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第7話

-漣-  能登島の目を見られない。能登島の声ばかりが聞こえる。能登島ばかり目で追って、能登島の顔ばかり頭の中にこびりついて、潰れそうだ。 「頻尿~?」  休み時間のたびに俺は能登島のいる教室から逃れようと必死だった。大神が訊いた。すぐ傍まで能登島が来ている。喉が攣るような感じがした。 「いってらっさーい」  俺の返事を聞くこともなく大神は一方的に話を終わらせる。 「美潮、具合悪ぃの?」  能登島の声が俺を呼ぶ。能登島が俺を認識している。能登島の目に俺が入っている…?固唾を飲む。何を恐れているのか自分でも分からない。 「心配ならショータ、付き添ってあげたら?」  話が勝手に進んでいく。割り込んできた笛木を睨んだ。 「え、?分かった!行こ、美潮」  能登島の手が俺の腕を掴んだ。すれ違いざまに「貸し1ね」と笛木が言った。借りた覚えなんてない。でも能登島に触られている腕に全神経が集中してそれどころじゃなかった。 「トイレ?だいじょぶか?」  廊下に出ると能登島は俺を振り返った。 「いいや…何でもない。本当に、何でもないんだ」 「ダメだって!行こ?」  能登島は俺の腕を引っ張る。膝が震えた。男子トイレのあるほうへ連れて行かれる。身体が暑くなり汗ばんだ。能登島に掴まれている腕が火傷みたいに強く疼く。 「能登島」 「なんだよ」  近くに能登島の澄んだ目が並んでいた。俺の奥深くを抉るように首を傾げる。頭がくらくらした。 「別に…」 「あ!」  能登島は大声を上げた。俺はびっくりして肩を揺らしてしまう。 「なんだ…」 「昨日楽しそうだったな!今度はオレも混ぜろよ!あ、でもオレ部活あんだった」  言い淀む俺に陽気に笑って能登島はまた俺をトイレへ引っ張る。 「能登島…手、放せ…」 「我慢すんなって。オレ外出てるし…」 「だから本当に俺は、」 「違う階の行く?」  俺より少しだけ低いところにある目がキラキラ光っている。長くは見ていられなかった。奴の手から腕を振り払う。まだ触れた場所は炎症を起こしているみたいだった。 「美潮ぉ」  頭がおかしくなりそうだ。俺を呼ぶ声と唇に目眩がする。 「本当に、何でもないんだ!」  怒鳴ってしまう。能登島が怯えた。違う、別に怒っているわけじゃない。それをきちんと言葉にすべきだった。 「ごめんな?」  能登島は俺の前に回ろうとする。パサついていそうな髪に手を伸ばしてしまいそうになる。キラキラした目が怖い。能登島から顔を背ける。俺を見ないで欲しい。 「怒ってんのか、やっぱ」  俺を見るな、さっさと失せてくれ。何度も何度もエコーがかかったみたいに俺の頭に能登島の声が繰り返し響いて、消えずに蘇って、もう俺の身体は制御が利かなくなる。 「悪かった、て……っ」  意外と細い肩を掴んでいつも何かしら喋っていないと気が済まない唇に俺は沈んでいた。柔らかさに自ら飛び込んでおきながら驚いた。胸の内側を掻き毟られる。 「やめっ!」  身体中が熱くなった。肩を打たれて柔らかな感触が離れ、急激に寒くなる。足が縺れた。能登島のキラキラした目が大きくなる。焦った表情をしていた。俺が思っていたよりも床は深く遠く、階段がさっきまで視界に入っていたことを何となく思い出す。階段から落ちているらしかった。理解すると共に背や腰を打つ。だが思っていたよりも軽いものだった。それは止められたから。 「階段近くで遊ぶな。危ない」  緋野だった。相変わらずの無表情で怒りも焦りもない。俺の身体をゆっくり寝かせた。 「頭を動かすな。保健医を呼んでこい」  後頭部に当たるものが緋野の膝だなんて気付きたくなかった。階段の上の能登島に緋野は言った。 「頭は打ってない」 「転落直後は分からないものだ。おとなしくしていろ」  下から見ても緋野は人形みたいだった。何から何まで完璧な顔立ちをしている。 -夕-  隣の席は空いたままで、隣の列の3つ前の席も空いてる。もうチャイムは鳴ったのに。笛木ちゃ~ん?どうしてくれんの。次の授業の教科担任が少し遅れてやって来てから美潮が階段から転落して礁太はそれに付き添ってることを知らされた。それからこの授業が残り半分の時間ってなった時に礁太が帰ってきたけどめちゃくちゃ落ち込んでて、笛木ちゃんやらかしたね。  休み時間になって希望率120%くらいありそうな美潮の付き添いに笛木ちゃんは「あーしがみっしーの身元引受になる!」とか誰も訊いてないのに飛び出していって、色気より食い気丸出し・女版ボクと礁太・男は黙って毛深いマッチョのクマさん系を豪語してる笛木ちゃんだからちょっと他の女子たちの牽制からも許されてる感がある。ただちょっとこのまま放って置くのは拙いかなって。美潮に何を吹き込む気なのかな。笛木ちゃんの好奇心はボクにとって不都合なものだ。気にはなったけどもっと気になるのは礁太のほう。ボクの礁太。 「大丈夫(だいじ)?」  多動な礁太が席におとなしく座ってヘコんでる。ボクは礁太の肩を揺すった。 「…(サト)ちゃん」  無意識なんだろうけど礁太は弱い時にボクのこと下の名前で呼ぶ。 「どしたの」 「美潮のコト、突き飛ばしちゃって、それで美潮が、階段から落ちちゃって…それでオレ…」  礁太はボクの腹に顔を埋めた。ボクの礁太、ボクの礁太。礁太礁太礁太礁太礁太礁太。礁太… 「何かされたん?」  あの受身オブ受身の美潮から何か仕掛けたなんて考えづらいけど、人懐こい礁太が触ったり何だりかんだりして揉み合ったなんてことは十分に有り得る。 「何も…されて、ない…」  礁太は俯いた。本当にされてないなら何もされてないって、はっきりボクに言う子だよ、ボクの礁太。 「大変だったっしょ。怖かったっしょ」  乾燥して傷みまくってる毛先を触った。ボクの礁太。美潮のこと意識しちゃうんじゃん。 「オレは全然…でも、美潮が…」  救急車の音は聞こえなかったけど。ボクって結構野次馬気質の不謹慎などうしようもないヤツだからさ、どこの誰さんが救急車で運ばれようがどこの誰さん()が燃えようと全然興味ないけど、想像はしちゃうよ。ボクの会った誰かなんじゃないかって。たとえば礁太が救急車で運ばれたんじゃないかとか、火事の中にいるんじゃないかとか。そういう想像をしなかった。つまり救急車の音は聞こえなかった。 「美潮は大丈夫だって。な?」  そんなこと外野が言ったって気休めにしか聞こえないか。 「…ありがと、(サト)ちゃん」 「何言ってんだよ」  毛並みの硬い野良猫みたいな髪を撫でる。礁太が転落して血でぱりぱりにならなくてよかった。ボクの礁太。ダメだよ、美潮のことばっかり考えちゃ。今はボクを見ていたのに笛木ちゃんが戻ってきたら礁太の意識は彼女に移った。美潮の様子が気になるんだね。でも大丈夫だよ礁太、美潮は意地っ張りの気障(キザ)だし、それより何よりもっと圧倒的な理由で許してくれるよ。許してくれるとか許してあげるとかの話じゃないな、許しちゃうんだよな。 「笛木ちゃん、あのさ…美潮は…」  礁太は笛木ちゃんを呼ぶ。笛木ちゃんと礁太は仲が良い。姉弟(きょうだい)みたいに。 「全然ダイジョーブだったぢゃん!心配して損するくらいー!ちょっと足首捻っただけだってさ」  笛木ちゃんは礁太のほうを見もせずに言った。だから礁太がどんだけ落ち込んでるか見えてない。見たとしても気付くかな。 「そ、っか…良かった」 「あの様子じゃすぐ戻ってくるっしょ」  そしたら礁太、美潮のこと意識しまくるんじゃないの。仕事が増えるな。 「ね、ホント、良かったじゃん礁ちゃん」  ボクは良くないけど。無欲の勝ちってやつかな。無欲っていうか無自覚?優等生で、口数少なくて頭良さそうに見えても、授業で教わらないことに対してはてんで話にならないんじゃないの。 「でもさぁ…」  笛木ちゃんは思わせぶりに話を伸ばした。嫌な予感がするな。ボクは礁太の肩を抱き寄せる。笛木ちゃんに対する嫌な予感なんて礁太に関する美潮のことしかないじゃん。 「何…?」  ボクの礁太は不安そうだった。笛木ちゃん楽しんでない? 「みっしー、ショータに話ありそうだったよ」  礁太の肩が少しだけぎくりと震えた。 -星- 「仲が悪いのか」  美潮渚沙(なぎさ)とかいう生徒の足に包帯が巻かれていく。現場の様子からいってあの子犬に突き飛ばされたとみて間違いなさそうだったが、かと言って俺も言い争う声を聞いたわけでもない。ふざけ合った末の事故にも思える。表情や挙動こそ慌てふためきながらもかける言葉が見つからないとばかりだったあの子犬が去ってやっと俺は美潮とかいった生徒に訊ねた。教師はわずかにでも引っ掛かった点を有耶無耶にする勿れ。昔読んだどうでもいい本の一文ばかり意外と覚えているものだった。 「…別に」 「質問を変える。事故か事件かが知りたい。場合によっては学校だけで処理できる問題じゃなくなる」 「階段の手前で躓いただけです」  俺ひとりでは判断がつかなかった。美潮は項垂れたままで、人の目どころか顔すらも見て話そうとはしない。それは俺だからなのか。 「本当だな」  あの子犬はいくら仲が悪かろうと人を突き落としたりなどしないだろうという俺個人の印象が邪魔をする。教師として危うい物の見方だ。 「証明の仕様がありませんね」 「能登島に訊く」 「あいつに話しかけようとした時に落ちたんです。自分のせいだと思うに決まってる」  あの子犬を庇っているのか、それとも俺の疑いが間違いでこれが事実なのか。大事にするつもりはないが、この件が後々に大事になるのは避けたいところでもある。 「どうしても事件にしたい?」  睨むように美潮は俺を見上げた。 「事件になる前にどうにかしたい」 「ただの事故です」 「今回はそれだけで済んだようだが、頭の打ちどころが悪ければ死ぬんだぞ」  目が合うと美潮はあの子犬とはまた異なった雰囲気で俺から目を逸らした。教師が嫌いな生徒は多い。話しかけるだけで硬直するような生徒もいる。物騒な言葉を使ったせいか保健医まで緊張感を露わにしている。 「とりあえずはそれを信じることにするが…何かあったらすぐに相談することだ。俺にじゃなくても、誰か、他の教員に」  美潮は返事をしなかった。黙って俺の言うことを聞きそうな生徒でもない。俺は適当なところで切り上げて次の授業に向かう。大幅に遅れて別の教員に前半代理を頼んでいた。  授業が終わり美潮が言ったとおり本当に事故だった場合のこの子犬の精神状態を考えると教師として放っておけずC組に足が向く。しかしあの子犬はいなかった。すでに美潮は教室に戻っていた。ベランダ側の端で一番後ろの席で、台を使って片脚だけ伸ばしている。他に1人、目を引く姿があった。かなり明るい茶髪の片側を大きなアクセサリーの付いたヘアゴムで結い上げている派手な外見の女生徒。話には聞いたことがあるがあまり興味が湧かないでいた。このクラスに来るたびに目にすることは目にするが燈に対するような感慨は特になかった。幼い時に離婚した父の新しい家庭の娘。二親同じではないが妹。しかし少なからず血が繋がっているという認識はあれど赤の他人という域を出なかった。燈にはまったく似ていない顔が振り返った。あの女生徒は知っているのだろうか、俺たちを。大きな吊り目が教室を覗く俺に気付いたがすぐに後頭部に戻った。女生徒の集団に話しかけられたが俺は子犬の居場所だけ訊いてC組から離れた。複数のクラスを見ていると各々のクラスの色が見えてくる。C組は積極的な女生徒と消極的な男子生徒という構成らしい。  あの子犬は外に出たらしかった。そう長い休みでもないというのに、俺も校庭へ出る。大きく見渡してみてもあの子犬の姿は見えなかった。運動部の部室が並ぶプール棟のほうへ入って行くとC組の大神(さとる)とかいった男子生徒が壁に背を凭れさせて立っていた。俺に気付くと会釈する。あまり意識はしていないが俺の異母妹らしい笛木(ゆかり)や美潮と違っていくらか愛想がある。だがそれは貼り付けたもののように思える。成績優秀にもかかわらず補習を希望する勤勉な生徒だが騒がしく問題児的な側面もあると聞かされている。家庭的な抑圧があるかも知れないため注意するよう言われている。 「どうした」 「ちょっと友達を待ってるだけっすよ」」 「そうか。能登島を知らないか」 「知らないっすねぇ~!」  笑い方の不自然さや無理矢理さが昔読んだ絵本に描かれていた道化師と重なる。 「そうか」  無駄足だったらしい。弓道場のほうに回った。そこはまだプール棟付近で一帯を包む塩素の匂いに少し落ち着いた。条例が変わった都合で使われなくなった旧焼却場の近くで(うずくま)る姿があった。今は金曜日のゴミ捨て場になっている。コンクリートの高い壁で覆われ、隅にそこまで大きくはない錆びた焼却炉がある。 「能登島」  項垂れた頭が膝から持ち上がる。 「緋野せんせ…」  まるで捨犬だった。飴玉が濡れている。 「大丈夫か」  傷んだ髪が小さく頷いた。クラスメイトが転落する姿を間近で目にし、自分が仕出かしたと思っているのならその心労はある程度推測できる。 「大変だったな。今日は帰るか」  捨犬の飴玉はまた膝に落ちる。 「美潮は、オレが突き落としたんです…」 「美潮が、お前がそう言うんじゃないかと心配していた。戻ろう」  俺が思うよりも捨犬は気落ちしているようだった。今時の高校生を俺の感想で一括りにするなら淡白で薄情で個人主義だ。この捨犬も俺が思うよりは軽い気持ちで受け止めているものと思っていた。 「美潮には会えない…す」 「何故。美潮はあれは事故だと言い張っていた。違うのか」  美潮は何か隠している?捨犬は顔を伏せて黙ってしまった。

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