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第9話
扉の前で匡樹は、ただならぬ表情をして立っていた。加えて溶けた雪で髪と肩が濡れそぼっている。
「ごめん、夜遅くに。入ってもいい?」
「…うん」
とりあえず乾いたタオルを渡す。『起きてる?』とメッセージが送られてから三十分は経った頃、急に玄関のインターホンが鳴った。
夜に意味もなくメッセージのやりとりはしたことがなかったから、ちょっとだけ来るのかもとは予想していたが、むしろ驚いたのはモニターの白黒画面に同化してしまいそうな暗い表情だった。
「お風呂、入る?」
「大丈夫」
脱いだコートはハンガーに通し、浴室のポールにかけたら乾燥のスイッチをオンにする。換気扇から吹き込む暖かい空気が風呂場を満たす音だけ、ひとりでうるさい。
「漢方、飲む?」
「いらない」
匡樹は口元だけで少し笑ったが、覇気のない笑顔は逆に保を不安にさせた。
部屋の温度を上げ、漢方ではなく暖かい緑茶が入ったコップを渡す。向かいの椅子に腰掛けた。一口飲んで、今初めて呼吸をしたような感じで匡樹は深く息を吐いた。
ようやく口を開いたと思えば出てきたのは「体調はどう?」と保の心配だった。
そんなの今、絶対どうでもいいのに。
「朝すっきり起きれるようにはなってる」
「ほんと? 貧血は?」
「とりあえず今のとこ大丈夫」
「すごいね、効果あるんだな」
「そうかも。結構俺もびっくりしてる」
「タバコも減ったよね、そういえば」
「うん、なんか吸うと苦く感じるようになった」
以前は一日ひと箱消費するくらいだったのだが今では一日に二本吸うか吸わないかで、忘れる日もあるくらいだった。でもそんなこと、今あえて説明する必要などない。
「それはいいことだ」
つかの間の、沈黙。匡樹はさっきからずっとコップの中をのぞき込んでいる。
「志保…妻と、ギクシャクしちゃって」
「そう」
何か言った方がいいのだろうが、こういうときの声のかけ方がわからなくて困った。
「理由、訊かないの?」
「…言いたいなら」
思った以上に突き放したような口調になってしまった。つくづく向いてない。保は手持ち部沙汰に左の小指の腹を机の下でそろそろ触る。
「子供が欲しいって志保が言ったのがもう二年前かな。それから色々独自に試してたんだけどやっぱ全然できなくてさ。去年の秋ごろから病院で本格的に不妊治療にかかってる」
初めて会ったときに匡樹が発した「励んでいる」の発言の本当の意味を知る。ただののろけだと思って何の気なしに聞いていたけれど、裏には深い意味があったのだ。
「じゃあ病院とか健康にやたら詳しかったのも、そのせい?」
「うん。妻が健康で赤ちゃんできやすい身体になれるようにっていろいろ勉強してるうち、俺だけ食べたいもの食べるのもなんか悪くなってさ。自分の生活も一緒に制限してて」
「最初、変に突っかかってごめん」
バーベキューの時、とんだ方向違いの喧嘩をふっかけてしまったことを今更後悔した。周りも気を遣うし妻が不妊治療してるとは確かにおおっぴらには言いにくいことだ。それをお気楽な死生観だと馬鹿にしていた自分が恥ずかしい。
「いいよそんなの。俺だってあれは本当に思ってることだし」
「でも、ひどいこと言った」
「うん、大丈夫。それで、月に一回だけ子供作るためにセックスするんだ。段々その日にするのが負担になっちゃってさ、ついに勃たなくなっちゃった」
「EDってやつ?」
「なのかな」
茶化すように肩をすくめる。
「…原因はあるの? 赤ちゃんができないことの」
「それが、ないから困るんだよね。どちらも問題ないですよって言われてるのに、なんでかだめなんだ」
「そんなことあるんだ。定期的にやってりゃ子供なんてそのうちできるもんだと思ってた」
「俺も結婚したては同じ事思ってたよ。でももしかしたら最初の検査では発見されてないだけで何か不具合があるのも。そして、その原因は俺にあるのかも」
肩を落とし、かすれた弱い声で、ぽつぽつと言葉にする。輪郭線が今にもはじけ散ってしまいそうだ。こんなに落ち込んだ匡樹の表情を見るのが始めてで、少なからず戸惑った。そもそもたいした悩みなんてない、あってもそんなの気にしないと笑い飛ばすような、あっけらかんとした人格の持ち主だと思っていた。
目の前の男を膨らませる暗い空気は、ぱんぱんに溜まっていてちょっと触れたらぱんとはじけてしまいそうに張り詰めていた。
「家族って、結婚って何なんだろう。子供はそんなに必要なもんなのかな」
「今は色んな形があるんじゃないの。子供がいない夫婦もいっぱいいるし、いざとなったら養子も迎えられるし」
実体験のかけらも伴わない、言っていて実に白々しい一般論だなと思う。匡樹はそれでもうっすら微笑んだ。
「妻がさ、休みのたびに実家に戻って甥っ子たちの相手したり、子育て番組真剣に見たりとかしてると、そんなことも簡単に言えなくて。どうにか子供作ってあげたいなとは思ってても、勧められて滋養強壮剤飲んだり風俗に行くようなことはどうしてもしたくないんだ。矛盾してるよな」
何も言えないで、匡樹の横顔を見ていた。丸まっていた背中を急に正したかと思うと匡樹は自分の頬をぱちんと叩く。
「だめだな、俺。自分がつらいわけじゃないのに。もっと大変な志保が隣にいるのに、こんな弱音なんて吐いてちゃわがままもいいとこだ」
無駄に明るい口調だった。
無理してるのはまるわかりなのに、よし、なんて言って自分を奮い立たせている。
なんだよそれ、と思った。
周りを気遣って笑わせて人の心配して世話焼いて、肝心の自分の気持ちは二の次かよ。豊富な知識は全部妻に当てた努力で、一緒に禁欲してこんなことにもなってまだ頑張って笑おうとしているだなんて、絶対おかしい。
子供だましの単純な映画なんかじゃ、簡単に泣くくせに。
「そんなわけないじゃん。喜久川さんだってつらいんじゃん。なんで誰かと比べるの? なんで弱音吐いちゃいけないの?」
むっとしながら、強い声音でそう言った。匡樹は弱々しく返す。
「やめてほしい…」
「やめない。つらいときにはつらいって言っていいんじゃないの。自分のことで泣きじゃくって嗚咽するのはなんでだめなの。それくらいの主張何にもわがままじゃない。バイアグラなんているかよって、怒ってたたきつけてやったらいい。風俗なんて通わなくても、もしくはいちいちそんな理由で許可されなくっても好きに通ったらいいんだ」
保の声が大きくなるほど、匡樹は頭を抱える。
「違う…違うんだ。俺を、そんなんじゃ駄目だってなじってくれよ…」
そうか、とそのとき思い当たった。歯にものを着せぬ言い方をする自分に匡樹が求めていたもの。雪の中わざわざここまで足を運んだ理由。馬鹿じゃない、くだらない頑張れよと、きっと叱責して欲しいのだ。
「やなこった。やめちゃえよ、優等生なんて。頑張んなくていいんだよ」
ついていた肘の隙間から、一粒水滴がぽたっと垂れ、テーブルを濡らした。顔を覆うのは白くて冷たそうな、大きい手だった。いつも与えるばかりのこの手を、誰が握ってやるのだろう。こんなときでも指輪はちゃんと蛍光灯のむなしい明度を受け止め光っている。いつかは一緒に愛を誓ったその指輪の相手には理解されないで。
「喜久川さんは自分の好きなままに生きたらいい。本当は嫌だから勃たないんだろ? 身体はよっぽど正直じゃん」
匡樹に望まれた役割なんてまっとうしてやるもんか。だって、今匡樹がここまで逃げてきたことを保が正論で責めてしまったらこの先誰が、この男の弱音を受け止めてあげるのか。
中の顔を知りたいようで、知りたくなかった。何度もためらって、でも結局表情を隠すその手にそっと保は自分の手を合わせた。それを感じ取って、顔を上げない匡樹が握り返す。溶けた雪じゃない水滴が保の指にも伝う。
「子供なんて、ほしくない。こんな風に作りたくない」
震えたか細い声が、微かに絞り出された。
「うん。それでいいんだよ」
匡樹が静かに泣いている間、反対の手で保はその頭をなでた。そうしてみると大きくていつも頼りがいのあった男が、初めて自分より幼く映った。可哀想? 慰めたい? 違う。ただ保がそうしたかったのだ。大丈夫だよ、と言ってあげたい。匡樹の髪の一本一本の感触を確認するたび、握られた右手の温度を感じるたび、心臓がねじ曲げられたような気持ちになって細く息継ぎをした。
「俺はさ、一度も人と付き合ったことがなんだ。当然まあ、そういう経験もなくて」
匡樹が落ち着いてから、そう切り出した。初めて他人に打ち明けたけど、思ったほど動揺しなかった。
「ああ実は、そんなかんじした」
匡樹の瞳は瞬きをゆっくり一回する。保同様、相手もなんでもないと平然としている。
「一色さん誕生日いつ?」
「七月一日」
「よかったね、あとちょっとじゃん」
「なにが」
「三十過ぎて童貞だったら、魔法使いになれるんだって」
「じゃあ誕生日プレゼントにはハートのステッキ買っといて」
「うそ、乗ってくれた」
「本気で殴ったらよかった? もっかいやる?」
「うそですごめんなさい」
謝る声はさっきよりは明るくなっていて、もうほとんどいつもの調子だった。保はほっとする。
「でさ。俺は結婚することもないし、子供作るなんてもっと可能性は少ない。それどころかこのままいくとパートナーさえできるか怪しいんじゃないかな。人間社会からはずいぶん逸脱してるけど、こんなやつだって世の中にはいるんだから、喜久川さんももっと肩の力抜きなよ。ちょっとは俺を見習ってもっと好きなことしてもバチ当たんないんじゃない」
「ありがとう」
それから突然匡樹はふっと笑う。
「俺たちがさ、何のために生まれて死ぬかって一説では遺伝子を次の世代に運ぶ器だからなんだってさ。子孫を残すことが、人間である証。だから行動も思考も本当はどうでもよくって、全部結局そこに紐付いてるって」
「ああ、それどっかで聞いたことある」
保は頷く。
自分が生まれた理由。そして、いつか死んでいく意味に思いを馳せてみる。
「全ての動物が子孫を繁栄するために生殖器を付けて生まれてきたんなら、俺たちはとんだ欠陥品だね」
「確かに。勃起しないやつに、子孫繁栄に興味ないやつ」
「ははは。生産性、ひどいもんだ」
「それでもこうして、生きていくしかない」
こうして宇宙のすみで、ひっそりと息をして。
「うん…生きねば」
匡樹は少し曖昧で自信なさげに、それでも保を肯定した。
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