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第86話 獅旺の気持ち

 救急車が到着したのは、それから数分たってからのことだった。  夕侑は救急隊員の手で助けられ、病院に運ばれた。途中から麻酔が効いたのか意識も途切れがちになり、気がついたら回復室で簡易ベッドに横たわっていた。  カッターで切られた傷は、深くはなかったが何カ所にも及び、処置には数時間を要したらしかった。  さいわい命に別状はなかったので、夕侑は回復するまで病院の個室で十日ほど入院することとなった。  一度だけ、まだ傷がひどくて麻酔でウトウトしているときに、獅旺らしき人が枕元に立つ気配がした。目をあけたかったがどうしても無理で、夕侑はただ彼の存在を夢の中だけで感じ取っていた。 「間にあわなくてすまない」  獅旺の後悔にあふれた声がする。  どうして謝ったりするんだろう。彼はちゃんと間にあって、夕侑の命を助けてくれたのに。  彼の手がひたいに触れた気がした。やわらかくそっとあてられる指先はとても優しく、それは夕暮れの遊園地で、サニーマンの話をしながら頬に触れてきたときのことを思い出させた。  あのとき自分は、彼のことをすごく恰好よくて頼りがいがあって素敵だと思った。笑顔に惹かれ、熱く夢を語る姿に心をときめかせた。発情に支配されていない想いは、純粋な恋心だったと思う。 「夕侑」  静かな声音は、悲しみに沈んでいる。 「……俺は、ずっと昔から、運命の番に憧れていた」  髪をなであげながら、語りかけてくるのは、現実ではなく夢の一部なのだろうか。 「その相手に出会えば、すぐに恋に落ちて、結ばれるんだと、夢みたいなことを考えていた。だから夕侑を見つけたとき、お前も俺のことをどうしようもなく好きになるのだとばかり思っていた。……けれど、現実は違ったんだな」  さらり、さらりと髪をすかれる。 「こんなに頑固で一途なオメガが、長年の片想いの相手だったとは」  フッ、と微笑んだ気がした。そしてひたいにやわらかな唇の感触。  誘われるように、瞼をひらく。  けれどそこにはもう、誰もいなかった。

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