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第8話

 診療所を紹介して以降、たまに保の家に足を運ぶようになった。  大勢でどんちゃん飲んだり騒いだりするのももちろん楽しいけれど、保には独特の空気があって、二人でいると気兼ねなくあれこれ話せた。  その癒やし効果を倍増させているのが、何より保の部屋だろう。無機質で色が少なく、本の一冊さえ乱れなくぴたっと整頓されているあの空間にいると、心が洗われていくのだ。就職して実家を出ると同時に志保と同棲を始めたから、匡樹は完全な個人スペースというものを経験したことがない。もし一人暮らしをしていたら、家具はどんな配置にしたかな、なんて保の部屋のレイアウトを見て想像がかき立てられるのも楽しかった。  志保だって十分綺麗好きではある。けれどちょっとした、玄関に造花と一緒に置かれたウェルカムボードの置物だったり、キッチンの棚に並ぶパステルカラーの食器だったりを見ると、保の簡素で目に優しい部屋を思い出すのだ。  つい最近までインテリアなど気にしたこともなかったし、新居に引っ越すときも好きにしていいよと主導権を渡したのは自分だったのに、突然そんなことを感じるようになるなんてとんだげんきんな話だ。志保のそういう、いくつになっても変わらない乙女趣味が好きだったはずなのに。わかっていながらも、週末が近づくと保の家に行きたいなあ、と思うようになっていた。だから放任主義とはいえ世帯持ちの身なのである程度外出は自粛するものの、二週間に一回はどこかで保との時間に当てている。  保は扉を開けた玄関先では嫌そうな顔をしながらも、匡樹が帰るタイミングまで追い出さないでいてくれる。  前回からカウントしておおよそ十四日。そろそろだな、と匡樹は気持ちを奮い立たせる。今回こそは失敗する訳にはいかない。 『さっきクリニック行ってきたよ。今日なかよしの日だって』  夕方、志保からのラインに目を通せば予想通りの報告が入っていた。わざわざ事前に文章を送ってきたのは、前回のことを志保も気にしているからだろう。  帰宅していつもの通り志保の入浴中に携帯を開く。小さな画面の中で男と女が肉体をこすり合わせている。もっといじめてほしいんだろ? 気持ちいいだろ? すごい自信だな、なんでそんな上からなんだよ。出し入れされる黒みがかった肉棒が気持ち悪い。こんな責め口調の演技に共感する男なんているんだろうか。女の白々しいあえぎ声。すごいおっきい、壊れちゃいそう、おかしくなっちゃう。ほんとにそんなこと思ってんの? いちいちそんな突っ込みを頭の中で冷静にしていて、焦った。  やばい。ことを終えてもいないのに賢者タイムに入りかけている。  結局半勃ちにもならないまま、タイムリミットを迎えてベッドに入った。妄想が膨らんでいないから当然、性器はぴくりともしない。 「まさくん」 「ごめん、ちょっと待って」  こすればこするほど絶望的な気持ちになった。テレビの大食い番組でゴングが鳴る前二十人分の特大ラーメンどんぶりやこんもりハンバーグ百個が乗せられた大皿を見ているような感覚に陥った。もう絶対無理じゃん、という自分への失望。  匡樹は諦めた手をだらんと重力に任せて落とした。 「志保、やっぱり無理だ」 「わかったよ。…そういうときもあるよね。そう思ってこれ、買ったの」  志保がベッドから起き上がり鏡台の奥から、見慣れぬパッケージを取り出す。一見市販の風邪薬くらいの大きさで、筋肉隆々の男の後ろで炎が燃えている。 「…何これ」 「精力促進剤。これ飲んだら大丈夫だよ」 「それは……ごめん。できない」  初めての拒絶を、静かに口にした。志保の目が途端に見開かれる。 「なんで?! 今日しかないんだよっ? 今日を逃すとチャンスはまた一ヶ月先なんだよ?」 「…わかってる」 「体内受精でもできないかもしれない、体外受精で着床しても流れちゃうかもしれない、もっともっと先は長いんだよ!」  志保の叫ぶ声が耳に痛い。学生の時から付き合ってきて、志保とは言い合いの喧嘩などしたことがない。だからこんなに取り乱す姿を初めて見た。 「こんなとこでくじけてる場合じゃないの! ねえ、体内受精で精子入れなきゃいけないときは、風俗でも何でも使っていいから! 何も言わないから! だから今日だけ、これ飲んでやってよ!」  匡樹はそれでも首を横に振る。 「それ、本気で言ってる? そんなことしてまで…俺が風俗通っても志保はなんとも思わないの?」 「なんともなんない。方法なんてなんでもいい。赤ちゃんさえ生まれたら、それでいい」  子供がいなくても二人で死ぬまでラブラブでいよう。二人だけも悪くないよね。そんな答え、もう志保からは出ないとわかっていても、迷いのない宣言を直接こんなにはっきり聞いてしまうと、ずっと立ちこめていた暗闇がついにずんと頭から落ちてくる。  あれ、何のために結婚したんだっけ?   交差点の死角から突然トラックが現れて衝突したかのように、いきなりそう思った。いつから自分たちは違う方向を向いていたのか。  こんな最悪の日、全然なかよしなんかじゃない。 「…ごめん。今日はどうしてもできない」  匡樹は立ち上がって服を着た。 「待ってよ、そんなの許さない! なんで? なんでわかってくれないの?!」  後ろから志保の声が追ってきたが、逃げるようにコートを着て外に出ると、夜の中ではらはらと雪が舞っていた。降るかも降るかもと言いながら冬の間中はずっと、結晶になりそびれた水滴がコンクリートを濡らしていたくせに三月にもなって、今頃。そんなにじらすならもう来ないまま次の季節になってくれて良かったのに。  行く当てもなく、しばらく街をさまよった。街灯に反射する細雪のせいで景色はいつもより明るい。音もなくこんこんと降りしきる雪の静けさが、どんどん匡樹を孤独にする。 『起きてる?』  こんな遅くに、保にメッセージを送ってみる。  しばらくすると『うん』とだけ返ってくる。なんでともどうしたとも訊いてこない、ただの存在表明。それに、なぜか怖いくらいほっとした。今もあの家に保がいる。綺麗に整頓された部屋で、ひっそりとこのメッセージを見ている。それを想像したら、無性に会いたくなった。   匡樹はタクシーを止めるため大通りに向かった。

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