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第3話

-星- 「緋野せんせ!」  赴任した先の学校で犬に懐かれた。鼻の頭に絆創膏を貼って、上履きは踵を履き潰して軽率で軟派そうなヤツだった。だというのに校則どおりにスラックスにシャツを入れてニットベストを着ているのがどこかアンバランスだった。 「オレのこと、覚えてまっすか、」  変な喋り方で挨拶を終えた俺を追ってくる。おかしなことを訊かれて俺は外面を装うのを忘れていた。女生徒だったなら慣れていたかも知れない。だが必死な目がさらに俺を混乱させる。口説かれているのか。男子生徒に? 「…この前、迷子になった時に……道案内してもらったんですケド…」  不安丸出しの目が俺を見上げる。鼈甲飴のようだった。あまり好きではなかったあの懐かしい味がしそうで舐めてみたくなる。 「覚えてないなら…それで……」  身に覚えはないが心当たりはある。ころころ変わる表情は若さか、彼の性分か。俺にはもう無いものだった。 「いいや。覚えてるぞ」  見当は付いていた。まったく知らないことだが首を突っ込んでみる気になる。俺の作った沈黙に泳いでいた鼈甲飴が俺を見上げる。かなり懐いている子犬のようで、撫でてやりたくもなればふと突き離してみたくもなる。 「名前は生憎だが」 「能登島です。能登島、礁太…」  へらへらと頼りないながらも力のある笑顔で俺を見る。飴玉が形を変える。 「礁ちゃん!」  もう1人男子生徒がやってきた。クラスでもさわがしい感じがあった。先頭を切って新しい担当教諭の赴任を囃し立てていた。クラスを出れば能登島とかいう子犬の飼主らしく、肩や腕に触れていた。三白眼が俺を見る。睨んだようにも思えた。それなりに愛嬌のある顔立ちと垢抜けた雰囲気をしていた。子犬を回収しに来たらしい。しかし俺を粘っこく観察してから「これからよろしくでーす」などとふざけた挨拶をして子犬と共にクラスに戻っていった。  初対面にもかかわらず子犬が訳の分からない質問をしてきた心当たり。それは真っ暗な部屋の中でソファーの上にいた。読書用の眼鏡を上げて雑誌を閉じる。 「(あかり)」  俺は片割れの名を呼んだ。分身のように何から何まで瓜二つだった。一卵性双生児ならそう珍しいことでもない。 「おかえり」  辛気臭い顔をして燈はソファーを立ち上がる。俺は教師、燈は在宅勤務。すべてがすべて同じにはならなかった。 「能登島礁太ってやつ、知ってるか」 「迷子になっていた子供だな。それが?」 「次の学校に居た。覚えているかと訊かれたよ」  燈は俺にコーヒーを淹れてくれた。好みは同じ。でもすべてが同じではない。 「それで、どう答えたんだ」  コンクリート打ちのメゾネットタイプのマンションで家賃は俺が7割出しているが光熱費や家事はほとんど燈に任せている。互いに不満もない。世の夫婦や兄弟が時折不思議に思う。見た目も声も何もかもが違うくせによくひとつ屋根の下に暮らせるものだと。 「覚えていると答えた」 「おれに成り済ますのか」 「そのほうが面白い」  燈は笑みを浮かべた。俺と違って燈は微笑みを浮かべることがある。俺も笑う時はおそらくそういう顔をしているのだろう。 「可愛い子だった。瞳なんて鼈甲飴みたいで」  感覚まで同じだ。俺の傍であの子犬に会っていたように。 「攫われてしまうな、悪い大人に」  だがすべて同じではないことも理解している。プラスチックの袋の潰れる音がした。燈は口に何か入れた。飴か、ガムか、チョコレートか。 「舐めるか?あの子に会った日に買ったんだ。どうしても食べたくなって」  燈はもうひとつ袋から取ってそれを差し出した。左右を捻ったプラスチックの包紙の中にあの子犬の瞳に似た飴玉があった。 「要らない。あまり好きじゃないんだ」 「おばあさんが泣くな」  燈から小気味良い音がする。不安げな子犬の姿が暗闇に焼き付いて、口の中は変に甘く不快な加減で塩映(しおは)ゆい飴玉の味がした。 「サンゴ礁の礁太だそうだ。そう呼んでみてやってくれ」  人生の9割8割ずっと傍にいても聞いたことない柔らかな俺の声で燈は言った。

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