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第6話

-漣-  教室を出ていく緋野を能登島は目で追っていた。姿が見えなくなると振り返って俺は咄嗟に顔を伏せた。奴が見たのは隣の大神だ。何を意識しているのだろう。途端に恥ずかしくなる。耳は近くなったら能登島の声を拾った。 「ここでいいだろ?遠慮すんなよ」 「でも…」  俺が頭に響く、耳障りだと言ったからだ。能登島はきっと俺を気遣ってるに違いなかった。 「廊下行こ!」 「ま、別にボクもここにこだわってるワケじゃないしね」  大神が席を立つ。能登島を連れて廊下に行ってしまう。全部聞こえる。すべて耳が拾う。能登島の声は真っ先に入ってきて、能登島の背中ばかり見ている。耳障りだと言ったからか?傷付けてしまったからか。チャイムが鳴りはじめ大神が戻ってくる。いつものように両手を後頭部に当てて椅子を後ろへ傾ける。 「どう?今日は静かだったっしょ?」 「いちいち真に受けるのか」  うるさくなんかない。頭に響かない。耳障りでもない。廊下に消えた声を探してさえいた。咄嗟に出てしまった言葉を悔やんで、一日中考えていた。能登島はきっと忘れているだろうと思いながらも。 「あんま気にしなさんな」 「別に…気にしてなんかない…」 「してる、してる。礁ちゃんのこと見過ぎだし」  心臓が一瞬止まるかと思った。大神のほうを見られなくなる。深い意味はないはずだ。大神に気付かれるわけがない。はったりに決まっている。 「ま、当の本人は緋野てんてーに夢中だし?気付いてないみたいだけど」 「でたらめを言うな」 「でたらめか、そっか。じゃ、ボクの見間違い」  調子の良い大神が俺の否定を素直に認めることもまた俺を掻き乱す。 「変なこと言って、ごめんね?」  まるで耳元で囁かれているような心地がした。そんなはずはなかった。きちんと声は離れている。気配もない。不気味に思った。あの能天気でお調子者でクラスの三馬鹿だと言われている大神を。俺の後ろめたさが大神を怪物にしているのかも知れない。  放課後にまた1年女子に呼び出されて決まり切った言葉を返す。荷物を置いた教室に戻ろうとした時に脇から来た緋野とぶつかった。 「すまない」 「…」  緋野が先に謝る。ぶつかったのはどう見ても俺のほうでどう返していいのか分からず言葉を詰まらせた。 「モテるんだな」  表情がない。愛想がないから一般的な会社では勤められなかった、モデルになれなかったとクラスの奴等は好き勝手話していた。 「別に…」  そんな無駄話を振ってくるとは思わなかった。人形みたいな顔は口元と目だけが動く。 「今帰りか」 「はい」 「気を付けて帰れよ」  ありきたりなことを言って緋野は廊下を歩いていく。歩き方からして育ちはいいんだろう。足音を立てず、それどころか気配もない。俺以外にも頻繁にぶつかっていそうだった。教室に戻って荷物を取るとふと校庭が目に入った。足はふらふらとベランダに近付いていま。奴はすぐ目に入った。頭の上で大きく両手を振っている。サッカーボールが彼に飛んでくる。バイトをしているから能登島はレギュラーになれない。家の事情がが奴に()し掛かっているように思えた。でも楽しそうにボールを蹴る。蛍光色のシューズが眩しい。空振ったチャイムが鳴る。黒板の上の古いスピーカーが軋む。我に返っても奴から目が離せない。心臓が痛くなる。離れていても無邪気に笑っているのが見えた。息が苦しくなる。誰に笑っているのか知りたくなる。能登島に文句を言われた日から俺は能登島が嫌いなのか。だからあの日能登島が俺に文句を言ってきたように俺は能登島を目で追うのか。目が離せないのか。一語一句聞き逃したくないと思ってしまうのか。喜ぶ顔に息が出来なくなるのか。 「み~しお~っ!」  あの声に呼ばれてベランダの手摺りに置いていた手が震えはじめた。俺に大きく手を振っている。あの目の前に晒されるのを恐ろしく思った。どうしていいか分からない。 「女っ気無いからさぁ、アンタ、ゲイだと思ってたケド、マジのホモ?」  俺は振り返った。斜め後ろ下方。何の気配もなかったが窓の下壁際にC組の三馬鹿の一角を担うやつがいた。 -夕-  たまたま教室に寄ったら面白い光景があって首を突っ込まずにはいられなかった。ベランダにいるのは笛木ちゃんと美潮。珍しい組み合わせ。だって美潮、ボクとか笛木ちゃんとか、礁太とか、アタマワルイヒト、嫌いじゃん? 「恋してる目、してた。それとも女マネ見てた?」  笛木ちゃんはゲラゲラ笑って、はたから見たら美潮をいじめてるみたいだった。笛木ちゃんのことは結構好きだけど、そういうのはちょっと拙いな。 「ど~したの、2人とも?珍しい組み合わせじゃん。デキてたの?」  まだボクに気付いてない2人に近寄る。ベランダの出入口を塞いだ。 「ち、違…」 「ジョーダンやめてよネ!」  笛木ちゃんはボクの冗談を本気にしたみたいで肩を竦めた。付き合ってないことなんて百も千も万も、何なら億も承知。だって美潮は。 「コイツ、恋する乙女みたいなカオしてグラウンド見てたんだから。誰?さっき呼ばれてたし、ショータ?」  へらへら笑っておいた。そのほうが冗談っぽくてボクっぽいから。 「っ、」  美潮の肩が震えたのをボクは見逃さなかった。でも幸い笛木ちゃんには気付かれてない。 「流石にそれはないでしょ、ね?美潮きゅん。呼ばれてたから礁ちゃんのことが好きだなんて、暴論だって。暴論、暴論」  固まって動かなくなった美潮の肩に腕を回す。ダメだよ笛木ちゃん、ボクの邪魔しちゃ。美潮はこのまま何も気付かなくていいんだし。 「それにいっくら美潮きゅんが可愛い女の子のお誘いも断るからって、礁太はないよ」  女の子の勘ってやつ?笛木ちゃんは俯いて硬直したままの美潮を見上げて、それからボクを見る。 「ないかね?あーしはそうは思わないケド!そこンところどうなのさ!え?みっしー?ビューティフルソルトさんよ?」  まさにネイルアートって感じにチップの付いてる指が美潮を差した。困るな、美潮に気付かれちゃうのは。ボクの礁太の声がまた校庭に響いた。笛木ちゃんは校庭に気を取られる。ボクも。ボクの礁太がチームメイトと肩を組んでる。ボクの礁太、礁太、礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太。 「礁ちゃん!」  ボクから呼んだ。礁太はボクに気付いてチームメイトを放すと身体が揺れるほど手を振った。 「大神もいたの~?」 「部活~っ!頑張れよー!」  ボクは叫んだ。礁太は可愛く返事をする。ボクの礁太…ボクの、ボクの礁太。 「ふーん」  笛木ちゃんは口を開けることもせずボクを呆れた目で見ていた。 「礁太は誰にでもああなんだよ。ちょっと距離感近いっていうか。笛木ちゃんは女の子だから分からないかもだけど。そうだよな、美潮くん?」  上半身を倒して美潮のCGみたいな綺麗な顔を覗いた。そうしたら突き飛ばされた。美潮は脱兎の如く教室から出て行った。難儀なやつだな。でも好都合。 「決定じゃね?」  笛木ちゃんは手摺りに置いた手を控えめに左右に振っていた。その先に礁太がいた。可愛いげに手を振っている。 「何が?」  あくまでもボクは恍けた。笛木ちゃんは頭は悪いけどバカじゃない。 「みっしーってショータのコト好きピッピでしょ」  笛木ちゃんじゃなかったらこのベランダから落としてやりたかったな。C組を代表する三馬鹿の1人だからね、それなりの友情ってものがあるんだわ。美潮みたいな教師にとって人畜無害の優等生どころか祖父がお偉いさんみたいなやつには分からないだろうけど。 「そうかな?あのアイスマンの美潮が?まっさか」  泳がせといて、面白いことになる?ボクは目的を果たすまでの間を楽しむタイプじゃないんだよな。牽制してみる?礁太はボクのだって。変な意味じゃない。 「アイスマンが目ん玉うるうるさせて号泣(ぴえん)しそうになってたんだけど?あのアイスマンのビューティフルソルトが」 「花粉症じゃない?気のせいっしょ」  あと美潮のことそういう風に呼ぶ場合はビューティフルタイドな。 -星-  下校時間を告げる哀愁漂う放送の中に忙しい足音が混ざった。あの子犬だ。 「緋野せんせ!」  子犬は向こうだというのに俺は呼ばれるまで振り返れないでいた。子犬は走ってきたらしく膝に両手をついて息を切らしている。 「下校時間だ。すぐに帰れ」 「す、ぐ帰りまっす!でも、あの、帰る前に…緋野せんせに会いたかったから…」  燈が言うように俺はこの子犬を気に入っているのか。分からない。 「そうか。また明日」 「あ、は、はいっす!えっと、あの、」 「気を付けて帰れ」  子犬は間誤ついている感じがあった。俯いて、今日はあまりあの鼈甲飴を見ていない。あの瞳が見たい。俺を映してみたい。そればかり考えていると俺はその場に膝を折って屈んでしまった。子犬はびっくりして首を(もた)げ、大きな目を見張った。飴玉がそこに現れる。 「緋野せんせ、」 「お前は、上を向いていたほうがいい。そのほうが綺麗だ」  俺は立ち上がった。つられるように子犬も上を向く。天井の照明が飴玉に揺れている。背けられそうになった顔に手を伸ばしていた。温かそうにみえたが薄い肉感は思いの(ほか)冷たかった。日焼けしていても滑らかな肌に勝てず親指で少し揉んで撫で摩る。 「柔らかい…」  まだ触れていたいと思った。指先に籠もる熱を子犬の意外に冷たい頬へまだ当てていたい。子犬が戸惑っているのは見て分かった。分かったが、惜しい。狼狽える唇は少し乾燥している。どんな質感なのか、強烈な興味が止められなかった。親指を伸ばす。薄皮が鱗のように張っている。ざらついて俺の弱い力で捲れる。飴玉が俺を射抜き、そこで自分の失態を自覚する。一生徒に対する相応しい行動ではなかった。 「すまない。早く帰るよう言ったのはこっちだったな」  何をしようとしていたのかも忘れていた。そうだ、職員室に戻るところだったはずだ。子犬に背を向ける。腰の辺りが柔らかくなった。背中は温かい。人の感触だ。子犬の腕が腹に回っている。それは幽霊に怯える子供を彷彿させた。 「緋野せんせ…」  声も控えめで消え入りそうだった。何か怖い目にでも遭ったか。それとも今し方の俺の奇行に慄いているのか。 「暗くなると危ない」  言外に早く帰るよう促した。明日からはもうこの子犬は俺の前に走り寄って来ないかも知れない。 「好き…す、」  俺は天井に嵌められていた長細い蛍光灯を見上げていた。後ろから聞こえる泣きそうな声は確かに耳に届いていたが夢の中にいるような心地になる。 「何故」 「…優しい、から……」 「優しければ誰でも好きになるのか」  俺は一歩踏み出した。腹に回った腕は呆気なく解ける。振り返った。飴玉の先は床を転がっている。 「ち、違う……で、す。また会えて、嬉しくて…」  それは俺ではなく燈だ。燈に優しくされて俺に好きだと言っている。俺と燈が違う人間だとも知らずに。俺と燈は違う人間?俺と燈は違う人間なのか?俺と燈は違う…? 「俺は教師、お前は生徒。立場を弁えろ」 「っ、ごめんなさ……いす、でも、オレ、ほんとに…」 「道に迷っていたと言っていたな。勘違いだろう。気が弱くなった時に助けられたら誰でもそうなる」  燈は俺じゃない。燈は俺と違う人間。あの子犬は俺と燈を同一視している。だが違う人間なんだ。俺じゃないのか。燈は俺じゃない。子犬の前から、せめて平静を装って俺は逃げた。子犬は何を見ているのか分からない。子犬は燈を見ていて、俺を見ている。だのに俺と燈は違う人間だ。子犬の中では同じ人間なのに。頭がおかしくなりそうだ。燈には言えない。燈が自分は俺と違う人間だなんて知れたら、燈が消えるか、俺が消える。俺が消えても燈が消えても同じことのはずだ。否、違う人間なら違うことだ。燈には隠そう。俺たちは別の人間だったなんて。あの子犬の中では、その他大勢の中では俺たちは同じ人間なのに。  燈の前で平静を装うだなんて出来るわけがなかった。燈は自分を俺だと思っている。俺と変わりなく。俺だけが気付いてしまった。燈が俺を見るたび、俺は自分の行動に意識的になる。そうなると不自然で、俺が普段どおりにいられないことを告げる。俺とは違い眼鏡を掛け、その眼鏡も俺のとは色が違う。俺の好かないあの飴を口の中に転がしている。 「(ひかり)」 「俺か」 「何か話したいことでもあるのか」  燈にそう訊かれてると本当は話したいんじゃないかと思ってしまう。それが俺の本心なんじゃないかと。燈は俺を見透かせるのだから。 「特にない」  俺自身にさえ疑われる。不自然だ。燈はまだ俺を見ている。俺とは違う色で、俺のよりも少し洗った回数の多い狐色のニット。俺は使わないエプロン。在宅勤務になってからは整えていない髪。飴を最後まで口の中で溶かす舐め方も俺じゃない。俺じゃない、ひとつひとつ。 「どうして」  付け足す。燈の目から逃れたい。 「いいや。腹でも痛いのかと思った。何もないなら気にするな」  燈はキッチンへ行って作業をはじめる。IHの点く音がした。

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