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第91話

 那智が走り去っていく姿を啓吾はただ目で追っていた。  体が動かなかった。それほど那智の腕は衝撃的だった。あんな痣、階段で会った時にはなかった。  「誰かに...殴られたりしたのかな、」  すると隣にいた望がおもむろにそう、口を開いた。    「...だとしたら一体誰があんなにひどく...」  暴力を...そう言おうとした啓吾はハッとして口をつぐんだ。  思い出すのは那智を無理矢理犯した日のこと。あの時はただ衝動的に暴力を振るってしまった。  今は...酷くあの日のことについては後悔していた。しかし今どれだけ反省しても...それでも暴力を振るってしまったことに変わりはない。  俺は那智にとっての加害者だ。そんな俺に、那智を傷つけたであろう人物を責める権利はあるのか。  ― いや、そんな権利は俺にはない。  大切な那智が暴力を振るわれたであろうという事実に激しい怒りが湧きその人物を憎む気持が募る。  だがその怒りをそいつにぶつけてはいけない。自分だって加害者であるのに都合よく、自分のことを棚に上げて怒りをぶつけるなんて...そんなこと俺にはできない。  「啓吾...?」  「...ん?ぁ、悪い。ちょっと考え事」  しばらく固まってそんなことを考えていると不意に望が顔を覗きこむようにして心配そうに声を掛けてきた。  しかしそれよりも俺はあることに気がかかる。  「なんか、顔近くないか?」  ズイ、と顔を近づけてきた望は上目遣いで俺を見上げる。鼻がくっつきそうなほどの近さに思わず俺は僅かに顔を引いた。  「 啓吾 」  すると望はジーッと俺の目を凛とした瞳で見つめ、  「 キスして 」  そんな馬鹿げたことを言いだした。  「は?冗談はやめろ。そんなこと軽々しく言うな」  急に妙な雰囲気を醸し出したかと思えばこいつは...。  反応に困り、俺はそう望に返した。しかし冗談で望がそんなことを言っていないというのは、こいつの目を見て分かっていた。  だが俺はあえて知らないふりをして話を逸らそうと、どうにか頭をまわして言葉を探す。  「...那智には軽々しくしてたくせに、」  「...あ?何か言ったか」  望は何やらブツブツと呟いていたが啓吾の耳がそれを捉えることはなかった。  「まぁ、とりあえず少し落ち着け望。」  「俺は落ち着いてるよ啓吾。それに冗談で言ったわけじゃない。もう何度も言ってるよね、“好きだ”って。好きだからキスもしたくなる。ただ一緒にいるだけじゃ俺は満足できない。長い時間をかけて待ってようとも思ってた...だけど、あんなの見ちゃったら...」  「望、本当ちょっと落ち着けって、」  ギュッと俺の肩を掴み声を張り上げて望は訴え掛けてくる。  その真摯な目を見ていることができず、啓吾は視線を下に逸らしてしまった。  望が訴えていること...それは啓吾が那智に感じているのと似ていることだった。  ただ違うことは1つ。啓吾はそんなこと怖くて那智には言えないということだ。  素直に好きだ、付き合って...なんて言って、拒絶されたらきっと立ち直れなくなる。  だからせっかく那智の親友と言う位置から離れたというのに肝心なところで素直になれなくて虚勢を張ってしまっていた。  自分から親友で終わるのが嫌で新たな場所をつくったくせに最終的に那智から逃げてしまっていた。そうして那智との間には大きな溝が出来てしまったのだ。  これなら前の方がよかった...たまにそんな考えが頭に浮かぶ。  しかしそんな自分の思考に腹が立ち、すぐにそんな考えを打ち消した。  ― 親友じゃ、だめなんだ...  「...っ、俺を見ろよ啓吾!また...また那智のこと考えてた?そうなんだろ!?いつもそうだ...俺と一緒にいても、気がつけば啓吾はボーっと何か考えてて...。最初は特に気にならなかった...でも今はわかるよ。きっとその時はいつも那智のことを考えてたんだろ?」  「...っ、別に俺は...」  望のその問いに、はっきりと否定することができなかった。  言われたことが図星でぐうの音も出ない。  ― それにしても急に望むはどうしたというんだ。  挙動不審気な様子の望は見ていて危かった。もし下手に何か言ってしまえばどうにかなってしまうほどには...  「那智のことが好きなんだろ!?なぁ、けい————うぁっ!?」  「いい加減にしろ!」  遂に我慢の限界がきた啓吾は望の胸倉を掴み乱暴に壁に押し付けた。  「だって、啓吾が那智のこと...」  「...じゃない、」  「え...?」  「好きなんかじゃ、ない...」  「ほん、とう...?」  そう言えば望は声を震わせながら縋りつくような瞳でこちらを見てくる。啓吾は安心させるかのようにそっと掴んでいた手を離し、もう一度口を開いた。  「何度も言わせるな」  すると望は嬉しそうに...本当に嬉しそうに顔を破顔させた。  そう、あの那智と同じように笑った。  「じゃあ今日那智にしてたことは全部嫌がらせか、冗談...だったの?全部...全部全部俺の見間違いや勘違いで...」  そして望はブツブツと独り言を言い始めたが、今の啓吾には何も耳に入らなかった。  ― また素直になれなくて虚勢を張って嘘をついてしまった...  こんなこと言っても変に望にありもしない希望を与えてしまうだけだというのに...  これで一歩距離があいてしまった。また、俺は那智から逃げてしまった。  そんな自分に後悔の念が責めたて、1人自分の世界に入っている望を横にして、啓吾は顔を曇らせる。  この時ついた嘘に今以上の苦しみを与えられるなんて...そして自分自身で首を絞めることになるなんて、今の啓吾にはわかるはずもなかった。

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