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第10話
志保との長い話し合いはいつまでも平行線で、不妊治療をやめることに納得はしてくれなかった。
仕事を終え家に帰ると夜遅くまで話し合いは続き、いつも志保がパニック状態に陥っては中断される。このままじゃどうにもらちがあかないどころか関係は悪化する一方、何より毎晩削られる睡眠時間のせいで身体が限界だった。
考えた末いったん冷静になる目的も兼ねてついに匡樹はマンスリーマンションを契約した。駅前の不動産会社で地図と家賃を見比べ契約書にサインをすれば、内見もせずものの一時間で鍵を渡された。もういつでも住めますよ、と窓口の担当が微笑んだ時は愕然とした。少し前の自分なら考えられなかった手段が、こんなに簡単にできてしまうことだったなんて。
踏み出せたのはやっぱり、雪の降る日に保にそれでいい、と言ってもらえたからだった。あの日保に慰められていなかったら、こんな大胆な一歩は踏めなかっただろう。
仕事が終わって狭い一人の部屋に帰ると、寂しいよりは正直ほっとした。反面、開放的だと感じる自分が怖い。志保を裏切ってしまっているような気がした。それでもやっぱり、ぐっすり熟睡できる環境に安らぐ。
家に帰るのが待ち遠しかった結婚当初はつい三年前なのに、もう遠い記憶だった。
理想の結婚とはなんだろうと匡樹は考える。
結婚指輪をはめるとき、確かに永遠の愛を誓ったはずだ。一生笑って過ごせるという希望に満ちていた。でもそれは甘い期待だったと、鍵を開けた先で、狭い玄関で靴を脱ぐたび知らされる。そう思うに至るには、三年という月日は短いだろうか長いだろうか。自分の抱いている気持ちは誰しもが経験することだろうか、恥ずべき結果だろうか。
いよいよ自己嫌悪の滑走路が出来上がっていて、匡樹ははっと我に返った。
保の言った言葉が胸に響く。
頑張らなくていいと、遠慮がちに、それでも優しく撫でてくれた指の感触を思い出す。
そうだ、頑張らなくていいんだ。
「ゴミ屋敷」
引っ越しから一週間後、招いた保はワンルームの惨状を見て呆れている。
「うっそだあ、これでもけっこう片付けたんだけど」
「床に漫画は積み重ねない。ペットボトルはちゃんと冷蔵庫に入れる。洗顔がテレビ台の上になんで置いてあるわけ」
「だってここに置いとくと喉渇いたときすぐ飲めるしー。読みたいときもすぐ読めるしー」
「洗顔は?」
「ちょっと待って、今言い訳を考えてるから」
ため息を壮大に吐いて、床の漫画本を備え付けのラックに収める。空いた場所に保は鞄を落とす。
「でも聞いて? すごい発見なんだよ。俺別に綺麗好きじゃなかったんだなあって。今までは親や志保に言われてたからこまめに片付けてただけだったんだ。だって床見えなくても全然気になんないもん」
「にしても反動がすごい」
「うん、自覚はしてる」
ようやく恥ずかしくなって頭を掻くと、保は目を細め悪い顔を作る。
「そんな反抗期真っ盛りの喜久川さんにさらなる追い打ちを持ってきた」
ビールと酎ハイが入っているコンビニの袋を顔元まで持ってくる。
「飲めるんだろ? どうせ」
「わああ、悪魔のささやき。これまでの禁欲生活が」
「ED治したいんだったらそういうマイルール一回全部捨てたほうがいいよ。リハビリリハビリ」
保はさっさとローテーブルにつまみと酒をセットする。結局コーンビーフの誘惑に負けてビールを開けた。
「ぷはー。一年ぶりのお酒は最高にうまい」
「そんなによく禁酒してたよ。それもやっぱり『妻』に合わせてたんだ?」
「うん。飲酒ってよくないらしいからさ。でもさあ、あーんなに生活習慣整えて二年もできなかったんだから、なんか神様に言われてたのかもな」
「そうかもね。野生のコウノトリはとっくの昔に日本で絶滅してるし」
「一色さんのその容赦なさ」
「自分から言い出したんじゃん」
「責めてないよ、だから清々しくて好きなんだってこと」
「そうですか」
大してその話題には興味なさそうに保は缶を口に運ぶ。ついこの前見た、感情的な保は夢だったんじゃないかと思ってしまうくらい、今日は抑揚がない。
だからあの日の話題の続きを匡樹から切り出してみた。
「訊いていい? なんで前、結婚も付き合うこともこの先はないって言い切ったの? そんなのこの先わかんないじゃん」
「わかる。男でも女でも、人間が全体的に興味ないから」
「突然そうなったの? それともずっとそういう性格?」
保はいったんテーブルに缶を置いた。
「理由は、これ」
左手を、指切りする前みたいにぴんと立てて匡樹の目の前に差し出す。
立った小指の先には絆創膏色のテーピングが第一関節まで丁寧に巻かれている。
保は合わせ目をぺりぺりとめくった。
剥いた中から出てきたのは、指先にちょんととり付けられた小さな爪。保の、他の指に比べその大きさは三分の一ほどもない。それも綺麗なラウンド型ではなく、欠けたガラスの破片が埋め込まれたみたいないびつな形だった。
「気持ち悪いだろ?」
「気持ち悪くはないけど…痛くないの?」
「ごくまれに菌とか入る以外、普段は痛くない。生まれつき、左小指の爪だけこんな形なんだ。そのせいで小学生の時は軽くいじめられた。ノートルダムの鐘って知ってる? カジモドって言われてた」
「はあっ?」
怒りに任せ大きい声が出た。
「なんだよそれ。おかしいでしょ。全然違うじゃん」
保は反対に淡々としている。
「しょうがないよ。小さな違いが何十倍も大きく映っちゃう歳だったから。それこそ軍隊みたいに三十人が一斉に一緒のこと学んで、一緒のもの食べてれば尚更、差異が目に付く」
グランピングで保がワインボトルを自分で注がなかった一件がようやく腑に落ちた。
同時に、ずいぶん天然なんだなあとのんきに笑っていたあの時の自分を今ここに連れてきてガツンとゲンコツを食らわせてやりたい。保のとぼけた反応には理由がちゃんと存在することも知らないで。こんな小指ひとつで小さい時から周りに外見を否定されてしまっていたら、そりゃあ自分のことをイケメンだなんて思えないだろう。
「そんなことされて、よく今むしろ普通に暮らしてるね。俺だったら引きこもっちゃうよ」
保は遠い目をして左小指を右手で触る。身ぐるみを剥がされた小さな爪。そのいびつさを確認するように、反対の手の人差し指でそろそろ撫でている。無意識の癖なのだろう。
「登校拒否とかするには、普通の人間過ぎたから。学校ってちゃんと行かなきゃいけないものってやっぱり思うだろ。まあ実際別に俺が気にしなきゃいいだけの話だったし」
腹立たしい反面、悲しいかな保をいじめた子供たちの心理も読み取れてしまった。
綺麗な外見に対する羨望と嫉妬。完璧に見える人間に少しでも欠陥があるのならば、その弱点を攻撃することで優位性を得ようとしてしまう醜い心情。
そんな集団の刃が幼い保の心を歪めてしまった。
三十歳にもなって、偽物の肌色を貼り付けて隠していなければいけないくらいの傷を刻みながら。
「中学、高校って進んであからさまな攻撃はなくなって俺自身も気にすることはなくなったけど、それ以来なんか集団生活であぶれちゃって。違うな、こっちがあぶれることに慣れちゃったって言ったらいいかな。だから未だに自分から人と話したり深く関わったりすることが苦手だし避けてる」
「だから一色さんは誰とでもちょっと壁があるんだ」
「そ。そしてこの先も、付き合うことも結婚することもないんじゃないかっていう確信に近い予想」
「いつも小指が隠れてたのは気づいてたけど、バレーで突き指でもしてるんだと思ってた」
思うことは多々あるのだが、説明する当の本人に感情の揺れは見受けられないので、自分が勝手に怒るのも違うなと思いそんなことを冗談で言ってみた。
「俺が汗掻いてトス上げてんの? その推理笑える」
「見当違いの推理ついでにすごい浅はかな考察をしていい?」
「そもそも考察とは深く考えることなんだけど。まあいいや、どうぞ」
「一色さんがストレスを感じにくいのって、もしかしてそういう過去があるから、無意識に外野からの声を心が聞かないように閉店がらがらしてるのかな? だからシャッターの前にストレスが積もってるのを知らないで、気づいたら雪崩れてるみたいな。あ、ぶっ倒れる話ね」
今度は冗談ではなく、本当に思っていることを口にする。
「そうなのかな。言われるまで二つを関連付けたことはなかったけど、深層心理でないとは言い切れないかもね」
心のやぶれ目をぴったり丁寧に裏から縫い合わせたような、平坦な声だった。保の過去を聞かなければ縫い跡になど気づかなかったくらいの。この喜怒哀楽の読みづらい薄い肌色のベールを纏った表情になる前までの過程を、匡樹は知り得ない。でもそこには並ならぬ苦労や努力があったのだろう。
「もう一つ訊いて言い? …指のことなんで言ってくれたの?」
「なんでかな。喜久川さんには、言ってもいい気がした」
柿ピーをぽりぽり食べながら保は首をかしげる。
「EDだってこと、俺が話したから?」
「ううん。それがなくても、いつかは言ったと思う。なんでかは、うまく言えないけど」
正直に、嬉しいと感じた。秘密を打ち明けてくれたことに。保が自分に心を許してくれているような気がしたから。それは傷のなめ合いがしたいわけでも、あるいは自分より不幸な人間を見て安心するような複雑な感情でもなく、もっともっと原始的で単純な嬉しさだった。
それは、気になる子と通学のバスで偶然居合わせたときや、不意に目が合ったときのぱっときらめく高揚のような。
「やめなよ、テーピングなんて」
だからこそ、強くそう言った。
「でも初めて見る人はやっぱりびっくりするから、エチケット的なね。化粧前は超絶不細工の女が顔作り込むみたいな感覚で」
「そんな不細工でもコンビニにはすっぴんで行くもんだよ」
「そうなんだけどさ」
「俺は気にしないから。俺と会うときは隠さないで」
「…そのうちね」
保はピーナッツをかじるのをやめて、困ったように俯いた。表情の変化はないけれど、きっと不快ではないのだとわかった。
「俺さ、結婚する時って何があっても気持ちって変わらないものだって思ってたんだよね。悲しいかなそうじゃなかった。だけど逆もあると思うんだよ。いじめられた過去が一色さんの人間不信ぎみを作ってるんだとしても、やっぱり一生同じかはわかんない」
同じじゃないでいてほしい、とは匡樹自身の希望だった。
「だからこの先のことは何も言い切れないよ。無責任だけど、この状況だからこそ俺は今一色さんに言える気がする」
結婚しろ、付き合ってみろと言いたいわけじゃない。ただどんな形であれ、保がこの先充実して暮らせたらいい。悩みを打ち明けたり感動やときには悲しみさえ誰かと共有できたなら。
いきなり倒れたりせず、一人で、指を隠すことがないように。
そこまで考えてから、気づく。保にそうなってほしいと思うことと、匡樹が保に今してやりたいことがぴたりと一致している。悲しいなら言って欲しい、保を笑わせたい、心動かされたものを教えてほしい。感情を、共有したいと強く思う。
じゃあ志保に対してはどうだ。
確かに悩みがあったら聞いてやりたい。困っていたら助けてやりたい。とはいえ志保には志保の、匡樹には匡樹の個別な世界がそれぞれ存在し、それが今まで重なることはなかった。例えば趣味。志保は子供向けのアニメやぬいぐるみが好きで、そんな姿を見て微笑ましいと思いはしても、その趣向を共有したいという感情は湧かなかった。
志保も志保で匡樹の好きな映画や本に興味を示したりはしない。交友関係の範囲だってずっと別々だった。お互いの友人に会わせるときは別のテリトリーに『お邪魔する』という意識で、今まではそれが当たり前だと思っていた。
結婚してからもずっと変わらずに。
しかし保は違う。
保が何を考えて何を発言し、なぜその行動に至ったのか、いちいち知りたい。趣味も友達も(いればだけれど)通勤する電車からの景色すら、体験したい。保の心のプールがあれば、ばしゃんと頭から飛び込んでその中から世界を眺めてみたいと思うのだ。
なぜか。単純に同性だから? 保がミステリアスだから? あるいはお互いの痛みを知ってしまったたから?
「一色さんはさ、笑ったりもしくは思いっきり腹抱えて爆笑することってあるの?」
「なにそれ、いきなり」
「見たことないから、想像できなくて」
バーベキューをしたその日、ベッドで想像した保の笑う表情はいびつだった。実際には、まだ確かめられていない。そういえば、志保との曲がった歯車が可視化されたのもあの夜からだった。
「覚えてる限り、ないな」
「えー、じゃあちょっとこれ見てみて」
小さいスマホ画面で動画サイトからおすすめのお笑いネタを再生する。用心して顔をのぞき込んで見ていれば、喉の奥でふふ、とは言うものの表情はやっぱりほとんど変わらない。
「うーん、手強いな…こんに面白いものを」
「だから言ったじゃん」
「よし、俺は一色さんを笑わせることを今後の目標にしよう」
「なんだそれ」
「このシリーズのDVDセット、大人買いするから次うち来たら一から観ようよ。どっかに一色さんの爆笑ポイントがあるかも」
家に入って来たとき以上に呆れた表情を保は見せたが、笑った顔を見たいという衝動はそれでも消えなかった。
「やめなよ。あんまり荷物増やしたらまた戻るとき引っ越すの大変になる。最初に言っとくけど俺、手伝わないから」
そうだ。この生活には終わりがあるのだ。永遠にこのワンルームに住まうわけじゃない。でも、どのタイミングで志保との日常を再会すればいいのか全く想像ができなかった。
「そういえば次の日曜、暇?」
保の帰り際、玄関で見送りながら次はいつ会えるのかを考える。
「いつも通り、特に予定はないけど」
「最近発売した、うちのフラッフィールドで作ったおむつあるじゃん」
「ああ、喜久川さんが企画営業したって言ってたやつ。このごろCMでよく流れてるね」
「オーガニックスタイルフォーラムっていう企業も個人も参加できる販売会イベントがあるんだけど、そこでうちと先方メーカーの共同でブース出店して売るんだって、おむつ。広告の吉原さんからチケットもらったんだ。よかったら一緒に見に行ってみない?」
「遠慮しとく、おむつ見ててもつまんないし」
さも嫌そうに保が眉をひそめる。正直な保の反応にいつもは笑えるのだが、今日はなぜか面白くない。さっきまであんなに深い話をしておいて、おむつごときに軽々しく負けるなんて。
それよりも、保は自分に会いたいとは思わないのだろうか。今靴を一人で履くことが名残惜しくはないのだろうか。
いつも自分から約束を取り付けているが、その連絡を絶ったら保にはもう会えないのかもしれない。自分の部屋なのに、なぜだか置き去りにされてしまうような気がしている。
引き留めてみたらどんな反応をするのか知りたかった。
くだらない思いつきだ。久々のアルコールで悪酔いしている。
「おむつ売ってるのひたすら観察するわけじゃないよ。俺らは客として行くから、ブースには顔見せるだけ。界隈では有名なイベントだから、参加者も多いし色々珍しいのあって楽しいよ絶対。ねえ一緒に行ーこーうーよー。ねえねえってばー」
「もう、おもちゃもらえない駄々っ子か」
「おにーさんプラレール買ってぇ」
「一人でトイザウルスに行きなさい」
「やだあ、オークションで十五万の絶版品寝台列車セットがいいー」
「高っ」
「あっもしもし俺だけど。ちょっとお金振り込んで欲しいんだけどさあ」
「それはもはやただの詐欺。…ああもうわかったよ、何時集合?」
そして、強く押すとちゃんと負けてくれることももう知っている。差し伸べてくれた手の温かさも。薄いベールをめくったの中の保は優しい心の持ち主だ。それでも匡樹から伸ばした糸を握ってはくれない。
自分からも、伸ばすことは決してしない。
だから扉が余韻もなく閉まったとき、遠ざかる足音を聞きながら、匡樹はもどかしいと感じるしかなかった。
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