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【8】

「友規ぃ~。このミッション終わったら帰っていいよ。ついでに明日は休め」  窓際に置かれたマホガニーのデスクから伸びた指先に挟まれた一枚のメモ用紙。それをひらひらと揺らしながら間延びした声で言った高成は、机上に高く積み上げられたファイルの陰にいた。  弾かれるように自身の席から立ち上がり、彼の元へ向かった友規はそのメモを受け取ると小さく息を吐いた。 「あの……これは?」  友規がマジマジとそのメモを見つめ、眉を顰めて首を傾けた。そこには簡単な住所と雑に引かれた線で場所が示された地図があった。 「その場所に行って、請求書渡してきて。俺の大事なクライアントだから身なりはきちんとして行けよ」 「はぁ……。高成さん、明日……本当にお休みいただいてもいいんですか?」 「なに? 休みたくない?」 「休みたいです!」 「だろ? 俺も久々に休みたいから……。デートもしたいし……」  積み上げられたファイルの陰から聞こえてくる声はどことなく浮かれている。友規が高成法律事務所に就職して二ヶ月が経とうとしていた。  笠原は井関の殺人容疑が確定したが、黒い繋がりに関しても目下取り調べの最中で、杉山が提出した店に対しての被害届の起訴はまだまだ先伸ばしになったままだ。高成は「獲れるだけ獲ってやる」と息巻いているが、杉山を思ってというよりも自身の性癖に忠実なだけだということが最近になって分かってきた。  その証拠に『雑用係』と言った高成の言葉は大袈裟でも何でもなく、本当に何でもアリの雑用ばかりをさせられているが、以前よりもはるかに充実した日々に変わっていることは否めない。  敏腕弁護士である高成への依頼は多く、ここ数週間は特に休みを返上しての勤務が続いていた。  そんなドSで鬼畜な高成であっても、デートで浮き足立つところをみると、やはり人間としての感覚を忘れていなかったようだ。 「えぇ! 高成さん、付き合っている人いたんですか?」 「いるよ……。悪いか?」 「いえ……。あの……やっぱりドMが好きなんですか?」  そう友規が問うた瞬間、高成のデスクから書類が舞い上がった。息を呑んでそれを見つめていた友規は、地獄の底から響くような低い呻き声に背筋を凍らせた。 「――俺はドSしか愛せない」  水を打ったように静まりかえったオフィスにスマートフォンの着信音が響いた。面倒くさそうに大仰にため息をついた高成が自身のスマートフォンを耳に押し当てると、チラッと友規の方を見てから席を立った。  ボソボソと小声で話しているところを見ると、どうやら噂の人物からの電話らしい。  応接室に入って間もなく、ドアから綺麗な顔を覗かせた高成は顎をしゃくって見せた。 『さっさと行け!』  女性的な顔でそうされるたびに、友規の中の被虐心が前にも増していくような気がして、急いで支度を整えると追い出されるような形で事務所をあとにした。  自身がMだという自覚はある。高成の下で働く様になって、彼のパワハラにも似た暴言や毒舌に素直に従っている自分を思えば、かなり深みに嵌まっているような気さえしてくる。  しかし、高成のそういった言動には悪意がまったく感じられない。最初は驚くこともあったが、この環境に慣れてしまえば彼なりの『思いやり』が感じられるようになった。  美人顔の敏腕弁護士――それは、他の奴らにナメられないようにするための自己防衛なのかもしれないと気づいたからだ。  友規は頼りない地図を手に指定された場所へと急いだ。ショーウィンドウに映るスーツ姿の自身が颯爽と歩く様子は少し気恥ずかしく感じる。ミルクティーブラウンだった髪も少し落ち着いた色に染めた。スーツは高成が贔屓にしている店で数着見繕ってもらい、ワイシャツもネクタイも違和感なく着こなせるようになった。  ビジネスバッグを手に革靴の踵を鳴らす友規には、以前のように斜に構えるような印象はない。  緩くウェーブした髪を風になびかせながら、夜の帳が降りたばかりの街を目的地へと急いだ。  渡されたメモに従って辿りついた場所は、繁華街のメインストリートと平行に走る路地。狭い歩道には週末ともあって人が溢れている。その人たちを避けながら友規は既視感を覚え、ふと足を止めた。  隣接する建物の脇から歩道にはみ出すように積まれたビールケース。そして、一番の稼ぎ時であるにも関わらず照明が消えたままの今にも潰れそうな古いラーメン屋。 「え……。ここって……」  周囲を見回してクライアントらしき人物を探してみるが、そういう雰囲気の人間は見当たらない。皆、仕事帰りに楽しもうとやってきたくたびれたスーツばかりだ。  もう一度、照明の消えたラーメン屋の看板を見上げ、友規はあの雨の夜の事を思い出していた。  マンションの玄関で尚登を見送ってから、一度も会っていない。  イトコである高成のそばにいればいつかは会えるかもしれないという下心を抱いていたが、現実はそう甘いものではなかった。Sアドバイザリーの社長として復帰し、多忙な日々を過ごしていることは見当がついたが、今でも時々、彼の肌の感触を思い出し自慰をすることがあった。  初恋は実らない……。二十五歳にして初めて経験した恋を、そう簡単に忘れられるほど友規は強くなれなかった。すべての条件を兼ね揃えた尚登のことだ。今頃はもう新しい恋人が出来、すべてが上手くいっているに違いない。  尚登がすべてを失った場所。そして、すべてを失ったと思っていた友規が持っていた『恋心』を見つけた場所。  今は、雨が降っていなかったことだけが唯一の救いだった。 「――高成さん、どこまでドSなんですか」  封印したはずの心の傷を抉られるような痛みに、俯いたままぼそりと毒づく。  口も態度も悪いが、人の心をかき乱すようなことをする人ではないと思っていた高成に、友規は少しだけ失望した。  友規が唇を噛みしめたまま立ち尽くしていると、車道に黒塗りの高級外国車が横付けされた。その後部座席から下り立った男の姿に、友規は信じられない思いでゆっくりと目を見開いた。  狭い車道での停車を考慮してか、運転手に指示を出して車を発進させると、その男は友規に向かって足を進めた。 「な……おと、さん?」   濃紺のスリーピースに身を包み、長身の彼が靴音を立てて近づいてくる。きちんとセットされたこげ茶色の髪、野心を秘めた黒い瞳、そしてため息が出るほど整った端正な顔立ち。  ビルの間を吹き抜けた風が彼の香りを運んでくる。  スラックスのポケットに浅く手を入れたまま友規の前に立った尚登の表情は明るく、初めてここで出逢った時のような憂いは微塵も感じられない。  薄い唇が優雅に弧を描き、低く甘い声が友規の鼓膜を震わせた。 「――誰かを待ってるのか? それとも……このマズいラーメン屋の熱烈ファン?」  彼の口から紡がれたのは、あの雨の夜に座り込む尚登に対して友規が掛けた言葉だった。 「待っています。大事な……クライアントを」  震える声でそう応えた友規だったが、緊張と恥ずかしさで彼の顔をまともに見ることが出来ない。 「そうか……。真純からは『恋人を待たせてある』って聞いていたんだが」 「え?」  弾かれるように顔を上げた友規の唇に尚登の乾いた唇が重なった。頬にそっと添えられた大きな手の温もりに、堪えていた熱いものが溢れるのを感じた。 「随分と待ったか?」 「いえ……」  唇を触れ合わせたまま囁く尚登の息遣いに、友規は小さく首を横に振った。  今まで特に気に留めることもなく耳に入ってきていた周囲の雑踏が消えた。まるで、二人が立つその場所の空間だけが切り取られたかのように、尚登の息遣いと唇を啄む濡れた音、そして自身のはち切れんばかりに高鳴る心臓の鼓動だけが聞こえている。 「――お前を買いたい。請求書は持ってきているだろう?」  バッグの中から高成から託された請求書が入った封筒を取り出すと、おずおずと尚登に差し出した。長い指先でそれを受け取り、丁寧に開封して請求書の用紙を広げた尚登は嬉しそうに微笑んだ。 「あの……っ。俺はもう、ウリはやめました……っ」 「知ってるよ。高成の事務所にいることも、被害届を取り下げたことも……」  そう言って、折りたたまれていた請求書を開いて友規に見せた尚登は、悪戯を成功させた子供のように目を輝かせた。 「但し書き。奥部友規を生涯幸せにする代金として……」  本来請求金額が記入される欄に書かれていたものは数字の羅列ではなく、高成がボールペンで書いた特徴のある字が躍っていた。 『一生分のキスと永遠に変わらぬ愛を御請求いたします』  友規はその文字を目で追った瞬間、息をすることを忘れた。胸がキュッと締め付けられるような痛みと、それまで抑え込んでいた尚登への恋心が堰を切ったように溢れた。  涙で濡れた目で尚登を見上げ、震える唇で必死に言葉を紡ぐ。 「これで……間違いは、ない……でしょうか?」  友規の問いに応えるように、尚登はもう一度唇を重ねて言った。 「あぁ……。さすが敏腕弁護士だ。いい仕事をしてくれる……」  尚登の満足げな顔と、高成の字が滲んでいく。頬を伝う涙を乱暴に手で拭いながら、友規は尚登に何度も謝った。 「ごめんなさい……。俺、貴方を傷付けて……。もぅ、終わったと思ってた……。貴方に二度と会えないって……でも、忘れられなくて……。ごめん……ごめんなさい」  泣きじゃくる友規の肩をそっと抱き寄せた尚登は、耳朶に唇を寄せて温かな声音で囁いた。その言葉にハッと息を呑んでまた涙を溢れさせる。 「綺麗だよ……。お前は何よりも綺麗な心を持ってる」  体を重ねたあの日、友規の耳元で何度も囁かれ、その度に彼と繋がっていることを実感し、安心感に包まれた。誰も信じることが出来ずに生きてきた友規が初めて心を開いた瞬間だった。 「尚登さん……」 「俺はそれまで執着してきたすべての物を失くした。でも、失くしたからこそ手に入れたものがある。空っぽになった体と心に沁み込んできたのはお前の優しさと「死ぬな」という言葉だった。絶望の淵に立った俺の手を掴んで引き上げてくれたのはお前だ……」 「俺だって何も……なかった。半ば自棄になって男に抱かれてた……。空っぽの自分を満たして欲しくて、かりそめの愛や快楽を体に無理やり押し込んでた。でも……やっぱり虚しかった。どうして満たされないんだろう、何を求めているのかさえ分からなかった。あの時、尚登さんに会わなかったら、俺はまだこの場所に立って客をとっていたと思う……。貴方の指先から感じた憂いが俺の中で……変わった」  尚登の大きな手が友規の背中に回り、より強く抱きしめられる。彼の髪から漂う煙草と香水の香りに、浅ましくも体の芯が疼き始めていた。 「――初めてだったんだ。誰かを好きになったの」 「え?」 「尚登さんといるだけで不思議と温かい気持ちになれたし、時にはつまらない嫉妬もした。でも、それをどう伝えればいいか分からなくて。俺とは違う世界にいる貴方に手が届かないもどかしさが苛立ちに変わって……。笠原に犯されてから、俺は一度も客と寝ていない……。自棄になって誘ったけど、逆に客に諭された」 「河野さん……だろ?」 「なんで……っ」  尚登の口から河野の名が出たことに驚きを隠せなかった友規は、思わず彼の上着を握りしめていた。  河野とは何度も肌を重ねている。それを尚登に知られるのも怖かったし、何よりあのホテルで吐露した心の内を知られるのが嫌だった。 「――もう、強がるのはやめろ」 「強がってなんてないっ」 「全部聞いた……。ただし、フルコースでのサービスだけは許さないがな」 「え、あ……それも、知ってるんだ」  バツが悪そうに顔を背けて唇を歪めた友規を宥めるかのように、大きな手で何度も髪を撫でた。  自身を子供扱いする尚登には少々苛立ったが、その心地よさと尚登の真摯な想いをぶつけられ、友規は口を噤んだ。 「――知ってたからお前を抱いた。素直にならないお前を、早く俺だけのモノにしたくて……抑えきれなかった」 「俺は尚登さんに買われたんじゃ……」 「他の客と一緒にするな。乱暴に抱けるわけないだろっ。病み上がりで――なにより……愛おしくて堪らないお前を傷付けるなんてこと……出来るわけない」  密着した体に纏った互いのスーツを通して感じる熱が体にジワジワと沁み込んでは、深部にまで入り込んでくる。口数が少なかった尚登は饒舌で、形のいい唇から紡がれる愛の告白に、友規の頬がだんだんと熱く火照っていく。 「愛している……友規。遅くなって悪かったな」  野心を秘めた黒い瞳が真っ直ぐに向けられる。その瞳を映した友規の栗色の瞳にも、尚登と同じ欲情と熱が浮かんでいた。  互いを求め、失ったものを補い、より大きな物へと変えていく力がそこに見えた。  失うことは誰しも恐怖に感じる。だが、それによって今まで見えていなかったものが見えてくる。  今までに経験したことのない深い慈しみや想い、そして穢れのない一途な愛。 (俺と同じ目……)  高成の言葉の意味を理解した友規は、心のずっと奥底に沈め鍵をかけていた扉を開いた。頑丈な鎖で閉ざされていたはずのそれはいとも簡単に砕け散り、温かな光の中に霧散していく。  すぅっと肺一杯に尚登の香りを吸い込んで、友規は目を逸らすことなく言った。 「尚登さん……。貴方を……愛して、います。ずっと、ずっと……これからも」  尚登の手が友規の体を掻き抱く様に強く引き寄せる。自然と重なった唇の隙間から忍び込んだ舌が友規の口内を激しく蹂躙した。もう迷うことも、躊躇うこともない。  両手に掬った砂が指の間から零れ落ちるように、人間は知らないうちに何かを失い途方に暮れる。  でも、足元に零れ落ちた砂はやがて、突然降り出す雨を含み太陽の強い光を浴びて堅固なものとなって踏み出す道を作ってくれる。  そしてまた、何かを拾い集めながら歩いていく。人生はその繰り返しだ。  友規は尚登の手を強く握りしめて指先に口づけた。  それを合図にしたかのように、尚登もまた友規の細い腰を抱き寄せて歩き出す。  止まっていた時間が動き出したかのように、雑踏が怒濤のごとく耳に押し寄せる。人々の話し声、車のクラクション、周囲に瞬くネオンサイン。  夜の街が普段の活気を取り戻した時、友規の過去も多くの靴音やざわめきと共に消えていく。  もう、この場所に立つことはない。  肩を並べて歩く最愛の恋人を見上げて微笑んだ友規の表情は、何よりも柔らかく慈愛に満ちていた。

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