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第9話

-漣-  壁際で膝を抱える能登島に少し距離を空けて近付いた。 「ゴメン、美潮。ホント、ゴメン」  能登島が謝ることじゃない。先に言われて俺は言うはずだった言葉が出なかった。能登島は俯いたままで声は震えている。足は勝手に進む。運動部に入っていても少し華奢に思えた。早寝早起きで早朝のアルバイトに出て、食べているものはいつも菓子パンばかりで筋肉質でも細い。日に焼けて傷んで色が抜けて、見るからに硬そうな(あたま)を撫でてみたくなる。俺の手を差し伸べて立たせてみたくなる。心臓の奥で妙な渦が巻いている。俺に噛み付いてくればいい。初めてどうでもいい転校生から鼻につくクラスメイトへ変わった時同様に。 「俺のほうこそ、悪かった」  一歩だけ近付いてみる。片足の爪先が小石を転がす。 「来るなよ」  拒絶の声は弱いのに俺の目の前の光景は一度色を失う。 「近付くなよ…」  胸を抉られるような苦しさがあった。それでも身体は片足を引き摺りながら蹲って(ふさ)ぐ能登島に近付く。膝を抱く片腕を掴む。振り払おうとしたようだが思い留めたらしくぎくりと肩を震わせるだけだった。 「触るな…!」  叫び声に似ていた。傷んだ髪を掻き乱す。ざりざりと音がした。 「またオレが突き飛ばしちゃったら次はそんな傷じゃ済まないかも知れないじゃん」 「悪かった」 「サイテーだ…」  後頭部を抱いて両膝に沈む。謝るより許すことのほうがずっと難しい。これ以上俺が謝ったところで自己満足にしかならない。許されたいだなんて思うな。 「さっさと行けよ!」  立ち尽くす俺に能登島は怒鳴った。ここで能登島の前に居続けるのは脅迫でしかない。威圧だ。それでも離れられなかった。能登島をひとりにしたくない。声は何度も耳の奥で繰り返される。俺に向けられたものならどんな内容でも、どんな感情が込められていても張り付いて響き続ける。クラスの中ばかりでたまにしか俺に向かない快活な声が。 「能登島と居たい」  反応はなかった。代わりに手叩きが横から聞こえた。 「ほぉら~、あーた等昼ごはんパクつかない気?空腹(ペコ)だわ~」  笛木は俺が踏み出せなかった距離を難なく詰めて能登島に購買で買ったパンを近付けた。 「ショータこれ好きっしょ。あーしの奢りなんだからありがたく思いなさいよ。空腹(ペコ)ると憂鬱(サゲ)なんだから」  能登島の目には笛木と笛木が差し出したフルーツサンドだけが入った。 「ホント…?くれんの?」  ハムスターがエサを押さえるような仕草で両手で柔らかく笛木の持つフルーツサンドを握った。大きくカットされたイチゴの断面が生クリームに圧迫されながら並んでいる。目にしているだけで胃もたれしそうだ。 「ちゃんと食べて元気出しなさいよ。力こそパワーなんだから」 「う、うん。ありがと笛木ちゃん!」  フルーツサンドを潰れない加減で抱き締める。パンの白さに日焼けした手が映えた。それに気付くと動悸がする。 「メロンパンもおまけしちゃう」 「いいの…?笛木ちゃんは?」 「あーしはいいの。最近太ったっしょ?…まったく呆れちゃう!レディーに何言わせんの?」 「ご、ごめん。でもメロンパンはもらう」  笛木の差し出したメロンパンを掴んで胸で抱いた。 「ならよろし!みっしーも食べたかった~?」  俺の目の前をうろうろして顔を近付ける。がつがつくる女子より雑でふざけた調子だった。俺は笛木から顔を逸らした。ゲラゲラと笑われる。今の俺にはよく似合ってる。香害すれすれの甘い匂いを残して笛木は踊るようにどこかへ行った。多分教室。母親がキャラクターを模した弁当に凝ってるとか凝ってないとかで昼飯時は囲まれていた。時々能登島にクマやウサギを描いた頭部を蓋に開けてパンの一部と交換しているから俺も知っている。 「美潮…半分だけあげる」  袋の音がして能登島を見ると隣のアスファルトを叩いた。 「突き飛ばして、ホントに、ゴメンな…」 「俺は、」 「許してくれなくても、みんなが気にするから、教室では、いつもどおりにして欲しい」  気拙さを隠せない素直な目がおそるおそる俺を見る。腹の底から何かが轟いた。もうしない。もう傷付けない。また触れてみたい。また触れられるならどうなっても構わない。もうやらない。もう能登島を困らせたくないはずなのに。傷んだ毛先が指に触れていた。最低だ。分かっている。すぐ下に骨を感じる頬が掌に馴染んだ。 「ん、っ!」  能登島の驚きの声で我に返る。でももう止められなかった。衝動でも一時の気の迷いでもなかった。能登島に酷いことをしていると分かっていながら離すことも出来ずに嫌がる身体を寄せる。唇が溶けてなくなりそうだった。柔らかさをもっと試したくなる。まだ能登島は何も食べていないはずなのに甘い。甘いものは嫌いなはずだ。胃もたれがして口の中が気持ち悪くなるから。なのにまだ足らなく感じた。能登島を壁に押し付けてた。自分の欲望を抑えることができなかった。最低だ、もうやめろ、頭の遠くで警鐘が鳴っている。 「イヤだって!」  唇が熱くなる。もう突き飛ばすことはしなかったが俺の肩を能登島の拳が殴る。鉄錆の味が口の中に広がる。 「…ゴメン。でもムリだ。仲良くなんてできるわけない」  能登島は俺を見てぎょっとした。唇はまだぬるぬるしていた。笛木からもらったばかりのフルーツサンドとメロンパンをアスファルトに落としたまま能登島は走り去る。未開封のパンの袋を拾って教室に戻る。笛木に見られたくなかった。隠しながら大神の机に2つを置いた。 「どした~?」 「忘れ物だ。能登島に渡してくれ」 「その唇の傷何~?だいじょーぶぅ?飯食える?」  大神はへらへら笑っていた。俺は黙って席に着く。鉄錆の匂いは止まらない。傷口を舐めた。落胆した表情が蘇るだけだった。 -雨-  緋野しぇんしぇが玄関を上がってすぐの自販機スペースにあるところで中庭を見ていた。コンクリートの柱から広がるように木製の腰掛けがあって放課後は人数多くて部室から(あぶ)れた運動部の1年とかが着替えに使ったり、たまに自販機で休んでたりとかで使ってる共有スペースだった。玄関とは反対側を向いていて窓を向いて立つ緋野しぇんしぇの後姿は異様だった。玄関が元々暗くて中庭から入る日差しで逆光してるからその異様はさらに増す。  あんまり実感はないけど兄らしい。いつ頃知ったかは覚えてないけど少しずつ出汁が染み込んでいくみたいになんとなく知ってる。パパンにはママンの前に家庭があることとか。そこに兄弟がいるとかいないとかで、パパンの部屋を興味本位で漁っちゃった時かな。少し大きくなってその名前が読めるようになって(てる)とか変だけど(かがやき)だと思ってたら(ひかり)だった。もう1人のほうは分からないけど。火に登。まさかそのどっちかの兄が教師として来るなんて。しかも愛想無いし、パパンの前の嫁はんに似たのか。苦手だな。イイと思うのは女子たちだけだろ。あ、オレも一応女子か。 「コンチャ~」  緋野しぇんしぇは知ってんのかな。オレはどうせカラダが女なら誰にでも愛される必要バカみたいなオンナになりたいからとりあえず他の教師(しぇんしぇ)と変わらないように挨拶はしておいた。オレに気付いていなくても。中庭見てたのか、ガラスに映る自分を見てたのか分からないけど緋野しぇんしぇはとにかく不気味にオレを振り返った。あんだけCGみたいな顔してれば四六時中見たくなるか。なるか?オレは別に自分の女体(カラダ)みて興奮はしないけど。 「こんにちは」  静かに挨拶を返してくれる。オレのお兄ちゃんってカンジじゃないね。パパンと一緒に暮らしてたら違ってたんじゃない?たんぽぽだよ、綿毛散らして種飛ばして。パパンはたんぽぽだ。たんぽぽパパン。たまにパパンの帰りが遅い日は、やっぱり前の家庭(おうち)が良くなっちゃったんだと思うこともあったけど。ただパパンといて楽しい時は、(てる)と火に登るって人が可哀想だなって思うこともあった。それだけ大人ならもう悲しくなんてないよね。  緋野しぇんしぇはまた中庭を見てからどこかへ行こうとしてけど一瞬よりも短い間隔でまた中庭を見た。全てのものに興味ないデス表情筋アリマセンみたいなアンドロイドみたいな緋野しぇんしぇの二度見。ちょっと人間らしいところあるじゃん。その仕草がオレの意識を引いた。緋野しぇんしぇの永久凍土してる顔面がばつが悪そうに歪んでオレを確認する。何も見てないってカオしといた。でもあのアイスマンが何を見ていたのか気になって緋野しぇんしぇが廊下の奥の曲がり角に消えてから窓ガラスの傍に寄る。中庭には大樹ってやつがあって、そこには赤レンガの花壇みたいになってて腰掛みたいになってた。だから学園祭の時はフードコートになる。そこに見慣れた茶髪がいた。染めたわけでも地毛でもない傷みまくって(まだ)らな色は絵具かけられたような毛の色してる猫みたいだった。緋野しぇんしぇはあれを見たんだ。中庭は表校舎と裏校舎と玄関(ここ)でカタカナの『コ』の字になってるから、中庭で落ち込んでるみたいなショータの姿は誰からにも見えちゃう。それは何かダメでオレは脱いだばっかのハイカットスニーカーにまた足を突っ込んだ。踵にでっかいリボン付いてて靴紐もリボンみたいな紐だけどアクティブな感じの形のスニーカーだからみんなカワイイって言ってくれる。ほんとは白と紫と金色のバスケットシューズが履きたかったけど、オレの足には合わなかったし何よりあーしの服装(カッコ)には合わなかった。オレの理想のあーしはこういうリボンひらひらだけどカワイ過ぎないスニーカー履いちゃうから。  中庭へ走った。ここからが一番遠くて表校舎の端から端まで走った後に校舎の横走って渡廊下の下を潜った。大樹のところの赤レンガに座って下向いてるショータに駆け寄った。 「ショータ?」 「…」  泣きそうになってる目がオレをゆっくり見上げた。 「ゴメン、笛木ちゃん」  口開いた途端にコンタクトレンズが剥がれる時みたいにショータの目からぼろって水が落ちた。 「仲直りできなかった。優しくしてくれたのに、ホント、ゴメン…パンも、置いてきちゃって、ゴメン、せっかく笛木ちゃんが買ってきてくれたのに、ゴメン…」  目を離すべきじゃなかった。美潮と何かあったんだな。何したんだよあの野郎。 「いーよ、ショータ。謝らないで」  オレがショータの兄ちゃんになりたいのにオレはショータの姉ちゃんでしかない。オレにとってはそう変わりもないことだけど周りはそうじゃない。オレはオレとしてショータが好きでも周りは男女として見る。オレはショータが好きだけど、あーしとしてショータが好きなのはオレは認められない。 「オレ、美潮に何かしたかなぁ?美潮の傍でうるさかったのは、オレが悪かったけど、そんなに怒ることだったのかな、」  乱暴に目を擦るから腕を押さえた。女の子なんだからハンカチくらい持ちなさいってママンに言われてから制服に突っ込まれてるハンカチでショータの目元を拭いた。 「みっしーはショータのコト好きなんだと思ーケド。あーしはネ」  これ言っていいこと?でも美潮の木偶(でく)の坊はどうせまたショータを傷付けるだけでしょ。美潮がダメならショータから意識させるのは? 「そんなワケないよ!」 「好き(ぴっぴ)に意地悪しちゃうタイプなんしょ」  ショータの傷んでプラスチックの紐触ってるみたいな前髪を直してハンカチで涙を拭く。オレが男だったらな。大神みたいに傍に居て、抱き締めて背中くらい摩れた。何の意味も持たせないように。 「笛木ちゃん」  ぬいぐるみとか近所の犬に抱き付くみたいに何の躊躇いもこだわりもなくショータはオレに抱き付く。使ってみたかったパパンと同じ安めのシャンプーの匂いがした。使ってみたけどオレの髪には合わなかった。それは個人のもので男女の髪質の違いの問題じゃないんだろうけどオレはそれが悲しかったっけな。ミントが入ったハーブみたいなグレープフルーツみたい匂い。せめてものプライドみたいなものでオレは結局色気もへったくれもない無難でも健康的な男女兼用どころか大人子供兼用のシャンプー。ママンはそんなのでいいの?って訊くけどオレとあーしの折衷案だった。思い出すとちょっと悲しいな。多分maybeショータが泣いてるから。 「ほら、泣かない、泣かない」  オレなら泣いていいんだよって言ってやれるけど。あーしはそんな性格(キャラ)じゃない。泣いてたら笑えって言うタイプ。相手が鬱病でもノイローゼでも喪中でも。 「能登島」  緋野しぇんしぇが来て、不純異性交友のことでも突っつかれんのかと思った。イヤだね、男女ってだけでこれだ。仕方(しゃー)ない。オレだって男女が抱き合ってたらそう思う。 「来い」  アイスマンは血相変えてた。緋野しぇんしぇの体には血が巡ってたんだ。半分の半分は同じ血か。槍が降るね。  緋野しぇんしぇはオレからショータを引き剥がして裏校舎に連れて行った。

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