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【7】

 尚登と体を重ねた数週間後――。  笠原が危険ドラッグ所持の現行犯で逮捕された。井関殺害の容疑や友規への暴行、洗い出せばきりがないほどの余罪も視野に入れ、今は警視庁で取り調べが進んでいる。  そして、笠原が私物化しようとしていたSアドバイザリー株式会社も、マフィアへの資金やデータの流出を未然に防ぐことが出来たため、すべての権利が代表である尚登のもとへと戻った。  行方不明になっていたとされていた尚登だったが、すべて笠原たちの陰謀であることが株主総会で報告され、引き続き代表としての地位を確立することとなった。 「凍結されていた銀行口座もマンションの権利も戻った」  ブランド物のスリーピーススーツに身を包み、友規が選んだネクタイを締めた尚登は、洗面所の鏡越しに友規を見つめると安堵したように微笑んだ。  その笑顔がやけに眩しくて、友規はすっと視線を逸らしたまま「良かったね」と短く答えた。  今日――彼はこの部屋を出て行く。  あの日、友規と尚登の情交は夜更けまで続いた。何度達しても力を持つ尚登に応えるように、友規もまた彼の熱を受け止め自身の体と心を満たした。  幸せな時間だった――でも、二人の関係はあの一度だけ。  翌日からは普段と何一つ変わらない平凡な毎日が続き、笠原の逮捕をきっかけに緩く流れていた時間が一気に動き始めた。  友規はボーイをやめた。杉山も苦言を呈することなく友規の申し出を快諾してくれた。  それは尚登に「自分を大切にしろ」と言われたことがきっかけではあったが、決して彼のモノになるためではなかった。  ベッドの上で乱れ啼く友規に何度も囁かれた言葉――『綺麗だよ』  男の精液で塗れ、性処理玩具のような扱いを受けてきた友規にとって、その言葉は魔法の言葉であり、ある種の暗示のような意味合いを持っていた。  尚登が紡いだ大切な言葉に恥じない生き方をしようと思った。  リビングのテーブルの上に重ねられた就職情報誌。いくつか付箋が付けられたページは友規が面接を受けようと思っている企業の詳細が載っている。尚登にも相談に乗ってもらった。一流コンサルティング会社代表の経験とデータを参考に、友規でも働きやすい職場環境の企業をピックアップしてもらったのだ。 「友規、ちゃんと面接受けに行くんだぞ」 「分かってるよ!」  ムスッと唇を尖らせてリビングに戻った友規は、部屋の隅に纏められている尚登の荷物を見つめた。ここに来た夜、彼が持っていたのはスマートフォンと名刺入れ、二千円しか入っていなかった財布だけ。  会社や財産だけでなく大切な人も失い、心も荒んでいた。  あの時、尚登と出逢っていなかったら……。友規の人生は何も変わることなく平坦に続いていただろう。  一生、男の性処理玩具として臭い精液に塗れていたに違いない。  長い時を共に過ごし、情ではなく初めての恋を知った尚登との生活。  体を重ねただけでは恋人にはなれない。まして友規の一方的な想いだけでも……。  失くしたものすべてを取り戻した尚登を止める権利は友規にはない。  彼は、彼のフィールドで自身の力を惜しみなく発揮してこそより輝ける。そして、愛する人が待つ場所へ帰る。 「――ねぇ。そろそろ迎えが来るんじゃない? さっさと出て行けよ」  壁に掛けられた時計を見るともなしに見つめ、友規は洗面所にいる尚登に声を掛けた。  別れの時間が近づいている。この時を恐れているはずの自分が、彼の準備を急かしているとは実に滑稽だ。  消えるなら、いっそのこと早く目の前から消えて欲しい。  その姿も気配も、そして香りも全部……消えてしまえばいい。  何もなかった、誰もいなかった時のまっさらな状態に戻してくれればそれでいい。  そうじゃなければ……。 「――忘れられなくなるだろ」  ボソリと呟いて、溢れそうになる涙をグッと堪えた。同時に尚登がリビングに姿を見せた。 「まるで追い出される気分だな」 「当たり前だ。ここは俺の部屋なんだからっ」  身支度を整えた尚登は誰よりも知的で紳士に見えた。  女性ならば誰もが願う『王子様』を現実にしたような、理想的で完璧な男だった。 「じゃあ、行くよ」 「玄関まで送る」  荷物を手にした尚登の広い背中を見ながら狭い玄関へと歩いていく。玄関ドアが近づくたびに足が重く感じるのは、まだあの時の肌の感触を体が覚えているから。  玄関で綺麗に磨かれた革靴に足を入れ、振り返った尚登は今までで一番優しい笑みを浮かべた。  野心を秘めた黒い瞳が真っ直ぐに友規を捉える。 「ありがとう……」 「頑張ってね、社長さん!」 「ああ……。お前もな」  友規は照れたように俯いてから、額にかかった髪を煩そうにかきあげて精一杯の笑顔を作った。  客の前でも見せたことのない極上の笑顔で彼を見送りたい……そう思った。 「お前はいつも笑っていた方がいい」 「それじゃ、ただのバカみたいじゃん」 「友規……」 「ん?」  尚登の顔が不意に近づき薄い唇が重なる。それは瞬きするほどの短い時間。  触れるだけのキスは覚悟を決めていたはずの友規の心を大きく揺るがした。 「じゃあな」  ドアを開けて出て行く尚登の広い背中が、閉まりかけた扉の隙間に消えていく。 「バイバイ……」  手を振ってそう呟いた友規の声は、ドアが閉まるラッチの金属音にかき消された。  尚登の香水の匂いと友規の前では絶対吸うことがなかった煙草の残り香がだんだんと薄くなっていく。  ギュッと唇を噛んだまま立ち尽くしていた友規だったが、その香りが途絶えた瞬間、踏ん張っていた膝がカクンと折れた。  その場に力なく座り込んだ友規は溢れ出す涙を止めることが出来なかった。 「バイバイ……俺の初恋」  彼の指の感触を思い出そうと自身の手を握りしめる。しかし、その手の中にあるのは虚無だけだった。  ぬくもりもない、感触もない……何も感じられない。 「尚登さん……尚登さん……っ」  何度呼んでも、友規のもとには戻っては来ない最愛の男の名を声が掠れるまで紡ぎ続けた。  涙と一緒に彼の記憶も流れてしまえばいい。それが叶うのならば、涙が枯れるまで泣き続けよう。  友規がそう思えば思うほど、尚登がいない喪失感を味わうことになろうとは、この時の友規は想像もしていなかった。  *****  何もする気になれなかった。  ただただ時間だけが通り過ぎ、自分だけが二週間前のあの日に縛り付けられたまま動けなくなっていた。  寝室に残っていた尚登の残り香も消え、友規には今までと変わらない日常が戻ったはずだった。しかし、尚登の存在はそれまでなかったことに出来ないくらい鮮烈で、ずっと長い間一緒にいたような錯覚さえ起こす。  彼は友規を捨て、家を出た。自分があるべき世界へと戻り、新しい恋人の元へ向かった。  今に思えば、友規の中に残る尚登の情報などほんのわずかなもので、彼がどんな生活をし、何が好きで何が嫌いなのかということすら知らない。  今頃は友規のことなど忘れて、再び返り咲いたSアドバイザリーの社長として手腕を発揮しているに違いない。  同じ時間軸の中に生きながら、友規が知ることのない世界で……。  リビングのテーブルの上に積み置かれたままの就職情報誌を手で払い落した時だった。  ドアホンが鳴り、虚ろだった友規の目が一瞬だけ希望を得た時のように輝いた。この部屋を訪ねてくる者はいない。それ故にドアホンを鳴らして来訪を告げる者は一人しかいない。  崩れた情報誌を足で蹴散らすように立ち上がると、友規は急いで玄関に向かった。  勢いよくドアを開けると、そこにはブルーグレーのスリーピースを来た小柄で細身の男性が立っていた。色白で儚げにも見えるその相貌は女性と言っても通用するが、彼が口を開いた瞬間に「間違っていた」と認識する。 「――奥部友規さん?」  予想外の低音ボイスに友規は面食らい、しばらく呆然と立ち尽くしていた。  すると彼は自身の胸ポケットから名刺ケースを出すと、長い神経質そうな指先で一枚引き抜いて友規に差し出した。 「電話では何度かお話していますが、こうやって会うのは初めてですね? 私、弁護士の高成(たかなり)真純(ますみ)です」  確かに笠原の件で何度か電話でのやり取りはあったが、声の雰囲気からして体育会系のガチムチ大男を想像していた友規は、自身の想像力と現実とのギャップに戸惑うことしか出来なかった。  スーツの襟に光る弁護士バッジに気付き、改めて彼が本物であると認識する。 「あ……はい。はじめまして」  やっとのことで挨拶を交わした友規に高成は穏やかな笑顔を見せた。おっとり……という表現がピッタリな顔つきであるが、噂では敏腕弁護士としてその名を轟かせているようだ。この美人顔の一体どこにそんな脅威が隠されているのか、友規は不思議で仕方がなかった。 「あの、散らかってますけど……どうぞ」 「いえ、ここで結構です」  きっぱりと断った彼は、手にしていたビジネスバッグの中に手を入れて何かを探し始めた。それをぼんやりと見つめていた友規だったが、明るい栗色の髪が彼の顔を半分隠した時、瞠目したまま動けなくなった。  女性のような顎のラインと印象的な明るい髪――。  コンビニの近くで尚登と抱き合いキスをしていたスーツの男性によく似ていた。何度も記憶から消そうとした。でも、一度目に焼き付いたその姿が脳裏を掠めるたびに友規を苦しめてきた。 「――今日は別件で。これを預かってきました」  友規に向き直り、差し出した白い封筒。それに視線を落とした友規は、乾いた喉から絞り出すように声を発した。 「これは……」 「実はSアドバイザリーの須美社長の件も扱っていましてね。これを社長から預かってきました。ここでお世話になった時の生活費だそうです」  震える手でその封筒を受け取ると予想以上にずっしりとした重みを感じ、友規はそのまま高成に封筒を突き返した。  尚登の唇と重なっていたであろう薄く血色のいい彼の唇から目が離せない。 「いただけません……」 「どうして?」 「これを受け取ってしまったら……全部終わってしまいそう、だから。それに……ここには尚登さんとの手切れ金も含まれているんでしょ? あなたは……尚登さんの恋人ではないんですか?」  しばしの沈黙の後で、高成が突然クッと肩を震わせて笑い出した。それを、怒りとも驚きともつかない顔で見つめていた友規に、彼は綺麗な栗色の瞳をすっと細めて言った。 「――それ、マジで言ってんのか? お前、面白いやつだな」 「え?」 「俺と尚登が恋人って……。どこからそんな噂を聞いた?」 「噂なんかじゃない。俺、見たんです……。貴方と尚登さんが抱き合ってキス――」 「ぶはっ! あり得んだろ……。俺だって相手を選ぶ」  さも愉快そうに脇腹を押えて笑う高成をただ見つめるしか出来なかった友規だったが、電話や初対面の誠実そうな印象からはまったく想像がつかない高圧的で砕けた口調にも驚きを隠せなかった。 「お前が何を見たのか知らないが、彼とはそういう関係じゃない。尚登と俺はイトコだぞ?」 「は?」 「笠原たちに騙されて会社を乗っ取られたって泣きついてきたから、仕方なく世話をしてやっていただけだ。クソ忙しい時に面倒な仕事持ち込みやがって……。ま、尚登とは昔から仲が良かったし、年も近いから放っておけなかったってのが本音だけどな」  友規の勘違いが余程面白かったのか、高成は目尻に滲んだ涙を指で拭いながら再び封筒を押し付けた。それを両手で受け取った友規は何とも複雑な気持ちになっていた。  すべてが誤解だった……。尚登を想うあまり、自棄になって暴走して招いた結果は最悪なものだった。  自分勝手な思い込みで尚登を傷付け、お互いに苦しみを抱えたまま体を重ねた。  尚登が見せる優しさに震える心が息苦しさを生む。それから逃れたくて、怒りにまかせて犯して欲しかった。  それなのに――彼は最後まで優しく温かく友規を包んでくれた。  数多くの男に穢され、笠原にも犯された自分から目を逸らすことなく真っ直ぐに見つめてくれた彼の目が忘れられない。すべてを見透かすような強い光を湛えた尚登の黒い瞳が友規の脳裏に焼き付いて離れない。 「俺……。自分だけ悲劇背負って生きてきたみたいな顔で、叶わないって分かってるのに自分の想いを一方的にぶつけ続けてた。それが理解されないとイラついて……尚登さんを傷付けた。最低だ……」 「ウリ專やってたわりには、自分の事よく分かってるじゃないか」  ふーんと鼻を鳴らして唇の端を曲げた高成に、友規は深々と頭を下げて言った。 「俺の被害届、取り下げてください。このままじゃ、尚登さんへの当てつけみたいで耐えられないんですっ。尚登さんのせいじゃない……そうでしょ?」  高成は少しの間何かを考えるように唇を引き結んでいたが、短く「いいのか?」と問うた。その反応に顔を上げた友規を高成は真正面から見据えた。 「お前はそれでいいのか? 体にも心にも深い傷を負ったんだぞ? 笠原の余罪を洗ってる今、証拠は十分すぎるほどある。あの男を貶めてやろうとは思わないのか?」 「思いますよ! 出来ることなら……。でも、俺がそう思えば思うほど、尚登さんが負い目を感じていくような気がして……」 「尚登が納得するかどうか……だな」 「え?」  綺麗に整えられた眉をわずかにあげて、高成は玄関の天井を見上げて呻くように呟いた。そして、まるで独り言であるかのように友規の存在を完全に無視するように続けた。 「お前が犯されたって聞いた時のアイツの荒れ具合といったら、それは手が付けられないほどだったなぁ。笠原を殺すとまで口走ってさ……。俺の胸ぐら掴みあげて、なんとかしろって怒鳴って……。出逢って間もない、自分とはまるで違う世界に住むウリ專が客とトラブっただけだぜ? 初めて見た……尚登が自分のプライドかなぐり捨てて俺に懇願する姿」  上に向けていた視線をすっと友規に向けた高成は、ニヤッと口元を綻ばせた。 「――まるで、最愛の恋人を犯されたかのような剣幕だった。アイツ、恋愛に関してはかなりドライな印象しかなかったけどな……」 「でも、尚登さんには井関さんっていう……っ」 「あぁ……あのイケ好かないインテリ野郎ね。尚登にしては珍しく入れあげてるなと思ったけど、その分裏切られた時の反動は大きかったみたいだな。同時に親友だった笠原にも裏切られた……。本気で死のうって思ったって言ってたな。でも――」  不意に言葉を切った高成は視線を下ろしながら俯くと、まるでここだけの話とでも言うように声のトーンを下げて囁いた。 「死ぬなって言われたんだってさ……。自分と同じ目をした男に……」 「え……」  高成は自身のネクタイのノットに指を掛けてグッと上まで締め上げると、セットされた髪を手櫛で整えながら背筋を伸ばした。そして、友規に向き直ると優雅な笑みを湛えた唇をゆっくりと開いた。 「お前の被害届は取り下げる。そうなれば俺とお前――弁護士とクライアントという関係はなくなる。――最近、俺のパワハラが原因でたった一人しかいなかった事務所の雑用係が辞めちゃったんだよ。正直、マジで困ってる……。誰かいないかなぁ……学歴、年齢、前職問わずなんだが」  何の前触れもなく言い出した高成をポカンと口を開けたまま見つめていた友規だったが、彼が背を向ける直前、肩越しに目を細めて笑ったのを見逃さなかった。  高成の横顔が誰かを誘うような強烈な色気を放つ。それは友規が持つものとはまた違う妖しさを孕んでいた。 「高成さん……っ」 「俺、こんな顔してドSだけど、優しいところもあるんだぜ……」  ひらひらと片手を揺らしながら、玄関を出て行く彼の背中を見送る。ドアが閉まる直前、何かを思い出したかのように高成の声が廊下に響いた。 「是非、お仕事やらせてくださいっていうドMがいたら、その名刺に書いてある番号に連絡くれ。よろしく~っ」  カチャリと鳴る金属音のあとで訪れた沈黙は、友規にとってとても心地よいものだった。  ウリ專を辞め、新しい仕事を探していることを尚登から聞いていたのだろう。毒舌で遠回しではあるが、自身の事務所への就職を勧めてくれた高成に感謝した。そして、彼が漏らした意味深な尚登の言葉……。  すべてを失くし、虚無しか抱えていなかった自身の目から尚登が見い出したモノとはなんだったのだろう。  尚登のように野心を抱き、相手のすべてを見透かすような強い光を湛えていたとは思えない。自信もプライドもとうの昔に捨て去った自分が彼と同じものを持っていることが信じられなかった。 「尚登さんには、何が見えていたんだろう……」  友規は胸元の封筒と高成の名刺を強く抱きしめたまま、尚登の顔を思い出してクスッと小さく笑った。  口下手で真面目、そうそう自分の感情を表に出さない男が高成に見せたもう一つの顔――。  それを知りたい……心からそう思った。

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