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第5話

-漣-  すぐ隣の席で能登島は大神と盛り上がっていた。奴の声を聞くと落ち着いて字を追えなくなる。頭に入らなくなる。奴の能天気な声ばかりに集中して気が散る。本を閉じた。席から立つ。 「お、」  話声が止んで大神が間の抜けた声を出した。俺も反射的に2人を見てしまう。 「悪い、美潮。五月蠅(うっさ)かったた?」  蜂蜜みたいな大きな目が俺を仰ぐ。何故だが息が詰まる。張り裂ける感じがした。 「別に…」  見抜かれているんじゃないかと思う。透き通った目に。知られたくない。知らないでくれ。 「静かにするからそこに居ろって」  俺の制服を摘んだ手を咄嗟に叩き落としてしまう。そんなことするつもりじゃなかったのに。やりづらい。どうしてそんなことした。能登島の目が大きくなる。呑まれそうになる。何か言葉を探すがどれも違う。相応しくない。 「ははは、便所だろぉ?」  俺は笑った大神を睨んだ。能登島の目が俺から逸らされた。 「なんだそっか、良かった」  逃げるように離れた。廊下の空気が冷たく感じられる。心臓が変だ。居心地が悪い。窓ガラスに手を付いた。胸を押さえる。隣からカメラのシャッター音が聞こえて冷やかされる。クラスメイトだ。知らない女生徒からやたらと呼び出されるのは俺の画像が出回っているとかそんな話だった。人目につかない場所へ這うように移動する。階段の傍まで来ると上がってきたやつとぶつかった。 「すまないな」  教材を持った新しい教科担任の、確か緋野だ。 「具合が悪いのか」  無表情で無愛想で声にも覇気がない、見透かしたような態度の教師だった。冷えた眼差しとか蔑むような雰囲気は苦手なタイプだ。出来ればあまり関わりたくない。来年担任になることも有り得なくはない。 「…いいえ」 「倒れる前に保健室へ行けよ」  緋野は教室の並ぶほうへ歩いていった。人形みたいだ。あまり生活感がない。すでにこの学校には慣れたらしかった。少し生徒に怯えを見せながら授業をする古株らしき英語教師もいる中で随分と堂々としていた。  緋野のおかげで俺を襲う不調は消えた。今度は冷えた感じがする。でもクラスに戻ればまた能登島に掻き乱されるんだろう。あの目が怖い。キラキラして、透き通って。無邪気に俺を呼んで。 「美潮きゅ~ん」  足音が近付いて俺の隣に大神がやって来る。肩に乗った手を払う。こうして反射的に人の手を叩いて、ついさっき能登島の手まで拒んでしまった。悪いことをしたと思う頃にはもう遅い。気にしたふうもなくへらへら笑っている。 「いや~礁ちゃんさぁ、あの緋野とかいう先生(てんてー)に首ったけみたい」  それで俺のところに来たらしかった。 「大人の男に憧れるってやつ~?」  緋野の冷たい目は能登島にはどう向く?能登島のあの明るさは緋野にはどう映る? 「緋野てんてーめちゃくちゃイケメンだもんな。ま、憧れるなってほうが無理な話で。美潮きゅんはどう思う?」 「別に…これと言って…」  能登島と緋野のやり取りなんてあまり想像がつかない。サメとトラみたいなもので、まず出会わない生き物といった感じがした。 「無愛想で寡黙(だんまり)でぶっきらぼう!まさに男の中の漢って感じ?美潮きゅんも憧れてん(ちゃ)ん?」  うぇーい、うぇーいと言って大神は俺に体当たりする。 「気にしていたか、能登島は」 「何を?」 「…いいや」  大神は跳ねるように俺の周りを回った。能登島とはまた違う能天気なやつだった。 「言わなきゃ分かりませんや。あ、席立っちゃったこと?悪かったって。次からは廊下でする」 「うるさかったわけじゃない」 「頭でも痛かった~?」  能登島の声が頭から離れなくなって、そればかり追ってしまうんだ。それを大神に言ってどうする?こいつは耳鼻科じゃない。こいつに言って騒がれでもしたら面倒なことになるのは目に見えている。別に誰かに言う必要はない。 「美潮きゅ~ん。話聞いてるぅ~?」  俺よりわずかばかり背が低い大神は背を屈めて下から覗いてくる。 「能登島の声もお前の声も、頭に響く。耳障りだ」  大神は口笛を吹いた。 -夕- 「あ~、ごめん。うるさくして。今度から気を付けるから」  美潮の視線が滑ってボクの後ろに向いた。間が悪いな、礁太。ボクも遅れて振り返った。緋野てんてーと話が終わったみたいだ。どうする、美潮?ボクは固まった美潮から離れて礁太の傍に寄り添った。ちょっと気拙そうな礁太の肩を組んだ。 「糞詰まりで機嫌が悪いんでしょ。虫の居所が悪いんじゃ気にしない、気にしない」  礁太を教室に連れ帰る。美潮が悪役になってくれるからありがたいったらないよ。ボクのことを陽気で能天気なやつだと思っているみたいだけど、そんなワケないよ。 「それより緋野てんてーとは話せた?知り合いだったのはちょっと意外~」  礁太は頷いた。大きな花、たとえばヒマワリとかがぶわっと開くみたいに笑った。白い歯が眩しい。 「うん。でも他の女の子たちに囲まれちゃってさ」 「女子人気すげぇもんなぁ」  寡黙、無表情、ぶっきらぼう、長身、とんでもないイケメン。知り合いかも、と礁太は言ったけど、本当に知り合いって範囲じゃ済まなそうだ。ボクから背けた横顔はちょっと赤かった。 「前、道に迷った時に助けてもらったんだ…へへ」  勝手にニヤけちゃうみたいでボクに顔を見せないようにしていた。 「へ~!それって運命じゃね」  嬉しい?ねぇ、礁太。ボクの礁太。礁太礁太礁太、礁太。顔一面を真っ赤にした。可愛い。 「う、運命…」  火照ってる顔に両手を当てて、リスみたいだ。まずは気を持たせる。持ち上げて浮かれさせて、固める。ボクはずっと礁太を応援して寄り添って、崩れるまで待つ。砂の城みたい。 「緋野てんてー、王子様っぽいし」 「揶揄うなってぇ!」  礁太はボクの背中を叩く。でも嬉しそうな感じがあった。正直否定を待っていた。本音は。そんなんじゃない、って。口で言われても顔見れば分かることだけど。 「いいじゃん、青春じゃん」  相手があの表情筋死んでそうな新任教師ってのは気に入らないけど。礁太はへへって鼻の下を摩った。ボクの礁太。礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太。布越しでも身体は密着しているのにまだ足りない。パリパリの傷んだ髪を後頭部からわしわし撫でた。 「やめろってぇ」  いつでも温かい手がボクの手を頭から外す。ボクはへらへら笑っておいた。礁太は頬っぺたを膨らませてむくれる。今は照れて笑っていたらいいや、無防備に。クラスに戻ってボクの席に戻る。礁太は顔を曇らせてボクの隣、窓際に寄せた机を気にした。 「オレが五月蝿(うっさ)かったら教えて」  あいつも自分の行動のその意味に気付けば面白いのにな。礁太は全然気付かない?あの熱視線に。気付くわけない。気付かないよね?まだ曇った表情してる礁太を見つめて心の中で訊いてみる。ボクの礁太、礁太、礁太礁太礁太…礁太はボクに気付かない。 「気にすんなって。機嫌が悪いだけだから。自分の機嫌くらい自分でコントロールしてくれって話なんだし」 「う、う~ん。でもオレも悪かったから」 「手、貸して」  礁太は不思議そうにボクの言うとおり机の上に手を出した。美潮に叩き落とされて、可哀想に。ボクは浅黒くて体温の高い手を握った。礁太はボクを見る。 「痛かった?」 「へ?」 「ぶっ叩かれて」  美潮も気にしてたよ。言わないけど。 「ぶっ叩かれたってほどじゃないよ。忘れてたくらいだし」  日に焼けてるから乾燥してるものかと思ったのに礁太の手は意外とぷにぷにだった。背丈もそれなりにあるのに手はちょっと子供っぽい。(はた)かれた部分を親指で撫でた。礁太。ボクの礁太。笑いが止まらなくなりそうだった。 「痛くないなら良かった。ま、まだ緋野てんてーと話せたことでも噛み締めてなさいって」  また礁太の顔が赤くなる。すべすべしていた手が汗ばんだ。チャイムが鳴って美潮が帰ってくる。礁太はすれ違うように慌ててボクにじゃあね!って言うと自分の席に戻っていく。美潮は礁太に何か言いたかったみたいだけど遅かった。ボクはそれにも気付かないふりをした。美潮は物憂げに俯いて、おそるおそる礁太の背中を見ていた。 -星-  (あかり)が気にかけていた子犬は俺が思うより燈に懐いていた。廊下で呼び止められ、まったく身に覚えのない話をしていた。あの後燈に会ったらしく燈に向かうはずだった礼が俺に向けられる。それは少し悪いような気もした。鼈甲飴みたいな瞳が俺を見上げて顔を赤くしている。燈のことが好きなのか。まさか。好きなら俺と燈の違いくらい分かるだろう。だがこの子犬は俺を燈だと思っている。それなら好きというわけでもないのだろう。さっき見た男子生徒も体調が良くなさそうだった。風邪が流行っているのか。子犬の顔に触れて体温を確かめる。少し熱い。 「せんせ…?」  男子生徒なら問題ないだろう。そう判断して随分と乾燥して傷んでいる前髪を除け額を当てる。 「せ…」  少し熱いがそれは病熱とは違うもののように思えた。手の甲でまだ赤い頬に触れて確かめる。熱があるという感じもしなかった。あくまで素人目ではあるが。 「不調ならすぐに保健室に行ったほうがいい」  特にこだわりがあるというわけでもなさそうな髪を適当に直す。そのうち女生徒に囲まれはじめ、黙ってしまった子犬は控えめに去っていった。俺も用は無くなって次の授業があるクラスへ向かった。  燈は照明が嫌いだ。普段から日が沈んでも部分的にしか点けない。カウンターテーブルの上に吊るしたライトだけで食事を摂る。対面の燈は自分で作ったクルトンのサラダを食べていた。俺は人よりも倍、自分の姿を見ている。それは燈も同じだ。俺の目鼻立ち、毛の生え方、額の形、眉の角度、耳の大きさ。立ち方、肩幅、尻の形。俺は燈を見て俺を知った。だが食べる順番は違う。好きなドレッシングも違う。 「口に合わなかったか」  少し大きめな眼鏡を掛けた俺が顔を上げる。今日は一日中家にいたらしい。 「いいや…」  ロールキャベツもアスパラの肉巻きも燈が巻いて作った。偏りがちな献立も俺と同じ。だが選ぶ調味料は違う。燈の眼鏡が青く反射する。目が合う。大体それだけで意思疎通が出来てしまう。先に済ませてしまいたい話がある。 「礼を言っていた」 「あの子か」 「ああ」  共通の知り合いなら何人もいる。長いこと一緒に居て触れる人間も同じだった。交友関係は狭い。燈が在宅勤務になってからさらに。俺が新しい学校に赴任してからはもう限られている。 「おれの振りは上手くやれているのか」 「ああ」 「それならいい」  何故人違いだと言えなかったのか。自分でも分からない。人違いだと、或いは双子がいるのだと話すことも出来た。そうしたら、あの子犬は… 「気に入ってるんだな」  燈は笑った。子犬は見たのか、俺の笑う顔を。外面だけに見せていた俺のとは違う、柔らかな顔を。 「まさか」 「それなら気に入るさ」  ロールキャベツが俺と同じ箸で捌かれて、肉汁が浅い皿に溜まったコンソメと混ざっていく。だが柄が違う。 「分からない」  あの子犬を気に入るという感覚が。料理みたいに内側に染み込んではこない。コーヒーのようにまた飲みたいという感想も湧かない。四肢にフィットする椅子とも違う。何度も読み返して暗記まで出来る本でもない。 「燈は」 「おれか」 「分かるのか」  目の前の俺の口に小さくなったロールキャベツが運ばれた。 「(ひかり)のことなら分かる」  家に居る俺そのままの姿、眼鏡のレンズの奥から俺を透かすように見た。俺はまだコンタクトレンズを入れている。俺と同じ型の眼鏡。だがフレームのパーツの色が違う。腹は減っているが食の進まない俺と次々口に運んでいく燈。子犬が俺だと思い込んでいる俺。燈はまた俺を真っ直ぐ透かす。あの子犬が思い描いている俺だ。 「でもあの子供は俺たちに気付かない」  世の中の弟というものを俺は知らない。燈は弟という記号だけを持っている。俺は兄という形式だけを持っている。だが世の弟は兄に頭が上がらず、兄に憧れ、兄に反発するもののはずだ。男が2人も3人も同じ屋根の下に居れば縄張り争いを始めるはずだ。だのに燈は俺の内側を透かす。 「気付かれたいのか」 「…分からない」  もし人違いだ双子だなどと言っていたら、あの子犬は「ああそうですか」と踵を返して俺に背を向けたかも知れない。飴玉みたいな瞳が俺から逸らされて、何の興味も無く。ある種のばつの悪さだけ残して。あの鼈甲飴に俺は映らなくなって。過ぎた話を振り返ってつまらない思いをした。実際の俺は身に覚えのない話を被った。あの子犬にとっての燈になった。あの子犬にとっては俺が燈で、俺という燈は存在しない。

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