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【5】

 友規が抱く尚登への想いが『恋』であると分かったあの日から数週間が経っていた。  警察や担当弁護士とは電話でのやり取りのみで、友規が警察署や弁護士事務所に出向いて話をするということはなかった。それも杉山や尚登が、精神的なダメージを負った友規の代理ということで迅速に動いてくれていたお陰だろう。  経過も良く、精神状態も落ち着いた友規が自分のマンションに帰ってからも尚登との生活は続いていた。あの日からまるで時間が止まっていたかのように尚登の様子も会話も変わってはいない。ただ、カフェのバイトが終わると真っ直ぐに帰宅するようになったことと、眠る場所がソファではなくなったことが大きな変化だった。  寝室のベッドはもともとの持ち主である友規に戻った。でも、その隣には大きな体を寄せ合うようにして眠る尚登の姿があった。  お世辞でも広いとは言えないシングルベッド。そこに男二人が並んで眠るのはかなり窮屈ではあるが、友規は背中に感じる尚登の気配がないと眠れなくなるほどの安心感を知ってしまった。  しかし――眠っている間でも、無意識に触れる以外は腫れ物にでも触るかのように友規に気を遣っていることが伺える。  病室で耳朶にキスを繰り返したのはあの日だけ。それ以来、尚登はあえて距離を取るかのように友規に接していた。今に思えば、入院する前とそう変わらない距離感であるはずなのに、友規には手が届かないほど遠くに感じられていた。  自分たちの揉め事に巻きこんでしまったという責任を感じているのだろうか。それとも、犯されたという精神的なダメージを受けた友規に対して性的な接触を避けるようにしているためか。  いずれにしても尚登に対する想いが『恋』である以上、もどかしくて堪らない。  ウリ專の方は様子を窺いながら復帰するつもりではいるが、それをいつ尚登に切り出そうか悩んでいた。もう彼に嘘を吐くことは許されない。杉山にもこれ以上の迷惑はかけたくなかった。  今まで、長い期間を置かずにコンスタントに自身の性欲を処理してきた友規だが、入院とウリ專休業で禁欲生活を強いられている今、体が疼いて仕方がない。  最近、スーツを着て出かけるようになった尚登の留守を見計らって自慰で処理する生活が続いているが、それよりももっと極上の快楽を知っている体は満足出来ずにいる。  部屋の中では絶対に煙草を吸わない尚登が着ていたスーツについた残り香を嗅いだだけで下半身が熱くなるようにまでなってしまった。尚登は連日、友規のレイプ事件の担当弁護士と会っているようなのだが、尚登が使うもの以外の香りを纏って帰ってくるのが堪らなく不快だった。  これが世にいう『嫉妬』というものかと身を以て知った友規だったが、自身の恋心を彼に伝える勇気はまだなかった。  このまま秘めた恋でもいい。ただ、彼と一緒にいたい――そう思うようになっていた。  そんなある日、友規がバイト帰りにマンションの近くにあるコンビニで買い物を済ませ、店を出た時の事だった。  見たことのあるスーツ姿にすぐに尚登だと気づいた。駆け寄ろうとした友規の足を止めたのは、彼の隣に立つ細いシルエットがゆらりと揺れ、咄嗟に尚登がその体を力強い腕で抱きとめたからだ。  そして……細い腰に手を回して抱きしめると、尚登は顔をわずかに傾けた。 (え……? キス……してる?)  尚登に寄り添うように立つ人物が清楚なワンピースを着た女性であったなら友規も諦めがついただろう。しかし、その人物は細身で小柄ではあるが正真正銘の男性であり、落ち着いたダークカラーのスーツを身に纏っていた。  髪は明るい栗色でちらりと見えた横顔は細く女性的な雰囲気を持っている。  今まで尚登はノーマルだと思い込んでいた。笠原が奪ったという秘書の恋人も女性だという固定概念に支配されていた。病院での所業はあの場の雰囲気に流され、ゲイであると明かした友規への気遣いだと思っていた。  しかし……互いに見つめ合い、照れたように笑いあう二人の姿に友規は膝の力が抜けるのが分かった。  慌ててコンビニの脇に立つ電柱に手を掛けて体を支えると、胸騒ぎのような苦しさに顔を顰めた。  冷静になって考えれば、ノーマルである笠原がウリ專である友規をわざわざ買い、復讐のためだとはいえ自身であそこまで手酷く男を犯すことが出来るだろうか。バイセクシャル、もしくはゲイであれば相手が友規でも躊躇することなく執拗に追い詰めることは容易だ。  もしも笠原がそういったセクシャリティを持っていたとすれば、行動を共にしている尚登の元恋人も男性である可能性が高いというところに行きつく。  自称『絶賛失恋中』の尚登が新しい恋人を作らないという理由はどこにもない。もしかしたら、彼の言う『知り合い』が新しい恋人に昇格したということも考えられる。  尚登の危機的状況を知り、金銭面で援助することが出来る存在――。あの時の彼にしてみれば、どれだけ『頼れる人物』だっただろう。  決して口に出すことなく内に秘めるだけの淡い恋心を抱いていた友規には到底勝てる相手ではない。  尚登にとっての友規は、食事と眠る場所を与えてくれた恩人。そして、自身のトラブルに巻き込んでしまったという責任感からくる擁護。  友規もまた、自身が『恋』だと思っていたものが、実は一緒に暮らしていれば誰でも自然と湧くであろう『情』であり、心地よい彼との生活の中で起こしていた『錯覚』なのではないかと思い始めた。  疑心暗鬼に陥った心は、簡単には元の形には戻せない。 尚登への想いが急激に冷めていくのを感じた友規は、電柱に背を預けたままぼんやりと空を見上げた。上着のポケットから取り出したスマートフォンでかけなれたアドレスを呼び出すと、通話ボタンをタップしゆっくりと耳に押し当てた。 「――あ、杉山さん? 俺だけど……」  ツーコールで出た杉山の声に安堵しながらも、友規は淡々と話を進めた。 「仕事、復帰するからホムペの方の更新よろしく」 『おい、無茶言うなよ! お前、まだ完治してないだろ。客の相手出来るほどの精神状態だって……』  電話の向こう側で焦ったように声を荒らげる杉山に、露骨に顔を歪ませた友規はまるで飴玉を口に放り込むような感覚で言った。 「そんなに言うなら、とりあえずフェラのみで。やっぱりさ、俺……淫乱みたい。誰かと繋がってないと寂しくて死んじゃいそうになる。俺のフェラでイケなかったヤツいないし、それだけでもいいって客集めてよ」 『バカ言うなよ。お前、それ……尚登さんは知ってるのか?』  警察や弁護士との関わりで、必然的に尚登の事を知ることとなった杉山はいつでも彼の肩を持つようになっていた。そのことが今はやけに癇に障る。  長い付き合いがあり互いに信頼関係も成り立ち始めた杉山を尚登に横取りされたような気分だ。それも踏まえて尚登への苛立ちが募っていく。 「関係ないでしょ。別に付き合ってるわけじゃないし」 『お前のことを心配して弁護士と掛け合ってるのを知らないわけじゃないだろ?』 「アイツのせいで巻きこまれたんだから、そのくらい誠意見せるの当たり前じゃない? 杉山さんがヤダって言うんなら自分で相手探すから……じゃあね」 『トモキ! おい、ちょっと待て――っ』  乱暴に液晶画面をタップして一方的に通話を終了させた友規は、スマートフォンを上着のポケットに捻じ込むとマンションとは逆の方向へと歩き出した。  *****  週末の活気に満ち溢れた繁華街の路上に、人待ち顔で立っていた友規はスマートフォンの画面を見つめながら、何度目か分からない大きなため息をついた。  店のナンバーワンボーイの復帰を手放しで喜んでくれると思っていた杉山に仕事復帰を止められ、さらに追い打ちをかけるように尚登の事を持ちだされ、友規の苛立ちは時間が経つごとに増幅していった。  半ば八つ当たりのように、一夜だけの関係を募るゲイ専用のマッチングアプリの掲示板に書き込んだものの、今日に限って友規のメッセージに返信する者が誰もいない。  週末の夜にこんなことは珍しい。密かに自分のアカウントがブロックされているのではないかと不安にもなったが、それも思い過ごしだと分かった途端にまたため息が零れた。  先程から何度も尚登からの着信が来ている。今はその名前を目にするだけでもイラつく。  他人である尚登に自分の行動を詮索されたくない。そう思った友規は尚登の番号をブロックした。  これで画面にも表示されない。だが、笠原たちのこともあり正直なところ不安は拭えなかった。  尚登との連絡を断ち、また笠原に犯されるようなことがあったら……。  しかし、この通りに立っている以上は自己責任だ。それに友規が何をされ、最悪の結果殺されようとも、尚登には関係のない話なのだ。 「っとに、誰もいないのかぁ……?」  そう呟いて場所を変えようかと足を向けた時だった。 「あれ? トモキ?」  不意に自分の名前を呼ばれて振り返ると、そこにはスーツ姿の河野がいた。相変わらず飄々とした軽い口調で、友規との偶然を素直に喜んでいるようにも見える。 「あ……河野さん。丁度良かった! 俺、買ってくれない?」  ここで逃したら後はないと言わんばかりに、友規は河野の腕をがっしり押えこむと営業用スマイルで首を傾けた。 「は? お前、店はどうしたんだよ? 杉山から怪我して休んでるって聞いてたけど大丈夫なのか?」 「まだ本調子じゃないけどね。店の方は杉山さんとちょっとトラブって……」 「完治してなきゃセックスは無理だろ……」 「今日は特別に安くしとくから……フェラさせて」  河野の耳元で吐息交じりに小声で誘った友規はニコニコと笑っている。困ったように頬を指先でポリポリと掻いていた河野だったが、懐いてくる子犬のような友規の愛らしい顔に根負けしたのか渋々歩き出した。 「お前は気持ちよくならなくていいのかよ?」 「うん。リハビリを兼ねてフェラの練習。あ……これで河野さんイカせられなかったらショックだなぁ。マジで引退考えなきゃ」 「練習って……。お前、練習相手探すためにフリーであそこに立ってたのか? リスク高すぎだろ?」 「マッチングに書き込んだけどまったく反応ないし。あ~良かった。河野さん、マジ神!」  一瞬でも尚登のことを忘れていたい。友規は躍起になって河野に話しかけた。そんな友規を不思議に思ったのか、近くのシティホテルに入った河野が訝るように見つめた。  スーツの上着を脱ぐことなくベッドに腰掛けた河野の視線に気づいた友規は、ゆっくりと歩み寄り、その場に両膝をついた。 「河野さん、シャワー浴びないの? それともこのまま、する?」  河野のベルトに手を掛けた友規の手をやんわりと制した河野は小さく首を横に振った。 「お前、何か自棄になってないか?」 「え?」  予想もしていなかった河野からの問いに、友規は動きを止めた。河野との付き合いは長い。だからお互いの趣向も分かっている。しかし、友規は客の前で自分の真の感情を見せたことはなかった。『客でも他人』と自分の中で割り切り、一夜だけの快楽を楽しむためだけの相手だという認識しか持っていなかった。  河野は大仰なため息をついて友規を揶揄った。 「八つ当たりでフェラされたら、いつ噛み切られるか分からないな」 「なに言ってんの……河野さん?」 「失恋でもしたか? 今まで、あからさまに自分の感情を顔に出すことなかっただろ? それがどうだ……今日のお前、ちょっとおかしいぞ」  図星をさされ、友規は唇を噛んだまま俯いた。 「今夜のサービスは遠慮させてもらうよ。あぁ……と、期待を持たせた代金はちゃんと払ってやるから心配するな。それと……」  口元を緩めながらもすっと細めた彼の瞳に鋭い光が見え隠れしている。友規はゆっくりと立ち上ると一歩後ずさった。  河野が自身の上着の内ポケットから取り出した黒革のケース。それを友規の前に掲げた。 「トモキに話があったんだ。丁度良かった……」  そのケースに入っていたのは河野が警視庁刑事部捜査二課の警部補であることを証明するものだった。 「刑事……」  友規は苦虫を潰した顔のまま、すっと視線を逸らした。この街でのウリ專は成人に限り暗黙の了解となっており逮捕されることはないが、店に所属しない違法営業者などは条例によって処罰されることもある。  そのこともあり、友規はバツが悪そうに河野を睨んだ。 「安心しろ。お前を捕まえてどうこうするつもりなんかこれっぽっちもない。それに、俺だってこうやってお前を買ってる立場だ。上にバレたらいろいろ面倒な事になる。お互い様だ……」 「本当に?」 「ああ……。俺だって刑事である前に一人の男だからな。セックスもしたいし、気持ちよくもなりたい」  少し照れたように笑った河野の表情に、友規はホッと胸を撫で下ろした。ベッドに腰掛けたまま両手を伸ばした河野は友規が良く知る普段と変わらない彼だった。 「おいで……。そんなところに突っ立てたら話も出来ないだろ」  素直に河野の手を掴むと同時にグッと引寄せられ、彼の隣に座らされた。 「おいおい。そんなに警戒するなよ! 俺とお前の仲じゃねぇか」 「俺、刑事に知り合いいないし」 「冷たいなぁ……。あーあ、バラさなきゃ良かった……って、今さらか」  河野はポケットから取り出した煙草のパッケージから一本引き抜くと、唇に挟んで火をつけた。  脚を組み替えながら天井に向かって煙を吐きだした河野の横顔をまじまじと見つめる。抱き合うためだけに用意された薄暗い部屋で見る彼とは違い、バランスのいい整った顔つきをしていた。三十代後半とは思えないその若々しさに、友規が目を奪われていた時だった。 「――Sアドバイザリー株式会社副社長、笠原(かさはら)政貴(まさき)に暴行されたらしいな。しかも、薬使われて……」 「おかげで商売上がったり」 「茶化すな……。お前の体から採取されたものは全部鑑識に回されて、重要証拠としてデータもろとも本部に保管されている。笠原が使ったドラッグ――『紅純』の入手ルートがどうもキナ臭い感じでな。アイツ、裏で黒い繋がりがあるんじゃないかって捜査してる。まあ、前々から組対(組織犯罪対策部)の連中がマークしてたんだが……」 「ドラッグの関係なら捜査二課の河野さん関係ないじゃん」 「それがそうもいかなくなってな。最近、Sアドバイザリーの社長が行方不明になって、会社の実権を笠原が握ったらしいんだが、その秘書――井関(いせき)慎也(しんや)が数日前にホテルで死体で発見された。死因は溺死なんだが、血液中に紅純の反応が出た。井関は笠原と恋人関係だったと聞くが、痴話の縺れか……というセンで洗ってる」  笠原の恋人ということは、尚登の元カレということになる。その彼が殺されたと聞いて友規の心臓が大きく跳ねた。このニュースを知った尚登はどんな顔をするだろう。  悲しみに打ちひしがれるだろうか? それとも、前の男に未練を残しながらも新しい恋を手に入れた尚登のことだ、キッパリと忘れて今の恋人と幸せになっていくか……。  正直を言えば、友規はどちらも見たくなかった。その姿を見たところで、彼に恋心を抱いた自分が報われることはない。  友規は、さも関心がなさそうに相槌を打つと河野を覗き込んだ。 「――ねぇ、そんなことバラしちゃってもいいの? 俺、部外者だよ?」 「金の為なら人を殺すことも厭わない男だ。お前が奴に襲われた理由……それって、Sアドバイザリーの社長と何か関係があるんじゃないかと思ってな。行方不明になっていた彼の名前が急浮上した。なぜだと思う? お前の暴行事件の調書に代理人として記されていた名前……。須美尚登、本人の自筆だった」  短くなった煙草を灰皿に投げ入れた河野は、無言で立ち上がるとデスクの下に置かれた冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを一本取り出して「ほらっ」と友規に投げて寄越した。  そのボトルを受け取ってキャップに手を掛けたまま開封を躊躇っていると、河野も自分のボトルを手に友規の横に腰かけた。 「河野さん、もしかして俺のこと疑ってる? 笠原と結託してその社長を陥れようとしたとか思ってないよね?」 「それはない。ただ……お前が暴行された本当の理由が知りたい。もしも笠原が須美を追い詰めるためにお前をレイプしたとすれば、ただの強制性交等罪だけには留まらないってことだ。笠原があの会社を使って利益追求のための企業犯罪を犯し、その資金が薬の出所に繋がっていく可能性はある。企業犯罪自体は今の法律じゃ罪に問われにくい。それなら別のセンから洗うほかないだろう?」  河野の言うとおり、笠原という男を野放しにしておくわけにはいかない。あの男のことだ。尚登が生きている間は執拗に彼を狙う可能性は大いに考えられる。  友規は手にしたままだったボトルのキャップを開け、冷えた水を緊張で渇いた喉に流し込むと、濡れた唇を手の甲で拭った。 「――すべてを失って、自分を責めて……自殺すればいいって」 「笠原がそう言っていたのか?」 「彼がすべてを失くした夜、俺が尚登さんを拾った。会社もプライドも財産も恋人までも奪われて、ラーメン屋の店先で座り込んでた……ずぶ濡れの子犬みたいに。放っておいたら死んじゃいそうだったから……。今は俺の家にいる……」 「――それで笠原は、お前と社長がそういう関係だと思ったわけか?」 「勘違いなんだけどね……。でも、あながち間違ってはいないかも。俺の一方通行だけど」  始めてだった。他人である河野に自身の心の内を吐露したのは。  友規は胸につかえていたものがポロリと落ちたような気がして、肩を上下させて深く息を吐きだした。 「殺された井関って男、尚登さんの秘書で元カレなんだ。尚登さんは恋人を愛してた……でも、井関が愛してたのは笠原と金だったんだ。笠原も尚登さんの親友だった……。一番信頼をおいていた人たちに裏切られ、すべてを失くした彼は誰も信じられなくなっていた。それなのに、俺の家にいる……。俺は彼の領域に入ることを許されたのかなって勝手に思ってた……。けど、それも勘違いだったみたい。尚登さんには新しい恋人がいたんだ……」  黙ったまま友規の話に耳を傾けていた河野がそっと肩を抱いた。 「――お前の尻の具合がおかしかった理由が分かった気がしたよ。俺の勘もまだ鈍っちゃいなかったってことだ」  河野には気付かれていた。友規がまだそれを『恋』なのだと自覚する前に……。  気持ちをいくら抑えつけても体は何よりも素直に反応していた。 「それで……新しい恋人に嫉妬して今夜の有様か?」 「あの人は誰にでも優しいんだね、きっと……。俺みたいな薄汚れたウリ專にも優しくしてくれるんだ……勘違いするほどね」 「そうとも言い切れないぞ? 同じ痛みを抱えている奴ってのは本能で分かるらしい。痛みが分かるから寄り添っていたいと思うのが人間の本質じゃないのかな……」  ミネラルウォーターのボトルを仰ぎながらボソリと呟いた河野の言葉が、友規の乾いた心にジワリ……と沁み込んだ。たった一滴の水がオアシスのように広がっていくのを感じて、自分の単純で幼稚な部分を恥じた。  二十五歳になった今でも恋をしたことがない友規にとって、何もかもが初めての経験で怖くて手探りでしか前に進めない。嫉妬したことも自分の中に渦巻いた怒りの矛先をどう逃がしたらいいのか分からなかった。  結局、自分を追い詰め、傷つけて……最後には自己嫌悪に陥って、またイラついて。 「トモキ……お前は何も心配することはない。いい弁護士もついてるんだろ? かなりのやり手だって噂は聞いてる。お前は被害者だ……。最後にはすべて上手くいく――って、これも俺の勘だがな」  空になったボトルをゴミ箱に投げた河野は、俯いたままの友規の柔らかな髪をぐしゃりと撫でた。  友規の中で付き合いの長い客という位置づけだった河野の存在が変わった。  自称営業マンとはまるで正反対とも言える正体だったが、心底、この男に逮捕されなくて良かったと思った。  彼の巧みな話術にハマったら、言いたくないことまで自然と引き出されてしまう。事実、友規の心の内を曝け出してしまったのだから……。 「――河野さんの勘なんてあてになるもんか。それに俺……笠原から金を貰っちゃってる。だから立件は多分、難しいと思うよ。滅茶苦茶に犯されても、ウリ專が客に金を貰った時点で合意になっちゃうんだから」 「お前なぁ、刑事の勘をナメるなよ。もし、俺の思惑通りに事が片付いたら、一回出張サービス無料にしろ」  煙草を唇に咥えながらニヤニヤと笑うその顔はいつもの河野だった。友規はふぅっと長い息を吐きながら肩を揺らして笑った。 「その時はフルコースでサービスしてやるよ」 「約束だぞ……」  火のついた煙草を指に挟んだ河野の唇が友規の頬に触れた。いつもなら名残惜しいと言わんばかりに唇を啄んでくる彼が、頬に軽く触れるだけのキスをしたことに友規は驚いた。  想い人がいる友規に対する配慮なのか、それとも自身の情をこれ以上深くしないための戒めなのか……。 「――よっしゃ! 友規のフルコースのために頑張るかっ」  勢いよく立ち上がった河野は煙草をふかしながら、まだベッドに腰掛けたままの友規を見下ろした。 「刑事が言うことかよ……」 河野と友規の間に出来た煙のベールがエアコンの風でゆらりと揺らぐ。その先にあったのは見たことのない河野の温かく優しい眼差しだった。  ため息交じりに呆れ顔で見上げた友規だったが、その眼差しに触れ思わず口元を緩めた。 「俺は男もセックスも好きだ。自分に正直に生きることは楽だぞ」 「俺、河野さんと違って繊細だから。でも――いつか、そうなりたいね。って、まだ無理だな……」  河野と会ったことで少しだけ冷静さを取り戻せた友規だったが、また尚登の顔を見たらいろいろと思い出してしまうだろうという不安は拭えない。ありもない想像をして悪い方へとイメージを膨らませていく。そして、自分の殻を更に厚くして伝えたい言葉、想いを心の奥底へと追いやっていく。  俯き加減でぎゅっと奥歯を噛みしめた時、河野が煙を吐き出しながら言った。 「焦ることはない。あの人だって同じこと思ってるよ」 「え?」  弾かれるように顔を上げた友規に唇の端を片方だけ上げて、上着から財布を取り出すと一万円札を数枚、友規の目の前に差し出した。 「今夜の料金。情報提供料上乗せしといてやるから……。どうせ、今夜は部屋に帰るつもりないんだろう? 大人しくここに泊っていけ」 「多いよ……。俺、何もしてないじゃん」 「しなくていいんだよ。今夜は俺一人で打ち止めにしとけよ。我慢出来なかったら自分でしろ」 「そんな客ありかよ……」  毒づきながらも友規の気持ちは幾分軽やかなものになっていた。  部屋のドアまで河野を見送り、そっと扉を閉める。  電源が切られたままのスマートフォンを見つめ、胸元に押し当てた。 「ごめん……。ごめん……大人になれなくて」  きつく閉じた瞼の裏に浮かんだ尚登に何度もそう呟いた。  この声が届けばいい……。  通じるはずのないスマートフォンが友規の心の声を彼に届けてくれることを願いながら、その場にゆっくりと崩れ落ちた。

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