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第11話

 匡樹の事前予告通り、最終日のフォーラムはなかなか混んでいた。  どこぞのテレビ局の腕章をした取材班もちらほら見かけ、会場は所狭しと賑わっている。  匡樹の後について自社ブースに立ち寄れば多くの人で飛ぶようにおむつが売れていた。  挨拶をして匡樹が差し入れを渡すとさっさと退散してあとは会場をゆっくり回る。  各ブース内では野菜に始まり花、加工食品まであらゆる商品が売られている。かと思えば手作りの雑貨や化粧品なんかもあって、ひとつひとつパーテーションをまわりながらいちいち感心する。 「喜久川さんのみならず、世間がこんなにオーガニックに関心があったとは」 「そうだよ。さては俺だけのマイブームだと思って相手にしてなかっただろー」 「うん、もしくはメディア操作か一部のセレブの暇つぶしか」 「その影響は間違いなく大きいんだけどさ。あとは震災も重なったから一気に市場の関心が環境に向いてんだよね」 「だとしたら今のタイミングでオーガニックコットンのおむつ売り出すってぴったり時代に合ってるんだね。話題になるわけだ」 「それ発案営業したの誰だっけ?」 「…あ、あそこ有機大豆の醤油だって、豆腐にかけたらおいしそう」 「ちぇー。もっと褒めてくれてもいいのにー」  匡樹はつまらなそうに口を尖らせる。 「喜久川さんは飄々と仕事こなしてるように見えて、案外褒められたがりだよね」 「うん。プライベートで近くにいる人に褒められると嬉しい。上司とか部下に言われてもなんとも思わないんだけど」  臆面もなく言う。  ということは、保を近しい人物と認識していると捉えていいのか。あんなに交友関係が広いのに、そういえばこのところ休日はずっと保と会っている。  友人関係の中で今自分はどれくらいの立ち位置にいるのだろう?   そんなくだらないことを考えそうになって保は軽く首を振った。 「はいはい喜久川さんは偉い偉い」 「わあ。心のこもってなさ、百点」 「まさか喜久川さんって…天才だったんじゃないですか…?」 「今度は白々しいゲージ振り切りすぎ。もっとこう、自然な感じで」 「もう、注文が多いな」 「一色さん、ちなみに女子の会話術さしすせそって知ってる?」 「それくらいもう一般常識だろ」 「じゃあ言ってみて」 「最悪、死ね、すごく不快、性格歪んでる、その話長い?」 「わっそうきたか。そんな悪態すらすらと口にされたら立ち直れないよ。ぐっさぐさ傷ついちゃう」 「だってそれが狙いなんじゃん」  ちょうど入り口から半周したあたりだろうか、イベントステージにさしかかったところで、壁際できょろきょろ辺りを見回している小さい子供に目が止まった。 「あれ、迷子じゃない?」 「本当だ。行ってみよう」  言うが早いがもう駆け寄っている。 「こんにちはー、どうしたの? お母さんは?」  低い目線に合わせ、匡樹がかがむ。  匡樹の、語りかける柔らかな口調に緊張の糸が解けたのかわっと子供が泣き出した。 「おかあさん、いなくなっちゃった」 「いや絶対逆だろ」 「一色さんちょっとしっ」  匡樹に軽くたしなめられてしょうがなく保は押し黙る。後ろで大人しく様子を伺うことにする。  服装から見るに性別は、多分男。人間未満の生き物とふれ合う機会が一切ないせいで保には年齢を全く予想できない。かろうじて読み取れるのは赤ちゃんより大きく小学生より小さい、ということだけ。自分で歩けて話せるようだがそれが一歳から六歳のどこに当たるのかは検討もつかない。 「だいじょうぶだいじょうぶ。おかあさんはどこかなー? 一緒に探そうね」  泣きじゃくる子供を抱きしめて背中を一定のリズムでトントン叩く。次第にギャン泣きしていた声も収まってくる。保であれば考え抜いて、それでもやるかどうかは定かではない行動の一つ一つをさっきから匡樹は一瞬もためらわない。その行動力には心から恐れ入る。  たまに新聞に載る心肺停止の乗客を救った一般人、みたいなケースはきっとこういう人物が迷わず応急処置を施すのだろう。 「お名前は、なんですか?」 「よしだ、はると」 「はるとくんは、何才ですかー?」 「さんさい」 「すごいねえ、よく言えたねえ」  撫でられる大きなてのひらにすっぽりと頭が収まっている。目、耳、手、何もかもが小さい。匡樹は後ろにいた保を振り返る。 「一色さん、パンフの地図見れる? 場内放送してくれるとこどこだろう?」 「えっと…多分入り口の奥、かな」 「おっけー」  まだ不安そうな男児をひょいと持ち上げて抱きかかえた。地図の指し示す一角に連れて行くと匡樹はスタッフに事情を説明する。放送後いくばもせず母親が慌ててやってきた。  ずっと握っていた子供の手を母親に開け渡すまでの一連の作業が、保にはとても慣れて映った。 「お母さん早く見つかってよかったー。こんなごった返しの人ごみではぐれたら親もめちゃくちゃ心配だもんな」 「そうだね」  ほっと一息つく匡樹は『お父さん』と書かれた器をちゃんと備え持って生まれてきた人物だという気がする。ああやって笑いかけながら公園で遊んだり、時には叱ったり困ったりするんだろうと、父親になった匡樹をはっきりと想像できた。  匡樹側からしても、子供好きなのだということは十分伝わってきた。  もし自分が匡樹の子供だったら、自慢のお父さんが大好きになったはずだ。もし妻だったなら、優しい亭主が誇らしいはずだ。こんなに適任者がなぜ父親になれないのだろう。  難しい筆記試験もなく、合格点さえいらないのに。  運命のいたずらと言ってしまえばそれまでの話だけれど、匡樹に降りかかる不条理の荒波について保はただ憤っていた。  一方で、父親になんて一生ならなければいいと意地悪い気持ちも湧いている。  だって、この文句なしの子煩悩予備軍に子供なんかできてしまったら、休日こうやって軽々しく自分と出かけたりはしなくなるだろうから。  なんなんだ、このぐちゃぐちゃの感情は。 「一色さん? あと半分残ってるけど、まわっちゃう?」 「お腹空いた。何か食べたい」  だからつい、わがままを口にした。  絶対叶えてくれるとわかっているのに、いいよと言って欲しい。さっきの子供によりも優しく、妻によりも甘い声が聞きたい。  匡樹から自分だけに向かう、ありったけの肯定を受け止めたい。 「うん、いいよ」  そして思い通りの言葉が返ってきたとき、匡樹の声が光線のように早く耳を通り抜け、ぱしっと心臓を表面から突き刺した。 「外にフードエリアがあったね。今日暖かいし、あそこ行ってみる?」 「…うん」 「何食べようか?」   気づけば匡樹に顔をのぞき込まれている。 「一色さん?」 「ああ、なんでもない」  過去の話をしたときは、自分のことのように怒ってくれて、昔の煮え切らなかった思いが、今ごろになって昇華された気がした。指を隠さないで、と言われて心が温かくもなった。それはなぜなのか。はっきりと結論を出すのが怖かった。 「もう春だね」  根野菜の沢山入ったシチューを食べながらしみじみと目を細めた匡樹が言う。  暖かい風が、つぶやきを肯定するようにその髪を撫でては去っていく。  フードエリアのすぐ横には芝生があって、子供たちがちょこまかとアスレチックで遊んでいた。ついこの前まであんなに寒かったのが嘘みたいだった。  冬が最後に振り絞った三月の雪。  あの日玄関の前に立っていた匡樹ごと、本当は全部嘘だったならよかったのになと思う。もしあんな姿を見なかったら匡樹は保の中でたまに目にするだけの、脳天気そうなただの同期に過ぎなかったはずなのに。  滑り台に登るたどたどしい足取りを遠目に眺める匡樹の、横顔に差した陰の意味なんて、知らないで済んだのに。  食べ終わったトレーを返却口に返すと、匡樹の視線がすっとその先に寄せられた。相手も匡樹の気配を感じてほぼ同時に振り返る。 「まさくん?」 「志保? どうしてここに?」  ああ、これが噂の妻。  肩甲骨まで伸びる長い黒髪にまず目が行った。もこもこしたオーバーサイズの白いアウターの下には華奢な肩が隠れていて、小花柄のロングスカートが髪と一緒の方向に風を受けてなびいている。顔は可愛らしい系統なのだが、絶世の美人というわけではない。匡樹からちらほら聞く会話の内容から、もっとモデルっぽい強めの外見の女を想像していた。女グループの中でもバリバリの一軍で、美男美女で大学内では道の真ん中を堂々と歩くような美男美女カップルだと思っていたのに、意外だった。良く言えば少女漫画の主人公っぽくて、悪い言い方をすれば、かまととぶっている。  これが匡樹の愛を一身に受けて、結婚までした女。  一見比べてみると不釣り合いそうで、それが余計複雑だった。匡樹を外見以外で魅了する何かを、ちゃんと持ち合わせているのだろう。 「ちょっと前メールしたときまさくんが教えてくれたんじゃん、このフォーラム。千恵ちゃんに話したら楽しそうって言うかられんくんも連れて一緒に来てみたんだ。ほら、あそこ」  滑り台の前あたり、志保が手を振った先で遊んでいた親子がこちらに向かって挨拶をする。 「そうだったな。もう場内は見て回ったの?」 「うん、だいたいね。ご飯も食べて、ゆっくりしてたとこだよ」  会話しているところを見る限り二人の関係は良好そうに見える。保が思うより頻繁に連絡を取り合っているのかもしれない。 「そちらの方は?」 「ほら前に話した、一色さん。品質管理課の」 「あ、主人がお世話になっております」  明らかに 思い当たってなさそうな顔。保は保でやる気のない会釈を返す。 「まさくん、元気そうだね」 「志保も」  志保と匡樹の間に濃密な空気がその一瞬流れて、自分はただの部外者にすぎないことを瞬時に悟った。保は学芸会で後ろに立っている大道具に紛れるだけの木、そのものだった。 「そうだ、まさくんこれ見て、さっきブースで見かけて買っちゃったの」  志保はごそごそ肩からかけた鞄を探る。中から出てきたのは赤ちゃんに付ける、おそらくよだれかけだ。黄色の生地の真ん中にデフォルメされたあひるが刺繍で施されている。 「スタイだよ。黄色だから男の子でも女の子でも、どっちにも使えそうじゃない?」 「うん、可愛いね」  後ろ姿から匡樹の表情は見えない。でもやっぱり、笑っている気がした。満遍の笑みで、未来にそれを使う自分の子供が待ちきれないというように。  やめろよと、叫びたかった。  もうやめてやれよと言って、間に入りたかった。  あんたのその行動が喜久川さんを追い詰めてんだよ。旦那が苦しがってるのがなんでわかんないんだよ。  でもそんなこと言える立場でもないし、二人の問題に保が口を挟む権利はない。匡樹だって望んでいない。悔しくて惨めで、でもどうしようもなくて保は唇をかみしめた。  そして唐突に認めた。自分が匡樹を好きになっていたことを。いや、本当はちゃんと知っていた。気づかないふりをしていただけだった。でもこんな、今にも叫び出して、匡樹を妻と引き剥がしたい衝動に駆られてしまったら、嫌でも認めるしかない。  二人の姿をこれ以上見るのが、耐えきれなかった。  足にかけられた金縛りをどうにか解き、匡樹を置いてその場を離れる。  何台も並ぶフードトラックの隙間を早足で歩いて抜けたら、建物の裏にさしかかった。  人生で初めて好きになったのがよりにもよって男とは。しかもずっとひとりでいることをこの前宣言したばかりだというのに。でもあのときだって、本当に心からそう思っていたかは今となってはわからない。匡樹と会う前までは、というだけだ。  どんどん歩いていると人気がなくなるのでもしかしたら搬入口に迷い込んでしまったかもしれない。引き返そうと足を止めたとき、腕を捕まれた。 「一色さんっ。…どうしたの、急に」  匡樹だった。駆けてきたのか、息が軽く上がっている。 「なんでもない」 「待ってよ」 「俺のことなんかほっとけよ。向こう戻ってあげたら」 「志保は大丈夫、もう話は終わったよ。それよりも一色さんが心配だ」 「気にしないでくれていい」 「やだよ。だって今ほっといたら、一色さんは俺ともう会ってくれないような気がする」 「別にそうなったらそうなったで不自由ないだろ、喜久川さんの生活に、俺は関係ないんだから」  そう、何も関係はない。  匡樹には将来を誓ったパートナーがいて、新しい家族を作りたくて、自分の存在なんてこれっぽっちもその人生には関与しない。  この不格好な小指の爪ほども。 「何で、泣いてるの?」  そこでようやく自分の頬が濡れていることに気づいた。確認してしまうと、涙は止まるどころかとめどなく流れてくる。感情と涙腺をつなぐ管を引きちぎられたみたいだった。 「なんでも、ないから」 「俺のことで、泣いてるの?」 「ちがう」  捕まれた腕を振り払おうとしたら、抱きしめられた。さっきの迷子にやったような受け止めるような抱擁ではなく、皮膚をめり込ませるような、強い力だった。 「やめろ、子供じゃない」 「うん。一色さんは迷子の子供じゃないよ」  そう言いながらも、腕の力は弱まることがない。 「一色さんの能面が剥がれるとこ見たの、これで二回目だ」 「だから何だよ」 「一色さんは…強いふりして実は弱かったり、ずっと素っ気ないのに不意に優しかったり、めちゃくちゃ難しい人だね。全然読めないよ。だから、目が離せなくなる」  匡樹の髪が、耳の裏をくすぐる。いつのまにか嗅ぎ慣れた匡樹の匂いがする。本人の眼差しにも似て、それはいつもほのかに甘い。腕の力を早く弱めて欲しかった。  だから保は反対に、当たり散らすように吐き捨てた。 「喜久川さんは、面倒な仕事振ってくるし無理矢理変な集まり参加させてくるし部屋は汚いし大雑把だしいきなり家来るし沢山しゃべらされる。会うといつも疲れる」 「はは、ぼろくそだ」  眉毛を下げてから笑う匡樹。背後のフェンスは自然界のどこにもない鮮やかな青色だった。その編み目に、枯れた朝顔が絡まっている。薄茶色に乾いたぱりぱりの外皮が割れて、黒い種が中から顔をのぞかせていた。  そういえば朝顔の種ってこんな形だった。  その半月型の黒い粒はほどなくしたら土へと落ち、やがて葉が芽吹くのだろう。誰に水を与えられることなくとも花を咲かせ、短い一生を終える頃にはやっぱり次の種を付けるのだ。何千年も何万年もそうしてきたように、繁殖を繰り返す。  同時に迷子の子供の顔や、志保の持っていたよだれかけを思い出した。 「喜久川さんは」 「うん」 「人の為なら自分の時間平気で削るしいっつも体調気遣にしてて俺が疲れたの察知したらちゃんと見計らって帰る」 「うん」 「自分のことばっかいつも置いといて、そんなに親切にできるくせに自分には一番優しくない。崖っぷちで死にそうな人助けて、自分が代わりに落ちてくみたいな生き方、見ててむかつく。ひっぱたいてやりたい」  頬を濡らしていた涙を拭われる。 「うん、ごめん」   首元から顔を上げ、匡樹が前に立つ。 「はい」 「何だよ?」 「ひっぱたくんでしょ。どうぞ」  至近距離で匡樹と目が合う。  覚悟している人の顔をこんなに間近で見たのは初めてだった。  だから手を振りかざす代わりに唇を合わせた。  混乱する感情の渦から湧いて出てきた、ただの一つの衝動にすぎなかった。  いったん唇を重ねてしまったら、もうどうにでもなれとやけっぱちになってぷっくりと膨らんだ肉を奥歯で噛むように深く吸った。初めてのキス、やりかたは大いに間違っている自信があったけれどそんなことはもうどうでもよかった。はなっから何かを求めているわけではない。  春が来る。  植物は受粉し、動物は交尾する。次の世代へと命をつなぐ、新しい季節。  大きな自然のサイクルからはじかれた自分がたった今、匡樹と何もない、始まりの世界に二人だけで存在しているような錯覚を覚えた。  神によって創造された人間、アダムとイヴのような。  そしてすぐ馬鹿げた妄想を自ら嗤う。自分は匡樹のパートナーにはなれない。  唇を離したとき、匡樹は目を普段の二倍の大きさにして固まっていた。 「はは、ばーか。間抜けな顔して」 「…だって」  その瞳を見てしまったら、保の決心は逆に揺るぎないものになった。 「喜久川さん、俺に勃たせられるか試させて」 「…え?」 「ED治してみよう」 「そんな無茶な…勃たなかったらどうするの?」 「別に、俺は痛くもかゆくもない。でももし治ったらラッキーじゃん。それで喜久川さんはちゃんと家に戻れるし、子作りにもまた励める。だからダメもとで一回だけ俺で試してみて」  めちゃくちゃな提案だとわかっていた。匡樹と自分、男と男で。  でも口にしてみると、これが今保がすべきことの、一番正しい選択のような気がした。叱咤激励するでも、大丈夫と慰めるでもなく、匡樹を元通りに戻すこと。それしか、思いつく限り今の自分が匡樹にしてやれることはなかったから。  歪んでいて到底普通じゃない、それでもやっと導き出した自分なりの正解だった。 「わかった」  眉をぎゅっと寄せた匡樹は、何かを決意するように頷いた。

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