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五,父という人
耶雉が漂流して五日ほどが経った頃。彼の体調も落ち着き、玻璃乃は月ノ輪の文化を教えることにした。
「なんて綺麗な……これはなんです?」
「貝覆いと言うの。わたくしたちの遊びの一つよ」
玻璃乃が桶から貝を取り出し、一枚一枚、彼の前に並べていくと、その青い瞳はきらきらと輝き出した。まるで子供のような瞳だった。
耶雉と過ごし始めて、気付いたことがある。彼は、普段は穏やかな青年であるが、このように自分の知らぬ文化に出会うと楽しくて仕方がないといった様子が隠せないのだ。
(まるで、妹か弟ができたみたいだわ……)
童のように表情を明るくした耶雉に、玻璃乃は思わず笑みを零した。
「こうしてね、伏せた貝をめくっていって……」
見本を示すように、玻璃乃は貝に手を伸ばす。耶雉の視線は縫い付けられるごとく、玻璃乃の手元を追っている。
「同じ場面の貝を見つけたら、自分の取り点として膝元に置くの」
「なるほど……」
「これなら絵を通して月ノ輪のことを学べるでしょう? どうかしら?」
「ありがとうございます。とても痛み入ります」
独特の抑揚と言い回しにも、玻璃乃は慣れてきた。
「ふふ、じゃあすみれも誘ってみんなでやりましょう。わたくし、呼んでくるわね」
立ち上がろうとした玻璃乃を、耶雉は遮った。
「あ、僕が行きます」
「いいの。耶雉は絵柄を覚えていてちょうだい。遊びとはいえ、公平にいくべきよ」
そう逆に押し切られてしまった耶雉は、大人しく座り直すと、目の前に並ぶ貝を覗いた。耶雉の国の彩色とはどれも違う。
黎星は極彩色のような、はっきりと華美な色付けを好む風潮があるが、月ノ輪は柔らかな色付けを好むのだった。それ故に、あらゆる色を重ね合わせてもくどくならないのだろう。
「この柄は……これと同じ?」
耶雉がしみじみと手元に注視したと同時――
「玻璃乃、入るぞ。体の具合は……」
半分ほど下げていた御簾を、烏帽子を屈ませながらをくぐった男は、その梔子色の髪を見つけてひどく目を丸くした。
「あ……」
耶雉は思わず、といった様子で短く声をもらしたがすぐに軽く会釈する。
「こんにち――」
「この妖め。どこから入ったのだ」
何気ない挨拶を口にしたところで、烏帽子の男はすでに懐刀を抜きつつあった。
「あ、あの、僕は……」
「きゃっ、お父様! おやめになって!」
悲鳴と共に、玻璃乃は男にすがりつくように飛びついた。
「なっ……! 玻璃乃、やめなさい! 分かった、分かったから……」
玻璃乃の必死な形相を見て、「お父様」と呼ばれた貴族は懐刀から手を離す。
「もう! いらっしゃるなら言ってくださればいいのに」
気安く怒る玻璃乃を見て、お父様は眉間の皺を深く刻んだ。
「文なら三日ほど前には届いているはずだが? ああ、また目を通していないのか……とすると阿古屋殿からの文も、開いてすらいないのだろう?」
「え、そ、そんな……すみれが受け取っていないのかしら? す、すみれ!」
玻璃乃はごまかすように、口早にすみれを探す。遠く漏れ聞こえる声は、だから目を通してくださいと言ったでしょう、という叱責にも呆れにも似たものだった
「ふふっ……」
そんな騒動に、思わずといった形で耶雉は笑った。
「……ところで、君は一体何者なのだ。人の娘の部屋に堂々と」
「おとうさま、ということは玻璃乃さまの父君ですか?」
耶雉が見上げながら首を傾げると、男はその視線を受けながら、騒動で乱れた衿元を直す。
「私が訊いているのだが?」
男は冷静に言い落とし、耶雉から少し離れた円座に座る。
「僕は耶雉といいます。黎星国から舟で流れてきたところを、玻璃乃さまに助けてもらいました。玻璃乃さまとすみれさまは、命の恩人です」
「なるほどな……それで? あれのことだ、物珍しさから側に置きたいとでも言われたのだろう?」
「『あれ』? 玻璃乃さまのことです?」
「そうだ」
神経質そうな声色。
深く刻まれた眉間の皺は、もう数年もその溝を解いたことはない。
「玻璃乃さまの父君といっても、あれ、は良くないのでしょ?」
耶雉はその物言いがどうしても胸に引っ掛かり、思わずそう口にする。
「……論点をすり替えないでいただきたいものだが」
やや険悪な空気が流れはじめたところで、衣擦れの音をさせながら玻璃乃が戻った。あとにはすみれも伴っている。
「お父様、耶雉となにを話しているの?」
「玻璃乃……お前こそ何を考えているのだ。療養したいと言うから別邸に一人で寄越しているというものを、異邦人など拾って」
拾うだなんて。耶雉は犬猫ではありません。そう反論しつつ、玻璃乃は男の前に背筋を伸ばして座った。
「体は治すわ……治ったら、きちんとお父様との約束も果たします。ですから、耶雉を教育係としてしばらく置かせてください」
「教育係……」
そう意外そうに反芻したのは、耶雉も同じだった。
「お願いします」
玻璃乃が、深々と床に顔を伏せる。黒髪が扇のように広がり、一種の芸術品のような美しさだ。
「聞けば、耶雉さんは御国で太子様の目付をしていたとのことで……」
すみれが助勢するかのように、付け足す。……しかし。
「…………話にならんな」
玻璃乃の父は物音も立てずに立ち上がると、部屋から出て行ってしまった。その足取りは落ち着いたもので、感情に任せた様子ではない。
「お待ちを……!」
すみれが、足早にその背中を追っていく。
「……玻璃乃さま、僕のせいで父君と喧嘩を?」
「違うわ、これは喧嘩ではないの。……もう知らないわ」
「ですが……」
「いいの。そのうちに戻ってらっしゃるから。……ねえ、ところで貝の絵は少し覚えたかしら?」
玻璃乃は仕切り直すように、ひときわ明るい声で耶雉に話しかけた。
「是愛様、お待ちください!」
玻璃乃の父――是愛は、短いため息をもらすと、足を止め振り返る。
「すみれ、まったく……君も君だ。玻璃乃の目付として何をしている」
「申し訳ございません。ですが、どうしても……」
「どうしても、と玻璃乃が言ったのか。また」
また。そう思うほど、父にはなじみのある台詞だった。幼き時分から「どうしても」と、我が儘を言うことを重々思い知らされていたからだ。
母親を亡くしてからだろうか、いつの間にか物語の世界に溺れた挙句に、世間から避けるように我が儘ばかり言うようになってしまった。
……それを叶えてしまう父も父なのだが。
「いいえ、どうしてもお止めする気になれなかったのは、私です」
すみれはぎゅっと袖口を掴むと、ゆるく胸元へ当てる。
「だって……あんなに感情を豊かにされている姫様を何年ぶりに見たか。是愛様も、お気付きではありませんか?」
そう、そうなのだ。懐刀を握った是愛を必死に止める姿や、文を見ていないと慌てる姿……本当に久しぶりに、娘の生きた表情を見た。
「とは言え……この我が儘はあまりにも……」
是愛は懐から扇を取り出すと、気を落ち着かせるように骨を鳴らした。すると、去ってきた部屋の方から、鈴を転がすような声が高らかに響き渡る。
「うふふ。可笑しいわ、耶雉ったら」
続いて、楽し気な笑い声も。
「さっきの絵はあちらに伏せてあったわよ? あら、それともこちらだったかしら?」
静かに廊下を戻り、そっと部屋を覗く。貝覆いを楽しむ娘の姿が、ひどく眩しく、ひどく愛しかった。
「………………」
玻璃乃を笑顔にしたとはいえ、素性も分からぬ青年を置く不安は当然あった。しかしこれはもう、どうしようもない。娘を持つ父、という虚しき性だった。
「此度は帰るとしよう。涼しくなったら、都の邸へ帰るように伝えなさい」
すみれにそれだけ伝えると、是愛は泊まることもせず、都へ戻って行った。
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