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九,月夜
「玻璃乃さま、しらびょうし、という方の踊りはとても素敵でしたね」
「ええ、そうね……」
宴を終え、邸に戻った玻璃乃は、廂で風に当たりながら脇息にもたれていた。
玻璃乃には、宴の記憶はほとんど残らなかった。豊穣を祈願する白拍子の舞いや、音曲の奏……断片的には覚えているが、そういうことがあった、という程度の憶えのみだ。
「玻璃乃さま……」
耶雉はうっすらと気付いた。玻璃乃が、母との死別をいまだに受け入れられていないことを。
それゆえに、貴族の男が弄ぶようにその名前を読んだことで、玻璃乃の気持が塞いでしまったと。彼女の不調の所以は、母の死にあるのだろう。
「そうだ。僕も、少しは踊れるんですよ?」
「え? 耶雉が……舞うの?」
耶雉は問いかけも待たずに立ち上がる。廂から階を通り庭へ降りると、両腕をしなやかに広げた。
「これは、黎星国で語り継がれる、仙女降臨を舞踊にしたものです。玻璃乃さまが気に入るといいですが」
そして彼は、楽の調べもないままに、その身一つで舞いを始める。ひらりと上げられた袂がさざ波のように揺れ、玻璃乃の視線を釘づけた。
耶雉が是愛邸の庭で、玻璃乃のために舞いを披露したまさにその頃。
その檜垣の向こう側に、貴族の青年たちが通りかかる。その口先に上っていたのは、豊穣の宴で異邦人を見たという噂だった。
「ここの姫が飼っている異邦人は、なかなかの器量らしいぞ」
「ああ。稀有な砂色の髪に、透き通る肌という話だ」
「几帳が風でなびいた時に見た者がいるんだとか」
そうとなれば垣間見たくなるのが、月ノ輪の男たちの性だ。
興味を持った彼らはその檜垣に、密かに近づいた――。
豊穣の宴から数日が経ち、空には見事な満月が浮かんだ。まるで真珠のようなその輝きに惹かれ、耶雉は一人、釣殿に向かった。
「あ……」
思いがけない先客が、かわらけを手に耶雉を迎えた。この邸に来てからというもの、ほとんど言葉を交わさず、それどころか顔を合わせることもなかった玻璃乃の父――是愛だった。
彼らは同じ西の対を居空間としていたが、近付くことが、まずないのである。
「是愛さま、起きてらしたんですね」
「……今宵は、月が妙に明るくてな」
「はい。僕も、綺麗だなと思って、見に来たんです」
耶雉は、戻るべきか内心で迷っていた。自らそれを申し出るか、追い払われるのが先か。自分が嫌われていることは、正直知っている。
「そうか……ところで、すみれに聞いたのだが」
「えっ? はい……」
きっと邪険にされると思ったところで、思いがけず掛けられた是愛の声。それが思いがけず優しくて、耶雉はやや面食らった。
「玻璃乃を、慰めてくれたそうだな」
「なぐさめ……? いつでしょう?」
是愛の問いに、耶雉は何の思い当たりもないように首を傾げる。そんな耶雉を見て、また是愛も戸惑った。
「……まさか、無意識だったのか?」
「はあ……」
考えこむ異邦人に驚きながら、是愛はかわらけを傾ける。飲み干した酒の雫が、その淵で月光を反射した。
「……あれは、死んだ母親の話題が苦手なのだ」
かわらけに酒を注ごうとする耶雉を制止し、是愛は自らそれを足す。
「あのような公の場に出れば、いやでもそれを耳にすることになる……分かってはいたんだが」
しみじみと言う是愛の深い声。ふと、その膝の影を見ると、木彫りの観音像が添えられていることに気付いた。
是愛もまた、耶雉の視線に気が付いたようで、寂しげに笑う。
「これか。……似ているのだ、この顔つきが」
誰に、と聞くことはなかった。聞かなくても過ぎるほどに察する。
――るり子。宴で貴族が言っていた、玻璃乃の母、そして是愛の妻だろう。
「だから、月を見せていたのだ」
耶雉は、この父娘の不器用さを理解した。
娘は母を失ったことで奔放に振る舞い、父は妻を失ったことで寧静を失った。おそらく父娘はとても似た性質で、彼らは二人とも、その女性を太陽として生きていたのだろう。
それがいま、この父と娘をすれ違いさせている。皆、家族をとても愛している。耶雉はそれをひしひしと覚え、そして胸を痛めた。
(どんな女性だったのでしょう……)
太陽を失った世界に訪れるのは、恐ろしいほどの暗闇。
そこに、月は出ていないのだろうか。願わくばその月が、彼ら父娘を照らすように祈った。
いや、せめてひとときでもいい。自分が、彼らの月になれたら……。
「君と出会って、玻璃乃に笑顔が戻った。感謝する」
「……!」
まさか是愛の口からそのような言葉が出るとは思いもせず、耶雉は息を呑み込んだ。すぐに返答をしたくても、月ノ輪語がうまく出なかった。
「もう寝なさい、これ以上は明日に響く」
「あの、是愛さまは……?」
「私も……いずれ眠るさ」
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