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第7話

 運良く土曜の午前中に予約が取れたとの連絡が匡樹から来たので、半休を使わないで済んだ。  同行の申し出は断ったのだが「ちょっと、色々びっくりするところだから」と頑として譲らなかった。  約束の土曜日、見知らぬ駅の出口は二つしかなく、そのうちの南口で待ち合わせた。匡樹は迷わず商店街を入っていく。 「症状、どんなかんじ? つらいの?」 「正直、つらいとか考える前に気づいたら倒れてるっていうか。やばいなって思えたらまだ対策がとれるんですが、ひっくり返るまで自覚がないんです。目が覚めたら駅員さんとかに囲まれてて、ああやっちゃったんだみたいな」 「怖いね。そんなのが今月二回も?」 「はい」 「一人だとどうすることもできないもんね。せめて俺が通勤方向一緒とかだったらなあ」 「だったら、なんですか」 「出勤なり退勤なり時間合わせて一緒の電車に乗ったりできるのにって」  本気で言っているみたいだった。どこまでお人好しなんだ。そんな知人が乗り合わせてきたら保であれば被害被りたくないからむしろ車両を代わりたいくらいなのに。今日だってそうだ。大事な休みにこうして保のために関係のない駅に出向いている。  初めて会ったときは単純にいけ好かないと思っていたが、今は匡樹の底なしの優しさにただただ驚いている。怒鳴ったり苛立ったりすることはあるのだろうか、あるとしたらいつなのか。 「土曜日に、よかったんですか」 「え、なんで?」 「家族サービスとかしなくて。こんな用事に付き合っちゃって」 「ああ、大丈夫。同棲期間が長かったせいかな、お互い割と放任なんだよ。それに今週は実家に戻ってるんだ、妻」  つま。聞き慣れない言葉だった。そういえばバーベキューの時は未婚者が多かったせいか、そういう話は一切しなかった。一生保が使わない単語を、当然のように口から滑り落とす男と並んで歩いているのが、なんだか不思議だ。 「そうですか」 「そうですよ」  匡樹は笑いながら保の口調をまねる。家庭の話題に興味がないくせに質問したのを心得ているのか、それ以上説明もしなかった。  商店街を抜けると、細い小道にやってきた。人一人がようやく抜けれる幅の長い一本道を縦になって歩くと、なんだか探検をしているような気になる。その先には見晴らしの良い景色が待っていて、目の前に古くて大きな一軒家が建っていた。庭にはうっそうと草木が生い茂り、屋根も壁も見えないがかろうじて玄関の位置を確認できた。 「ここ」 「ここ? 本当に?」 「ね、だから言ったでしょ」  塀に這うツタを匡樹が寄せると、全体的に剥げて読みづらい看板が隠れていた。 「大目漢方診療所…」 「犬貝漢方診療所。点とちょんちょんが消えちゃってるね」  童話に出てくる魔女の館みたいな外見の家の門をくぐるのは確かにはばかられた。一人で来ていたら看板を見つけることもできず何かの間違いかと引き返していただろう。 「ほんとに大丈夫? 肝臓とか持ってかれないよな?」 「はは、やっぱりそう思うよね。でも医師免許あるし有名な先生だから安心して」  木製の重い扉を開けると確かに中は病院の作りだ。アンティークソファの設置された待合室にはおそらく患者が五人ほど順番待ちをしていて、保はひとまず安心した。  名前を呼ばれて奥の部屋に通される。椅子に腰掛けていたのは白髭の老人だった。漫画やアニメにでてくる仙人のイメージそのものだ。 「一色さんですね。話は聞いていますよ。貧血なんだね」 「はい」  症状を簡単に聞き出すと、仙人は保の脈を測った。そして匡樹がしたように舌の状態を確認してから、髭と同じく真っ白で長い眉毛をひょいと上げた。 「あれあれ。あなた結構重症ですよ」 「そうなんですか」 「三陰三陽弁証って言って、病気の段階が六つに分けられるんですが、あなたは限りなく六に近い五です。あ、数字が上に行くごとに症状悪化ね」  恐ろしいことをさらっと言われ、足下の血がさっと引いた。 「なんでいきなり倒れるんでしょうか」 「血の巡りが悪いのと、ストレス性もあるんでしょうね。あまり心労を感じにくいでしょ」 「意識したことなかったです。むしろ環境には恵まれていると思っていました」  たまに納期であっぷあっぷするがそれ以外は他者と関わりの少ない技術職だし、上司との軋轢もなくのうのうとやっているのだけれど。 「ストレスを感じやすいかどうかは環境や度合いではなく元の性格の問題です。例えば電車の線路横で問題なく住める人もいれば時計の秒針の音で不眠になる人もいるでしょう。まずはストレスに弱いと自覚して、こまめに発散するといいでしょうね」 「はあ…。それで、漢方も服用すればちゃんと治るんでしょうか」 「抗生物質みたいに数日飲んだらぱっと良くなるということはありませんよ。漢方は体質改善だからゆっくり治していかないと。でも根気よく服用したらぐっと軽くはなるでしょう」  カルテに読めない文字が書かれていく。 「じゃあ、全部飲み終わったらまた来てくださいね」  次に通されたのは調剤室で、五センチ四方ほどの引き出しを備えた箪笥が壁一面にずらりとならんでいて圧巻される。箪笥の高さは保の身長ほども高く、一つ一つの引き出しには漢字二文字で名前が書かれている。処方箋を渡すと薬剤師らしき人物は、サイズの違う匙をあれこれ使い、引き出しに入っている生葉を混ぜていく。物珍しくて保はその光景をじっと見ていた。 「どうだった?」  待合室に戻ると、匡樹が読んでいた辞書くらい分厚い『東洋哲学の基本』から視線を上げ、屈託のない笑顔を見せる。来たときに一ページ目を開いていたのに、見ればもう半分をとっくに過ぎていた。 「とりあえず先生が、仙人みたいだった」 「あはは、貫禄あるだろ」 「ありまくり。あと薬剤の部屋が劇場アニメ。迷い込んだ温泉宿で主人公が最初に行くボイラー室のとこ」 「わかるわかる。蜘蛛みたいなおじいちゃんに仕事をもらおうとするシーンね」  出来上がった薬と引き換えに診察料を払ってから外に出た。紙袋にぎっしり詰まった薬は結構重量がある。 「ちゃんと煎じ方教えてもらった?」 「一応。でも言葉だけじゃよくわからなかった」 「だよなあ。どの濃さで火止めればいいかちょっと最初はわかりにくいんだよ。一色さんこの後の予定何もなければ、これから俺が手本で一回作ってみせるよ」 「作るって、どこで?」 「そりゃもちろん一色さんちで」  朝出たばかりの部屋を思い出してみるが思春期の男子でもないし隠すものなど今さらない。キッチンに滅多に立たない保だったので匡樹の提案に今回ばかりはありがたいと思った。 「…喜久川さんがよければ」 「もちろん。じゃあ昼飯食べたら向かおっか」  駅の構内のうどん屋で二人してうどんをすすったら電車に乗る。いつの間にか紙袋は匡樹の手に握られていて、そういえば食べ終わって店を出る際匡樹の手に渡り、そのままになっていた。 「ごめん、持つよ」 「いいよ、重いでしょ」 「俺そんな貧弱そうに見える?」 「俺よりはね」 「むかつく言い方だな」  顔をしかめるとふふふ、と機嫌良さそうに笑うので袋を奪い取るのはやめ、そのままにしてやった。お人好しという第一印象から世話好きは早い段階で加算されたけれど、こういう小さな瞬間にもいちいちそれは発揮される。レディーファーストとは女性の扱いに対してのマナーを言うけれど、匡樹は全人類に対して分け隔てなく紳士的だった。長時間発生した病院での待ち時間も、ここまでの付き添いも一切匡樹に得はないのに。しかし今日一日を観察するに、どうやら利害を求めてやっている行為ではないらしかった。  すごいな、と改めて思う。  保の一生分の親切をちまちま拾い集めたって匡樹の一ヶ月ほどにも到底及ばないだろう。 「わあ、ホテルみたいにぱりっとした家だなあ」  玄関に通すと、匡樹が一望して驚嘆する。なにが驚くに値するのか、一人暮らしの他人の家になど足を踏み入れたこともない保にはよくわからない。 「こんなもんでしょ。…で、何が必要?」 「ああ、うん。大きめのホーロー鍋とかある?」 「これとか」 「うん、ちょうど良いサイズ。なんだピッカピカじゃんか」 「新社会人一年目に買ったっきりだから」 「七年ぶりの初登板? うけるね」  匡樹は小分けされた一袋を計量した水と一緒に鍋に入れた。三十分ほど弱火で煮込むと鼻孔の奥を刺激する薬膳の独特な匂いが部屋中に立ちこめる。保は思いっきり顔をしかめた。 「…これ飲める気しないんだけど」  鍋の中の液体はとろみがあってどす黒い。人間の負の感情を具現化した色だとさえ思う。こんなものが身体に良いなんてにわかに信じがたい。 「大丈夫、青汁と一緒でそのうち慣れるから。はい、このくらいの濃さになったら火ぃ止めて、茶こしで漉して。一日以上置いとくと成分が変化しちゃうから作りだめしちゃだめだよ。朝が面倒だったら、前の夜にその日分作っとくのがいいかもしんない。ほら、飲んでみて」  液体の入ったコップを渡される。味は予想通り、苦くて飲めたもんじゃない。 「…まず」 「でも飲まなきゃ良くなんないよ」 「疑わしい。喜久川さんはこれでどこを治したの?」 「俺じゃなくて、志保、…妻がね。まだ服用中だけど」 「ふうん。身体、悪いんだ?」 「まあそんなとこかな」  匡樹の声が一瞬陰った気がして横目でチラリと顔を伺ったが、それ以上は聞かなかった。もしかして健康オタクなのにもその辺の理由が関わっていたりして。脳天気そうな男にも案外、外からでは見えない悩みがあるのかもしれない。 「ストレス発散したいときって、どうしてる?」  だからそんなことを代わりに聞いてみた。 「んーそうだなあ、ジムで身体動かしたりかなあ。あ、でも気分落ち込んでるなって時とか仕事うまくいかない時は悲しい映画観たりするかな」 「悲しいってどんなの?」 「思いっきり泣けるやつ。主人公が記憶喪失になっちゃったりとか、余命宣告されちゃったりとかするやつ」 「そんなので? ベタすぎる」  前言撤回、そんな見え透いたお涙頂戴でまんまと泣くなんてやっぱりお気楽な性格だ。 「ほんとほんと。何回観てもおんなじとこでめちゃくちゃ泣くよ。それで、俺も弱音なんて吐いてる場合じゃないだろとか明日も頑張んなきゃとか思うんだ」 「どうせそんなのフィクションなのに」 「そりゃ観てる画面はフィクションだとしても、わかんないじゃん。世界のどこかにそういう人が本当にいるかもしれない」 「それでいい歳の男がすすり泣くわけ?」 「どころか、もう嗚咽だよ嗚咽。でもその後はすっごいすっきりするよ」 「それ、俺には不向き。映画とかテレビでどんな悲しい話見てもしらけちゃうから」 「ああ、一色さんはそんなかんじするなあ。何時でも冷静、みたいな。でもなんでいきなり発散法?」 「さっき先生に言われたんだ。ストレス受けやすい体質だって。でも今までそんな風に感じたことなかったし、急に言われてもどうすればいいかなと思って」 「あ、思い出した。人と沢山話すこともいいっていうよね。女子会みたいなさ」 「それ余計ストレス溜まりそう」 「気の許す人に限りって意味だよ」 「そんな人いないんだけど」  はじけるように匡樹が笑う。 「そんな、胸を張って言わなくても」 「本当のことだし」 「俺がいるじゃん」 「全然許してないんだけど」 「うそ、けっこう許されたと思ってたんだけどな。敬語解けてるし」  そういえば、いつの間にかタメ語になっている。自分でも気づかなかった。 「っていうのは本当は口実で、俺が一色さんと話したいだけなんだ。今日、楽しかったよ。良ければまた来ていい?」  嫌だ、といつものように言ってやれればいいけれど、ぴしゃりと拒否するには病院の予約、同行、煎じ方の手ほどきと助けてもらいすぎてしまった。それに、保自身匡樹のことを頭ごなしに拒絶するほど嫌とももう思っていないのも事実だった。 「別に、…いいけど。次の日の漢方作っといてくれるなら」 「やった。お安いご用」  匡樹が帰った後、床に片方置き忘れの手袋を発見した。知らぬうちにポケットから落ちたのだろう。メッセージを送ろうとしてから、まあ次会ったときでいいかと思って画面を閉じる。またすぐに会えると誰かに対して思っていることが奇妙な感覚だった。仲の良い友達など一人として作ってこなかった自分が、急にあんな社交性の塊みたいな人物に対して距離を近くに感じていることが。  話すことはストレス発散、確かにそうかも知れない。  今日一日匡樹といることでたくさん口を動かしたせいか充実感は確かにあった。グランピングの時とはまた違った、成分の詰まった密度の濃い液体がなみなみと心に注がれた気分だった。月曜日に出社して発声方法を忘れてるくらいいつも休日は一人で過ごしているからこそなおさら、それは大きい美術館を隅からひとつひとつ時間をかけて観覧しつくした後のような、心地よい疲労だった。  漢方のせいか匡樹のせいか、じんわり温かくなった指先を確認してみたくて、首筋を意味もなく触った。

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