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十一,涙の雪
木々は葉の衣を脱ぎ、空気のひと際澄んだ季節が月ノ輪に訪れた。
風はとても冷ややかで、この時期ばかりは、この開放的な邸の造りを誰もが恨んだだろう。しかし意外なことに、異邦人である耶雉は、この寒さすらも楽しんでいるようだった。
「月ノ輪の雪、綿の花のようです」
耶雉は雪を眺めるのが気に入ったようで、誰もが風よけを幾重にもした室内へ逃げるというのに、一人で廊下へ出ては眺めた。
――その夜も、耶雉は西の透廊で、牡丹の花びらのように落ちる雪を楽しんでいた。
「すみれ、よかったわ。まだ起きていたのね」
手を擦り合わせながら寝所を出、納戸へ向かっていた玻璃乃は、まだ起きていたらしいすみれに出会い安堵した。
「どうしても寒くて……夜具を一枚増やしたいのだけれど。あら? それは白湯?」
すみれの手元を見やると、そこには盆と、湯気を立たせる椀があった。
「ええ。耶雉さんが雪を珍しがって、まだ見てるんですよ。せめて白湯で温まってもらわないと」
一緒に過ごしているこちらの方が寒くなってきますよ、そう呆れるすみれに、玻璃乃は笑って同調する。
「耶雉ったら、まだ見ているのね。ではわたくしも一緒にいくわ」
冷たい廊下をたどり、耶雉が陣取っているらしい西の透廊へ向かう。足の平が凍るように冷えてくる。
「こんなところにずっといられるなんて、黎星国の方は寒さに強いのかしら?」
「ええ、本当に――」
あと少し、といったところで、
「離して、ください……!」
「俺の妾になれば、不自由のない生活ができるぞ」
独特な抑揚の耶雉の声、そしてまったく聞いたこともない男の声が、彼女たちの耳に届いた。
「今の、って」
「耶雉さん……!?」
二人は顔を見合わせると、恐れはあるものの、たまらず駆け出す。
「やめっ……」
「どうしましたの、耶雉!」
玻璃乃が声を上げれば、耶雉の腕を掴んでいた烏帽子の男は廊下を飛び出した。そして塀を乗り越え、脱兎のごとく逃げていく。
耶雉はその場にへたり込み、やや呆然としていた。
「耶雉さん大丈夫ですか!? 姫様、すぐに旦那様をお呼びしますね!」
すみれは盆を投げ出すと、床板をばたばたと蹴って是愛の塗籠へ向かう。
「耶雉、耶雉……? 平気なの?」
「……大丈夫です、玻璃乃さま。もう、大丈夫ですから」
耶雉の肩に触れた手を、冷えた彼の指先が包み込む。大丈夫とは言っているが、その指は微かに震えている。
「一体なにがあったのだ」
「……! 是愛さま、騒ぎを……ごめんなさい」
すみれを伴ってやってきた是愛は、眉間を深く刻み耶雉に迫る。そんな父の態度に、玻璃乃は頭の奥がかっと熱くなるのを感じた。
「やめてお父様! 耶雉だって、危なかったのよ」
「…………そう、だな。それは……すまなかった」
娘の言葉に是愛は落ち着きを取り戻すと、努めて冷静に口を開いた。
「玻璃乃、父は……耶雉と話す。お前はもう寝なさい」
「で、でも……」
玻璃乃は、耶雉の傍にいたかった。傍にあって、その不安や恐怖を拭い去りたかった。姫自身、既に嫁ぐことが決まっている齢だ。耶雉に何があったのかくらいは、簡単に想像がつく。
「さ、姫様、私たちは戻りましょう」
すみれに促され、玻璃乃は断腸の思いで、まるでこれが今生の別れになるかのような思いで、東の対に帰っていった。
「それで。なにがあった?」
「……塀を乗り越えて、男が、入ってきました」
耶雉はそう答え、塀を指さす。その指先は、やはりまだ震えていた。
「僕の腕を掴んで、めかけになれ、と……めかけって……愛人のこと、ですよね……」
それを聞いた是愛は長いため息をつくと、伏せられた耶雉の目を見据えた。
「……そうか。確かに、君の容姿の噂は外で聞いたことがある。美しい異人がいると……物珍しさから興味をもった不届き者もいるのだろう」
「…………それでどうして、めかけになんて……」
「とにかく、今夜はもう寝なさい」
そう、耶雉に背中を向けた刹那。
「ごめんなさい、いま、だけ、少しだけ」
その広い背に、耶雉はただ縋りついた。
「……異邦人の君にとっては、恐ろしい風習に映ったやもしれんな」
そも本来は文を交わし、合意の上で通うのが習わしだ。それを省き迫ったのは、異国の者だからという勝手な驕りだろう。
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