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第90話

 「そろそろ...戻らないと、」  じゃないと優也に心配をかけてしまう。ここに来る時もちゃんとした理由も言わずに走ってきてしまった。  「...はぁ...くっ...」  立ち上がろうと壁に手をつければたったそれだけで腕に鈍い痛みが走る。  ― ダメだ、体中が痛い。今日は優也に適当に電話を入れてそのまま家に帰ろう。  それに今は後夜祭に出て盛り上がるという気分にもなれなかった。  重たい足取りで教室まで行き、優也に電話で帰ることを伝える。あくまでいつも通りに、だ。  こんなこと優也に言えるわけがない。それに湊の立場が悪くなってしまう。  「...あぁ、楽しんできてよ。おう、それじゃあ。....はぁ、」  電話を切りため息をする。  何だか疲れた。一度に色々なことがありすぎてただでさえボロボロだった精神は追い込まれ、悲鳴を上げている。  「これからどう過ごしていけばいいんだ」  学校に行きたくない、そんな思いも浮かんだ。だがそれではダメだ。  そんなのは逃げているのと一緒だ。俺はそんなことはしたくない。  「なんとか、なる...かな、」  まぁ、そんなのは無理だろうな、と思い自嘲気味に笑った。  とりあえず帰って傷の手当てをしようと那智は鞄を持つと教室を出て玄関へと向かう。  生徒は皆、後夜祭のためにグラウンドに行っているためにあたりは静まり返っていた。  だがいなくてよかったと安堵の息をもらす。今のたどたどしい歩きはとても不自然で誰か友人が近くを通ればきっと心配して声をかけられていたに違いない。  まぐれか、わざとかは分からないが顔には一切傷はない。  しかしこれがせめてもの救いだった。  制服を着ているし歩き方が不自然なところ以外はいつも通りの自分だ。  帰って、体を休めれば歩き方も少しは自然になるだろう。  とにかく湊に暴力を振るわれたということは隠さなくては...  今の状態を優也にでも見られたらきっとあいつは俺が正直に答えるまでこのケガのことを問いつめてくるだろう。  「啓吾は...どうでもいいと思うかな、」  今の啓吾の考えていることはよくわからない。俺のことイラつくとか、親友になんか戻らないとかっていって....変なこととか、してきたり、  本当よくわからない。  「 おい、」  「うっ、え...け、啓吾っ、」  そんなことを考えながら玄関で靴を履き替えていると急に後ろから声を掛けられ肩をビクつかせた。  まさか後夜祭の真っ最中の時に人がいるとは思わず、那智は驚きを隠せないでいた。しかもその人物が啓吾ときたから余計に...  「俺もいるよーっ、」  「っ、のぞ、む...」  ヒョコ、と啓吾の後ろから望が出てきてヒラヒラと手を振る。  望と、啓吾...。その時、那智の頭の中に出てきたのは先程湊に言われたことと、されたこと。  “お前のせいであいつは傷ついたんだ!!”そう言い冷たい瞳で俺を見下ろす湊。  容赦なく暴力を...代償をあたえる湊、  体中の傷がズクリ、と痛んだ。  「お前、帰るのか?」  「え、あ、うん。」  早く立ち去らなければ。そう、那智の中で警報が鳴る。  とりあえずこの場を離れなければと思い、一歩足を踏み出そうとした時、「那智」と啓吾に再び名を呼ばれた。  「今日の階段でのことさ——— 」  「あー、ごめん。ちょっと俺急いでるんだ!後でメールでもしてよ」  “階段での...”啓吾がその言葉を発した瞬間、望の肩がピクリと動いたのを那智は見逃さなかった。慌てて啓吾の言葉を遮り去ろうと足を一歩踏み出す。  やはり望は階段で啓吾が俺にキスをしているのを見たのだ。  ― ダメだ。啓吾にその話をさせてはいけない。  「おい、待てよ」  「う゛ぁっ...ぐ、」  しかし那智が2人の元から離れるよりも先に啓吾に腕を掴まれる。  そして運悪く、掴まれたその位置は湊に蹴られたところで不意に那智の口から呻き声が出てしまった。  「那智...?」  不審気な啓吾の声が聞こえ、焦りのせいで額に冷や汗が流れる。  これはヤバい、と後ろを振り向けば腕を掴みながら眉をひそめこちらを見ている啓吾と、不思議そうに口を開けている望の目と合った。  「あははっ!2人ともなんて顔してんだよ。ちょっとビックリして変な声出ただけだろ」  無理矢理、口角を上げ笑顔をつくりながら苦し紛れの言い訳をする。  「てか、啓吾そろそろ手離せよ。俺急いでて...って、ちょ、何して...っ!!」  なんとか言い逃れしようとしていると啓吾は片方の空いている手で那智の腕を捲りあげた。  そして当然のことながら暴力を振るわれ、多くの痣が散らばっている腕が露わになる。  「...これは、どういうことだ」  低い声で明らかに雰囲気の変わった啓吾の声。  「え、それ、痣...?」  そして戸惑ったような、心配そうな望の声。  「か、帰るっ、」  無理矢理掴んでいる啓吾の手を振り払うと、痛みで悲鳴を上げる体を無視して外へと走った。  そうして途中何度も転びそうになりながらも走り続ける。  これ以上あの場にいてはいけない。  走って走って、学校が見えなくなった頃漸く那智は立ち止まった。  走ったことによって乱れた呼吸は、傷の痛みで余計に荒くなる。  体の節々が痛い。足が震える。呼吸も中々整うことなく、頻呼吸で落ち着かない。目に涙の膜が張り、嫌な汗が背中をつたった。  後ろを振り返るが後を追ってきている様子はない。近くの公園で少し休もうと思ったが、その時になって那智は自分に向けられる不審気な視線の数々に気がついた。  何とも言えない居心地の悪さにため息を吐くと仕方ない、と家の方に向かって再び歩き出す。  「腕...見られた...」  痣だらけのこの腕を...。しかも、もっとも見せてはいけない人物、望にも見られてしまった。  もしこのケガを湊によってされたと、望が知ったらどうなるだろうか。  湊を責めて、貶して...非難するのか?そうしたらきっと湊は傷ついて...そして、俺を更に憎むに違いない。  「そんなの、嫌だ...」  これ以上、湊に嫌われたくない。もう大好きな相手にあれ以上酷いことをされたくない。  そして那智の中でこのことを隠さなくては、という気持ちが増していった。  明日は金曜...土曜、日曜と学校は休みで...  「...とりあえず明日は休もう、」  ― 明日は行ったとしてもこの痣のことで質問責めになるだけだ。  それに3日も経てば少しはほとぼりが冷めるだろう...そう期待を込めて。

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