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第8話
-漣-
昼休みに教室に戻った。頭は本当に打った覚えがなく、膝に痣と足首に捻挫があるだけだった。だがそれも唇に残っている能登島の柔らかさに麻痺している。能登島の姿は教室にはなかった。隣の大神もいない。緋野が教室を覗きに来てあの人形みたいな面で能登島も事情聴取されるらしかった。祖父が文部科学省の幹部で俺を特別視する教員は多かった。仕方のないことだ。それに対して気を遣わせている後ろめたさは少なからずある。問題行動を起こしたのは俺だ。居合わせた以上追及しなければならない緋野には悪いと思っている。それでもすべて打ち明ける気にはならなかった。能登島が変な目で見られそうで。俺自身、まだ能登島に対して何をしたのか訳が分かってない。唇はまだ柔らかい感触が忘れられないのに。
謝ってあれは俺の意思で事実起こったことと認めるべきか、有耶無耶にしてしまうか。俺みたいな薄汚れたやつがどれだけ自分が能登島の立場だったらと仮定してみても後者しか選べないが、実際能登島みたいに素直で純真な奴はきっと前者のほうがいい。謝りたい。きちんと謝るんだ。とりあえず謝罪を口にすれば嫌でも何のことだかくらいは能登島の頭でも分かるはずだ。加害者は俺なんだから。緋野と話していた女子たちの口振りから能登島は外に行ったらしかった。プールの匂いが好きだ、落ち着く、と以前話していた。大神に。どうして俺が知っているんだ。部外者のくせに。あいつ等の声がうるさいから。それ以外にない。席から立ってみたが片足は床に着けると痛み、引き摺ってしまう。廊下を走ったり跳んだりすることを防ぐため学校は便所サンダルに酷似した形状の上履きをしていたが足首が上手く曲がらずさらに安定しない歩き方になる。それでも玄関には辿り着き、最大の難所は出てすぐにある階段だった。手摺りを使ってゆっくり降りていると軽快な足音が近付いてくる。
「みっしー水臭~。言ってくれたらあーし手ェ貸すしぃ」
「いや、要らない…」
手摺りを頼っていたほうが早い。何より笛木に何を頼ることがある。肩でも貸すつもりなのか、華奢で、しかも異性だぞ。いくら笛木自身にその認識がなくてもだ。
「ショータのところ行くんしょ?」
「…別に」
「緋野しぇんしぇも多分外に行ったんじゃね」
笛木は俺の後ろをついてくる。落ちるように一段一段両足を揃えて。
「ショータのコト好きっしょ、やっぱ」
保健室で散々こいつにも何があったと訊かれた。変なこと言ったんじゃないか、とか。保健医が少しピリついた。緋野も疑っていたことだ。担任でもない現場に居合わせた程度の教師が疑うのと同じクラスのやつが疑うのでは話が変わってくる。言ったというかした。だが笛木に話すことでもない。この話を実際にあったこととして語っていいのは能登島だけだ。
「安心してよ、女の勘ね!」
笛木は口を閉じることを知らない。能登島と大神と同じだ。
「あーし応援すっかんね」
段差を降りたびに何か喋らないと気が済まないらしかった。笛木を振り返る。猫っぽい目が俺を向いた。能登島の声より断然うるさいが耳に張り付くことなどなかった。
「で、やっぱショータと何かあったんしょ?」
保健室の時と同様に俺は何も答えなかった。答えることがあったとしてもおそらく答えなかった。笛木は直立したまま落ちるように両足を揃えて段差を降りる。
「何か言った?何かしちゃったとか?」
笛木はあくまで高を括っている感じがあった。そんなことはまさかないだろうという。それもこいつがいう「女の勘」というやつか。簡単に当てられるものだ。
「…お前には関係ない」
「確かに!」
ゲラゲラ笑い笛木は立ち止まった。俺は階段を降り終え、プール棟のほうに歩いた。壁際に大神がいる。
「怪我ダイジョーブ?」
三白眼が俺の引き摺る片足を見た。返事をするまでもなかった。
「ごめんなぁ?元はと言えばボクが妙なコト言ったのが悪かった」
ね?と大神は俺の後ろの笛木に言った。
-夕-
美男子ってのは包帯がよく似合うね。もし落ちたのが礁太だったら。包帯を巻いて松葉杖を突きながらガーゼだらけの顔で笑う姿を想像してドキッとしちゃった。
「あ~、そっか。あーしがショータに行けって言ったんだっけ?」
笛木ちゃんは髪を掻いた。美潮は少し首を傾けてゴミ捨て場のほうへ行こうとする。あーあ、帰ってきた礁太をボクが真っ先に迎えにいこうと思ったのに。話し声が聞こえたから緋野てんてーも多分裏から回ったんだな。1人にしてあげたらいいのに。野暮じゃない?緋野てんてーと美潮に囲まれちゃって、そういうことならボクは何にも気付かないフリして迎えたほうが礁太には好印象かな。ここは撤収したほうがいいね。
笛木ちゃんはまだボクの傍に居た。出しゃばってくれるじゃん。
「仲直りできっといんだケドな~」
「同感~」
口先だけの同意は簡単だった。絶対自分に正直で在りたいなんて自己啓発こじらせた歌とは違うから。とりあえずボクの席の隣であるうちは礁太と美潮がそれなりの仲じゃないと、警戒してボクのところ来なくなっちゃいそうだもんな。別にボクから行って連れ出すのもいいけど。でもやっぱ礁太からボクのところに来てくれるって旨味を知っちゃったらさ。そんな些細なことでも。ボクの礁太。ボクの礁太。礁太、礁太礁太礁太礁太礁太礁太。
「何ニヤけてんの~?」
「美潮きゅんの怪我が思ったより軽くて良かったって思ってさ。そりゃ無傷ならもっと良かったケドさ。礁ちゃんも安心するかなって」
「っつか何してんの?」
「礁ちゃん待ってたの。心配じゃん?でも美潮きゅんがいるなら安心だね?」
ボクは笛木ちゃんの横を抜けていった。彼女は邪魔してくれてありがとうネ?って内心言っておいてやった。フェアにやる気なんてなかったのにフェアにしてくれちゃって。美潮の朴念仁もそろそろ分かったんじゃない、自分の気持ちってやつに。笛木ちゃんがありがた~く口に出してくれちゃったもんな。それと繋がってんじゃないの、今回のこと。
-雨-
性別、女。性自認、男。性的対象、女。好きな人、ショータ。じゃ、ホモじゃん。いや肉体的にはガチガチのノンケ。悔しいなぁ~って思いながらショータとわちゃつく大神を見て、ショータを熱く見つめる美潮を見てた。男ならガツンと言っちゃえよ、っていつの間にか都合の良い時だけ女のカラダってことに甘えた。そりゃね、誰にも言ってないんだから。ちんぽを母親の子宮 の中に置き忘れてきてもう高校生だよ。オレであることとあーしであることの使い分けは出来るようになってきた。小学時代は良かったね。まだオレでいることを許されたんだから。生理がきて胸が膨らんだらもう終わりだった。オレは理想のあーしになった。髪パッサパサでデカいマスコット付けたりなんかしてさ。爪なんか長くてキラキラにして。周りの男はちやほやとまではいかないけどそれなりに優しく他人行儀で親切にしてくれる。ノンケのオレに気持ち悪ぃ下ネタ振って、うっせぇなと思ったり。でもそういうのイケるキャラクターだからね、あーしは。
ショータはあーしに甘えてくる。ショータといるとあーしはオレでいられる。ショータはオレを女だと思ってるのは周りと変わらないけど、ショータの前ではあーしはあーしが思い描いた理想の兄にも弟にもなれる。新しく知った下ネタの意味無邪気に訊いてくるところとか、重い荷物持たせるところとか、容赦なく圧 し掛かってくるところとか、Gの前にあーしを突き出すところとか。
あーしでショータに迫ってみる?でも女のカラダでショータに好かれてもね。オレがショータに好かれたい。オレがショータに迫ってみたい。でもショータの中にオレは存在しない。見つめてるだけの美潮に気付いた時羨ましく思った。男に生まれてカラダも男。オレは男に生まれたつもりで女。ランドセルは赤かった。さん付けで呼ばれて、スカート履かなきゃで、月1で生理がきて、脚閉じて座れって教わんの。派手な下着はやめろ、女の子には生理があるってやってる時に外ではチャントシタ男がサッカーしてた。オレもあそこにいるべきはずなのに。段々体格に差が出てきて、自分を「オレ」って言うのはイタいからやめたほうがいいって親切な子は教えてくれた。好きになっちゃうよ、そんな面倒見のいい子。困るよね?オンナノコに好かれちゃったら。
ま、仕方ないね。生まれた時にちんぽが欠損してた、なんて言い方今なら大問題でしょ。それこそ男と女の在り方を縛ってるってね。ふざけるなよ。オレは男なんだよ。男であることとか女であることに縛られてるわけじゃねぇんだわ、その前に男なんだから。別に今なら実はあーしは男でした、なんて許される時代だと思うけど。人生始まって今まで自分は男、自分は女と信じて疑ったことないやつらには刺激強すぎね?経験ないなら仕方ないだろ。
頑張りなよ、美潮。オレはお前のこと大っ嫌いだけどあーしとしては羨ましいんだ。あーしとも正反対のあーたがショータのこと落とせんの?って。そしたら諦められるよ、癪だけどね。壊してくれ。オレを女好きのノンケにしてくれ。
-星-
横の壁を蹴る。捨犬の顔が一瞬で持ち上がる。燈のことを優しいから好きだと言っていた。少し脅すみたいな態度を取ったらどうなる?
「答えろ」
飴玉に大きく俺が映っている。俺には俺が見えているのにこの捨犬には燈に見えている。不思議なものだ。真実は各々に対して1つかも知れないが、1つずつでしかない。
「緋野せんせ…」
「もう一度改めて訊く。肯定 か否定 で構わない。美潮を突き落としたのか」
飴玉の中の俺にも問う。俺はどっちであって欲しい?
「…っ」
「考えることじゃない」
壁を蹴る。燈は優しい?それなら俺は?
「はい…」
捨犬は膝に顔を埋めながら言った。俺を見ている?燈ではなく俺を?傷んだ髪を見下ろした。小さくなる姿に胸が熱くなる。拾い上げてやらなきゃならいい気がした。風呂に入れて洗って乾かして。だがそれは燈だ。俺じゃない。砂利を踏むような音がして俺は壁を躙 る足を下ろす。
「能登島」
片足を引き摺りながら美潮がやって来る。
「丁度良い。美潮、能登島がお前を突き落としたそうだ」
「…それを突き止めてどうするつもりなんですか。俺は能登島に突き落とされたとは思っていません。それで終わる話です」
俺は小さくなっている捨犬の意見を聞くつもりで顔を上げた飴玉に目配せする。
「どうなんだ、能登島。故意的に美潮を突き落としたわけではないのか」
「緋野先生」
「俺は能登島に訊いている。その返答次第でこの話は終わりだ」
美潮の視線も捨犬に向いた。
「お前が良いなら全部言え、能登島」
2人の間には何かあるらしかった。互いの合意が無ければならないような類の。喉の辺りに凝り固まるのに似た違和感が生まれる。風邪のひき始めとはまた違う。
「俺が少し揶揄った。たまたま落ちたのが俺だっただけだ。能登島は正常な反応をしただけで何も悪くない。階段の傍でやったのは俺の落度以外にない…です」
「誰が悪いか悪くないかは興味がない。それは今の段階では必要ない。どうなんだ、能登島」
「オ、オレが…勘違いして…ビックリしちゃって…美潮のこと、突き飛ばしたん、で…す、」
捨犬に飼主面をして近付こうとする美潮を一瞥する。引き摺る片足が止まった。
「分かった。二度と階段の近くでふざけるな。大事 にならなかったことだけが幸いだったな」
2人の間に起こった公に出来ないことが何なのか。気にならないでもなかったがこの件の大まかな流れは聞けた。それ以上介入は出来ない。まだ小さくなっている捨犬に何か話しかけたいとは思いながらも教師として話すことは何もなかった。目的は果たされた。もうここに用はない。この捨犬にも。
「校内の怪我は保険が下りる。後で連絡が行くだろう。大事 にな」
美潮に言って俺はこの場を去ることにした。あとは俺が報告し担任の教諭が2人の保護者に説明し、2人の保護者が出てくるかどうかだ。
家に帰ると燈が玄関まで出迎えてくれた。足音が聞こえたらしい。
「燈 」
少し草臥れたニットを着て眼鏡を掛けた顔を見た途端、捨犬の怯えた姿が脳裏を過ぎって苦しくなった。靴を脱ぐのも忘れて同じ匂いのする燈に抱き付く。許してくれ。誰に対してなのかも分からない言葉が喉で詰まる。
「輝 」
同じ体温。同じ体格。同じ肉付き。眼鏡を掛けた俺が俺を見下ろす。蛹になった気分だ。このまま羽化したら多分俺か燈のどちらかが居なくなっていて。
「ご飯ができてる。おろし醤油ハンバーグにした」
俺のモスグリーンのニットとは違うオレンジのニットが奥に消えていく。
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