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第6話
新規の交渉が成立した瞬間に得られる達成感は、なにものにも代えがたいと匡樹は思う。
だから辛くても失敗しても、足が棒になるまで取引先を回って収穫が得られなくても、営業をやっていたいとまだ言える所以だった。
「向いている」とは上司や友人によく下される評価だ。向き不向きは自分ではわからないけれど、やり甲斐を感じられる環境には感謝している。
帰宅への足取りが重くなってしまった今は特に。
性器が機能しなかったあの日以来、家にはレーザートラップが張り巡らされたように居づらい。見えない赤い糸を踏まないように今以上に慎重に志保と会話するから、睡眠までの数時間をとても長く感じるのだ。
「喜久川さん、さっき広告部の吉原さんから内線ありましたよ」
「え、なんだろう? おむつのことかな」
うちで作っている木綿の種類でフラッフィールドというブランド名の商材がある。三年間農薬と化学肥料を使わない農地で丁寧に有機栽培されたコットンのことだ。
栽培地の割合はまだまだ少ないが近年のスローライフブームに合わせて需要が高まっており、うちでも力を入れている商材の一つだ。従来そのオーガニックコットンは糸や生地に加工してアパレル業界に販売するのだが、衛生用品の大手メーカーに向けて赤ちゃん用おむつの表面に採用するという企画を半年前から持ち込んでいた。
『ああ、喜久川さん折り返しありがとう。…フラッフィールドのおむつ案件、成立しましたよ!』
「まじですかっ! っしゃああ!」
匡樹は受話器片手に思わず大きく片手をふりかざして喜んだ。
『よかった、その反応が見たくて喜久川さんに一番に知らせたかったんだ。色々ありがとう』
「いえいえ、僕は立案して、企画持ってっただけですから。後に実働した吉原さんたちの手柄です」
『何言ってんですか、フラッフィールドをおむつの表面に使うって画期的アイディア思いついたの喜久川さんじゃないですか。これ商品化してロングセラーになったらすごいことですよ? 会社の歴史作っちゃいますよ』
もう今日分の仕事は全部終わった気分で早めに切り上げた昼休み、高揚が覚めやらぬまま思い立って個人用スマホを開いた。
あれ以来保との交流は途絶えていたが、久しぶりに連絡してみようと思ったのだ。
『一色さん、元気? さっきね、仕事でいいことがあって』
そこまで打ってから、我に返って手を止めた。
同じ会社とはいえ保は部署も違うし、内容など話したところでピンとこないだろう。ならばそういう報告は、普通匡樹の立場であれば妻である志保に送るべきなのだ。でも、志保に話したとて保以上にスルーされてしまうだろう。元々匡樹の仕事に興味がない上に、志保の思考は今別のことで占領されている。
匡樹はこの喜びを誰にも伝えられないことを虚しく思った。
それから考え直したた末、『一色さん、元気?』とだけ打った。ちょうど送信ボタンを押そうとした時、新しいメッセージが浮かび上がる。
『こんにちは。教えてほしいことがあるのですが』
画面を開いていたのですぐ既読をつけてしまった。何事かと訝しむ保が想像できる。
『今ね、ちょうど俺も一色さんに元気かなってメールしようとしてたとこ! 偶然。どうしたの?』
『前に言っていた、漢方医を紹介してほしいんですが』
あんなに否定していたのに?
『いいよ、何かあった?』
しばらくメールが途切れた。その間にランチを食べ終え、トレーを返却口に突っ込んだところで携帯が震える。
『貧血で倒れることがたまにあるんですが、今月に入って二回目で。内科にかかってみたんですが貧血症状だとしか言われないし、どうにかできないかと思いまして』
それで藁にもすがる思いというわけか。
『わかったよ、予約してみるね。都合の悪い日はある?』
『いえ、連絡先を教えてもらえば自分でやりますので』
『人気の先生だから紹介じゃないと割り込んで初診入れてもらえないんだ。俺から話したほうが良いと思う』
『わかりました。土曜日ができるなら嬉しいですが、無理なら半休を取るので曜日はいつでもかまいません』
『了解』
『あと、喜久川さん何かいいことありました?』
『なんで?』
『なんか文字が、踊ってるかんじ』
声が弾んでる、みたいな意味だろうか。自覚がなかったので言い当てられてびっくりした。なんでわかったんだろう。その表現も面白くてフラダンスをする猫のスタンプを送ってみる。
『こんなかんじ?』
『ではなく、こんなかんじ』
ディスコで激しく踊るヒップホップダンサーが返ってきて思わず吹き出した。そんなノリノリのスタンプ、いつ誰に使っているのか。知らずのうちにさっき心に吹きかけていた冷たい風がぴたりとやんでいるのに気づく。
『そんなのよく持ってたね』
『持ってません。今買いました』
『俺の踊りを表現する為に?』
『はい。一番これが近いと思ったので』
さらっと言われ、予測不可能な間合いの詰め方に更に驚いた。
相手との間の取り方は保の中で方程式がしっかり存在する。それなのに時折こうして自ら易々と越えてくるのだ。そこが保最大の魅力の、アンバランスさだった。きっと本人は無自覚なのだろう。
匡樹は画面を見ながら笑った。
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