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第5話
思った通りだ。保は最初こそ近寄りがたいが、見ていると他人を真っ向から拒絶しているわけではない。根っからのコミュ障ということはなく、会話を投げれば良いボールが返ってくる。だから選んであえて人と距離を置く位置に立っているような感じが見受けられた。そして発揮していた天然具合が何より意外だった。
やっぱり誘って良かったな、と匡樹は満足していた。でも駅で別れるまで匡樹に敬語を説いてくれなかったのだけは悔やまれる。まあ、それぞれのペースがあるからな。だからこそ次はどうやって保を誘い出そうか、もう作戦を練っている。
レンタカーを返して家に帰ると、リビングのソファに座ってテレビを見ていた志保が振り返る。そばには毛糸と編み針が置かれている。
「おかえりー」
「ただいま。編み物中だった?」
「そう、ベビーヘアバンド。なかなか均一に編むのが、まだうまくできないの。バーベキューはどうだったー?」
「楽しかったよ。場所も高速乗っちゃえばけっこうすぐ着くいたしご飯もすごいおいしかったから、今度二人でも行こう」
良い提案を思いついたと口にしたのに、志保の顔は浮かばれない。
「うーん。そういうのは三人になってからがいいなあ。だって私たち大人だけだと、あんまり楽しくないんじゃない」
そうかなあ、と匡樹は思う。今日はいい大人しかいなかったけど、十分楽しかった。
「だって、キャンプとかって家族のためにある気がしない?」
言葉の綾だとしても。じゃあ自分たちの関係は一体なんなのだろうと思ってしまう。婚姻届にサインをして提出して指輪をはめても、男と女は決して家族にはならないということなのか。それぞれの血を分け合う命が、間にいない限り。
「そうだね。じゃあ三人になったら行こう」
匡樹の答えに満足したのか、志保は立ち上がる。
「まさくん、ご飯食べるでしょ?」
「うん」
昼にたらふく食べたのでお腹は空いていなかったけれど、そう答えた。いつからか志保は匡樹の出すノーのサインに敏感になっている。ここでいらないと言ってしまうと後に響くからいくら満腹だろうとおとなしく食べるしかない。キッチンで出来上がっている料理を志保が鍋から取り分け、それを匡樹が食卓まで運ぶ。綺麗な器に盛られていくのは鮭の塩焼き、豆腐とネギの味噌汁、カボチャの煮物、わかめの酢の物、じゃこサラダ。完璧にカロリーが計算された一汁三菜だ。
これからまだ胃にものを詰めることを思うと気が重くなったが、せめてもの救いは食卓に並ぶそのどれもが成人男性にとっての一食には物足りないということだった。
「今日さ、いつメンに初めて新しい同期が加わったんだけどね、そいつがすっごい面白いの」
「そっか、よかったねえ」
「面白いっていうか不思議なのかな。ちゃんと友達になれたかなあ」
「珍しい、まさくんがそんなこと言うの。いつもは挨拶したらもう友達ーってかんじなのに」
「そうだよな。なんていうか、今まで俺の周りにいなかったタイプでさ」
「まさくんあのね」
「なに?」
「なかよしの日、今日なんだ」
「そっか。体調は、大丈夫?」
「うん。昨日クリニック行ったら、卵の状態は健康だって。前の生理終わってから注射打ったのが、よかったみたい」
自分のことなのに、まるで鶏の受精実験のように志保は話す。
「ならよかった」
「だから今日は夜更かししないで早くお風呂入ってね」
「はぁーい」
あえて子供っぽく答えて、匡樹は残りの玄米をかき込んだ。
なかよしの日。
女性の生理周期を管理するアプリにそう表示されれば、排卵日…つまりセックスする日を示すのだと知ったのはもうけっこう前になる。
ハートで埋め尽くされたピンクの画面の中に浮き上がるその言葉を目にした当時はけっこう衝撃的だった。言葉そのものが持つ幼いイメージと、実際の行為にギャップがありすぎて。
そしてその時からセックスは二人の間で、愛を確かめ合うよりも子供を作る為だけにする行為に変化してしまったと感じた。
おかしい話だ。結婚前だってセックスなんて何百回としていたのに、スマホにダウンロードされた些細な機能に性欲を管理されただけで、そんなことを唐突に思うようになるなんて。
匡樹と交代で志保が風呂に入っている間に、アダルトサイトを開いた。
シチュエーションはなんでもいい、とにかく日常から離れている設定であれば。志保が風呂から上がるまでの三十分、とびきりエロい妄想を最大限に膨らませて、寝室で志保を待った。よし大丈夫、いける。匡樹は自身が半立ちになったのを確認して、鏡台に座って髪を乾かしていた志保を後ろから抱きしめる。
「志保、しよ」
「わーもう、まだ途中だよー」
「いいじゃん。終わったら後で乾かしてあげる」
首筋に顔をうずめると生乾きの髪が匡樹の額を濡らした。さっきまで見ていた映像を頭の中で再生させる。顔も名前も知らない女と、青空の下で抱き合う。森の中がいい。そうだ、今日行ったキャンプ場の、色とりどりに飾り付けされたガーランドの奥、木漏れ日が差していたあたり。志保の肉体を抱きながら違う女と肌を合わせる妄想をする、これも浮気になるのだろうか。セックスに没頭していても、そんな思いは匡樹から消えなかった。
最中、なぜかふいに保の顔が浮かんだ。
そういえば、笑う顔をまだ知らない。不機嫌な表情から察するに、いびつな笑い方なんじゃないかなと口のパーツを不平等に上げる姿を想像してみると、それはぴたりとはまる気がした。ああ、そうやって俺を思いっきり嗤ってくれ。こんな風に必死に妄想しないと勃たなくなった役立たずを見て馬鹿だなって、罵ってほしい。そう思ったら急に頭が冷静になって、下半身の熱もじわじわ冷めていく。
「まさくん、どうしたの?」
「あ、うん、ごめん…なんか疲れてるみたいで」
「だめ、頑張って。今日逃すとあと一回でタイミング法終わっちゃうんだから」
自分でしごいてみても志保がさわっても、下半身が再び熱を帯びることはなかった。
気まずいまま、どうすることもできず諦めて服を着る。志保はぴっちりパジャマを着てこちらに背を向けた。
「志保、ごめん。髪、乾かそうか」
「もういい。とっくの昔に乾いてる」
「うん…本当にごめん」
「来月はちゃんとしてね」
「はい」
不妊治療は金額面でも体力面でもリミットがあるから志保の焦りはよくわかる。でも、志保の望み通り早く子供を作らねばと思う分だけ、性欲は自分の中からまるでチケットの半券みたいに、ぺりぺりもぎ取られていく。卵とか精子とかいう単語を使われるたび、自分や志保が生身の人間ではなく製造ロボットにでもなったのような気がしてしまうのだ。
ぼんやり部屋を照らしていた枕元のライトを消して、匡樹は布団を首元まで深くかぶった。
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