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第10話
講義を受けている間、僕はずっと上の空だった。何も耳に入らない。僕はずっと先生のことを考えていた。あの態度は、もしかしたら先生の謙虚な性格が出たのだろう。何て良い人なんだ。
でも少なくとも何度かレジで顔を合わせているし、何度も話しているから、もう少し僕を見てくれてもよかったのに。
僕がどれだけ先生のファンなのか伝えたい。僕が世界中の誰よりも先生のファンだってことを直接伝えたい。確かに一度伝えたけど、あのとき僕たちの関係は親密じゃなかった。
僕がいかに誠実な人間であるかを先生に伝えることができたら、きっと成功するはずだ。
まずは次に先生が店に来たとき、レジで待っているだけではなくて積極的に接客しよう。そうだ。それがいい。
僕はノートに先生と話したいことをたくさん書いた。先生への想いを書き連ねているうちにチャイムが鳴った。
その日の夜。僕にとってラッキーな状況が現れた。久しぶりに先生は文芸コーナーから少し離れたワゴン――この中には特に値引きされた本が大量に売られている――の中を物色していた。
遠目で見ても先生の処女作『墨溜まりに漂う』だとはっきりわかる。今夜の先生は全体的に寂しそうに見えた。風邪でも引いたのだろうか。季節柄インフルエンザが流行っていると聞いた。心配だ。
先生は自著を手に取り、しばし眺めた後――なかばワゴンに叩きつけるようにしてそれを戻した。それから恒例の買い占めを行うことなくエレベーターへ向かった。
一連の行動に僕は驚愕し、何もすることができなかった。自身の代表作をないがしろにするだなんて、先生が、いや、ありえない。やはり体調が悪いのだろうか。勢いのまま僕は先生のあとを追った。エプロンを外すことすら忘れていた。
「先生!」
地下駐車場で追いついたとき、先生は運転席側のドアに手をかけていた。焦燥感からつい大きな声が出てしまい、先生を驚かせてしまったようだ。先生は肩をびくりと鳴らし、驚愕のまなざしで僕を見た。
「先生、今日はどうしたんですか? 具合悪そうですよ」
「もう私に構わないでくれ」
震える肩に触れようと手を伸ばしたが、ぴしゃりとはねつけれてしまう。見ると額から冷や汗が出ている。熱がありそうだ。
僕はこれほど辛そうな先生を放っておけるほど冷たい人間ではなかった。そして風邪をうつすまいと僕を遠ざけようとする先生の心遣いに感動し、また一人で解決しようとする意地の強さにほんの少し苦い思いをした。
つらいことがあるなら僕を頼ってほしいのに。
「どいてくれないか?」
先生は僕など存在していないように運転席へ滑りこむと、窓を少し開けて僕に苦言をていした。
「仕事中だろう。早く戻りなさい。君とはもう関わりたくないんだ」
「でも先生が心配で」
「何度も言うが私は君の先生じゃないし、君が思うような人間でもないんだ。早くそこをどいてくれ」
「僕は先生の大ファンなんです。そうだ、先生に憧れて僕も小説を書いているんです。ぜひ先生の意見を聞かせていただきたいです。今日は持っていないけど、次に会うときに。先生と同じ賞に応募します。きっと先生と同じ評価をもらえる――」
「いい加減にしてくれ!」
先生は声を荒げ、ハンドルを強く叩いた。耳をつんざくようなクラクションが地下駐車場にこだまする。
「いい加減にしてくれ……もううんざりなんだ。私は君がどこの誰かも知らない。付きまとわれるのも迷惑だ」
「ぼ、僕は小金井慎です。先生の一番のファンです」
言えた。ようやく僕は面と向かって先生に自分の名前を伝えることができた。何と喜ばしいことだろう。
だが一番のファンである僕の名前を知ったというのに、先生の顔は険しいままだ。言葉が足りなかったのだろうか。
「先生こそが僕のすべてだ」
僕の想いを聴くことなく無情にも先生は車を走らせた。残された僕は遠ざかるテールランプをただ見ることしかできなかった。
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