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六,帰京

 やがて季節は移ろい、是愛の言う風の涼しい日和が訪れた。  姫は父の言いつけを守り、療養先から生家への道中を行く。耶雉は牛車に揺られながら、その道程を楽しんでいた。  壁面に設けられた物見の小窓を浅く開けて、外を興味深く眺めている。いくら見ていても飽きない様子の耶雉に、玻璃乃は微笑ましく付き合った。  それが鬱陶しいだとか、そういう思いは一切ない。  ちょうど平民の住むあたりに差し掛かった頃だろうか、 「いやだね、お父さんったら」  中年の女性が、同じ世代くらいの男性にそう呼びかけ、大口で笑う光景が目に入る。 「玻璃乃さま……あの二人は、親子なんです?」  玻璃乃の方を振り返り、耶雉は不思議そうに問う。その呼び方は、確かに月ノ輪語になじみがないのなら、微妙な陰影に聞こえるだろう。  玻璃乃は優しく、妹弟に語り掛けるように笑う。 「いいえ、あの方々はご夫婦ですわ。そうね、なんといったらいいのかしら……愛称のようなものね。子をもった妻が、子の父である夫をそう呼ぶの。逆に、夫が妻をお母さんと呼ぶこともあるわ」 「そうなんですか」  答えを聞いた耶雉が物見を覗いた頃には、牛車は既にその夫婦から遠く離れていた。  耶雉はあの仲の良さそうな、決して飾り気のない平民の夫婦をもう一度見たいと思った。 「おかしいかしら?」 「いいえ……とても素敵だと思いました」 「そう。それならよかったわ」  そんなやり取りをしながら、三日ほどの行程をかけ、玻璃乃たちは都に辿り着いたのだった。   「さて、耶雉の住まいはどうしようかしら」  ひと月半ぶりに邸へ戻った玻璃乃が、まず気にかけたのはそこだった。  そもそも彼女は、耶雉のために世話を焼くのがとても楽しかった。教育係に、とは言ったものの、ある種の庇護欲のようなものが、玻璃乃の内に無自覚に芽生えているのだ。 「そうだわ。わたくしの対と離れてしまうけれど、釣殿も近いし、西の対がいいかもしれないわ」 「僕は馬小屋でいいですよ?」 「そんなことはわたくしが許しません」  玻璃乃の邸は全体的な造りは小さいが、きちんと北、東、西に対が設けられている。ささやかだが池もあり、西の対に向かって水の流れが走る。  姫の住空間は東にあり、すみれとそれを共にしていた。 「つりどの……?」 「ええ。池の上にある部屋なの」 「つりどの……!」  釣殿の存在を知った耶雉は、相変わらず目を輝かせ、すぐに気に入ったようだった。こうしてすんなりと、耶雉は西の対の一空間を割り当てられた。  玻璃乃は使い古しの几帳や棚、手箱を耶雉に与え、その調度を整えていった。 「姫様、こちらにいらっしゃいますか?」  ひと段落し、玻璃乃が耶雉の柔髪に櫛を通していると、すみれが几帳を覗き込む。耶雉は目を細めて微笑み、すみれを迎えた。 「あら耶雉さん、不便があったらすぐに言ってくださいね」  すっかり打ち解けた様子のすみれも、それに応える。  耶雉の人柄や境遇がそうさせているのか、すみれが意外と無頓着だからなのか。結局はその、どちらもがいい作用をしているのだろう。 「さて、姫様。此度はきちんとお返事を書かれますように」  すみれが手にしていたのは、一通の文。それを見た玻璃乃の顔が、やや曇る。 「……分かっているわ。でも」 「もう、姫様ったら。耶雉さんからも言ってやってくださいな」 「僕?」 「ちょっ、すみれ……!」  慌てる玻璃乃を気にも留めず、すみれは呆れた様子で語る。 「姫様の夫になる方です。まめに文をくれるというのに、返事の一つも書かないんですから」 「なんと。玻璃乃さま、結婚されるんです?」 「ち、違……わない、けれど、そういうんじゃなくて」  なんだか、耶雉にこのことを知られるのが嫌で仕方なかった。だからこそ今まで、彼の前では一切口にしなかったし、別宅に届けられた文を開こうとしなかった。  ここへ帰ってきた以上、知られないでいるのはまず難しいことではあるが、どうにも胸のあたりに不自然な靄がかかってやけに焦ってしまう。 「嫁ぐのはまだ先なんですけどね。というより、お体の調子が優れたら、すぐに向かわれてもいいのですけれど」  玻璃乃は、頬が熱いような冷たいような居心地の悪さに包まれ、くるりと背を向ける。 「幼い頃からの約束なんですよ。もともと仲は良い方でしたしね」 「そうだったんですね。きっといい方なのでしょ。お返事、書いてあげてください」  耶雉は可憐な色をした袿の背中に、そう声をかける。返ったのは、蚊の鳴くような細い声。 「……そのうちに、書きますわ」 「まあまあ。耶雉さん、また姫様が逃げようとしたら、縛ってでも返事を――」  重ね重ね、すみれが小言を口にしかけたところで玻璃乃は向き直り、耶雉の腕をつかむ。 「そ、それよりも耶雉。調度品だけではなくて、衣もいくらか仕立てないといけませんわ。生地を見にいきましょう」 「え? そんな……」  あからさまな態度だとは自分でも気付いていたが、姫はその場から逃げ出すように、耶雉を連れ出したのだった。

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