようやく涙の止まった顔を上げる。
「ねえ耶雉、わたくしに話を聞かせてくれないかしら。その代わりと言ってはなんだけれど、この館にいていいから」
玻璃乃の申し出に、何より驚いたのはすみれであった。とはいえ、この姫が言い出しそうなことと予測はしていたのだが。
「そんな、旦那様に叱られ……」
「お願いすみれ。だって、雨風をしのげる屋根すら耶雉にはないのよ」
どうかしら、と耶雉を改めて見て、玻璃乃は首を傾げる。
「また、迷惑をかけるわけには……」
「それでは、これからどうするつもりなの? わたくしも、何か手伝いたいわ」
とはいえ彼には、現状を打破する術は正直なかった。何より、心の底から案じる色をした玻璃乃の瞳に、断る隙さえ与えてもらえなかったのだ。
「僕は、先行き不明ですから。どうかお願いします」
「よかったわ! わたくしも、月ノ輪の風習でよければ教えます」
こうして、玻璃乃は憧れの人魚――ではないが、物語の人物のような存在・耶雉と共に暮らし始めたのであった。
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