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第10話

-星-  1人にしておこうと思った。俺ではあの子犬をどうにも出来ない。木の下で小さくなる姿が焼き付いたまま職員室に戻っても窓から目が離せなかった。笛木が子犬に走っていった。もう(ほとん)ど記憶にないくらい昔の俺の苗字で父親だけ同じ妹はあの子犬と仲が良いようだった。燈みたいだ。俺だけがあの子犬に近付けない。やがて子犬は飼主の親友にでも会うかのように笛木に懐く。尻尾を振って踊るように跳ねているんだろうな。そんな頭の悪い妄想に反して子犬は目元を拭った。背を丸めて。笛木が代わりに涙を拭く。脳味噌が破裂するようだ。俺は中庭に通じる階段を駆け下りて渡廊下の真下に出た。外敵を怖がる子犬みたいに笛木にしがみついている。付き合っているのか、そんな艶っぽさは一切ない。それでも冷静だったなら校内で男女がそう深く接触するのは不適切だと指導出来たはずだ。だというのに俺は意味もなく癇癪を起こした子供同然に2人を引き剥がすことしか考えられなかった。男女であるだとか校内であるだとか指導対象であるだとかそんなことはひとつも浮かばなかった。笛木が男か女か、子犬が男か女かなど考える余裕もない。ただ子犬を抱き締めているやつがいる、だから引き剥がす。それだけだった。笛木にしがみつく浅黒い手を掴む。笛木が親しげに子犬を呼ぶ声が聞こえるとさらに焦った。目的もなく、表校舎と2階渡廊下で日差しを邪魔されて日中でも暗く夏でも肌寒い西通路で手を放す。俺のだろ。真っ先に浮かんだくだらない思考を投げ捨てた。子犬は濡れた目で俺を見上げる。目元が腫れている。自然を逸らせなくなる。近付けば子犬は後退る。壁に追い込んでしまうと脅迫でもしているようだった。何か言わなければならない。しかし、出てくる言葉はどれも相応しくない。 「…校内で誤解されるような真似をするな」  教師として尤もらしい台詞は沈黙を伴った。潤んだ眼差しから逃げたくなる。すべて見抜かれていやしないかと恐ろしくなる。自分よりも10近く歳が下の、自分よりもまだ背の低い子犬に。 「…ごめんなさい…で、す」  唇がわずかに赤い。血が出ているらしかった。気付いた時にはもう遅く、触っている。大きな目が戸惑っている。俺は慌てて不躾に触れていた手を背へ隠す。 「切ったのか」  心配するほど大きな傷ではないのだろう。すでに乾いていた。唇の形に沿って少しだけ赤黒い。そういう唇の切れ方は見たことがなかった。指摘した途端に子犬は口を手の甲で拭いた。 「これは、違…ッ、」  子犬は俺以上に慌て、乱暴な力加減で口元を拭う。 「やめろ」  唇が荒れて歪みそうだ。俺の指で血を撫でた。落ちない。子犬の血でもなかった。そんなことはもうどうでもよくなっていた。ただ子犬の乾燥した唇に囚われてその他の何も考えられなくなった。 「緋野せん、」  耳の横の壁を殴った。骨に響く衝撃で気の迷いを払う。子犬が震える。妙な呼吸が聞こえると思えば俺自身のものだった。不安げな目が俺を見つめたままで、俺もこの子犬をどうしたいのか分からなかった。ひとつはっきりしているのはこの子犬をこのまま離せそうにないということだった。  怯えている子犬の腕を掴んで俺は理科準備室に引っ張っていた。1年の数クラスの理科総合も担当しているため鍵はある。職員室の前を通る時に掴んだ腕は少し力み、階段を上がる直前になって子犬は散歩を拒んだ。段差に跨る足を戻して振り向く。怖がっている。怖がらなくていい、少し話すだけだ。口にしようとしたがそれは燈だ。俺じゃない。肩から抜き取るように腕を引く。子犬の身体が傾く。 「わっ、!」  見た目よりも随分とすかすかして軽い上半身を受け止める。筋肉の反発より骨の硬さが目立つ。だが温かくて放すのが惜しかった。抱き上げて連れて行きたい。リュックや乳母車で犬を運ぶみたいに。 「ぐずぐずするな」  試したくなった。果たしてこの子犬は俺の後をついてくるのかと。俺ひとりで階段を上がる。踊場で振り返ってみる。小窓から差し込む明かりで子犬は輝いて見えた。神々しさも色気もない、ただただ幼く貧相な子供が俺を仰いでいる。ついてこない。両肩の張りが消えた。とはいえ心地のいいものでもなく。手招きでも、たった一言呼ぶのでも良かった。それが出来なかった。それは燈だ。俺じゃない。燈ばかりが成長して俺はまだまだ未熟者(ガキ)だった。手摺を叩く。まるで子犬のところまで空間が繋がってでもいるように発育を抑圧されているような肩が凹む。俺は何も言わない。見下ろすだけだった。子犬は小さく俺のもとへやって来る。傷んだ髪を撫でて褒めてみたくなる。余計な意地が邪魔をする。また階段を上がる。ついてこない。俺のことを見ているというのに。子犬の足が動きはしないか期待してしまう。段差を上がってきてほしい。どうしても。たとえ燈でもいいから。 「おいで」  子犬は俺に呆けた顔を晒したまま少し驚いた様子だった。笑ってはくれない。俺が燈じゃないからか。お前にとって俺は燈のはずだっただろう。失敗した。半端だった。燈にはなれない。俺は燈じゃなかった。燈も俺じゃなかった。俺と燈は違かった。子犬には燈でも、俺にとっては燈じゃない。わずかに戸惑う子犬の足が段差を跨ぐ。寒くもないのに戦慄いた。リードを付けて、俺の行く方向だけに来ればいい。  子犬が俺を呼ぼうとするのと同時に予鈴(よれい)が鳴った。本鈴まで5分。時間制限が俺の身震いしそうなほどの興奮を冷ます。 「付き合わせたな。戻れ」  子犬はわずかに混乱していたようだが、俺が教師として言うべきことを言うとすぐさま身体の向きを変えてしまった。 「あっ…えっと、緋野せんせ…この前は変なこと言ってごめんなさいでした…」  しかしすぐに教室に戻ろうとするでもなく首だけ俺のほうへ曲げて謝る。優しいから燈が好きだと俺に言った。燈に心を許して俺に懐いた。この子犬の中では俺は燈だ。優しくない燈なら俺になるのか。 「何の話だ」 「あっ…ぁ…えっと…」  子犬は顔を真っ赤にして大きな目を伏せる。燈が優しいから好きだと言った俺との明確な線引きを撤回されたようで、そう考えると訳の分からない不安を覚える。俺は燈じゃなかった。俺と燈は違う人間だった。その実感をこの子犬だけがくれる。俺の言葉どおりに俺から離れようとする子犬を掴む。首根っこを掴んだ。存在しない尻尾が丸まる気がした。俺は燈じゃない。少なくともこの子犬の前では。子犬の中では燈でも。 「緋野せんせ…?」  まだ血が付いている唇が鮮烈だった。その汚れはこの子犬のものじゃない。俺のだ。この子犬は俺のだ。 「せんせ、授業…」  情動を抑えきれなかった。燈のことばかりが脳裏を過った。初めてこの子犬の話を振った時のことだとか。俺はこの子犬にとっての燈だ。後頭部に手を回す。硬さのある毛先が指の狭間に入り込んでいった。鼻先が触れるほど近付ける。大きな目に俺が映っていた。だが子犬が見ているのは燈。俺は燈だ。その認識が俺は燈じゃないと知らせてくれる。 「あ、…」  触れ合った唇が少し動いた。初めてかと思うほどぎこちない。子犬だ。拙さに燃えてしまう。犬に愛らしい以上の感情を抱いたことはない。()してや街中で見かけるしなやかな背格好の女性に抱くような欲情など。何より俺は身軽で気紛れな猫が好きだった。こんな幼い、発育途上の子供にどうして俺が熱くなる。 「ッ…ん」  胸元に閉じ込めた硬い身体に反して口の中は冷たかった。奥に佇む舌を絡め取る。骨張った子犬の身体がさらに強張って萎縮している。小さな手が俺の胸に弱く指を立てる。 「っんぅ…ッ」  か細い声が漏れている。舌が落ちる前に拾い、先端に巻き付く。小刻みに震える子犬が崩れるまでそう時間はかからなかった。服越しでも骨の凹凸が目立つ背中を支える。軽い。片腕で抱き寄せた。鼓動が伝わる。少し速い。滑りながら下降して離れていく。まだ冷たい口腔を貪りたかった。暑くなってすでに汗ばんでいる。この子犬も。シャツがいくらかしっとりしている。境界が無くなるほど強く抱き締めたくなった。何かその先を欲している。何かを求めていながら何かを多量に与えたくなる。だがその正体が分かりそうで分からない。果たして俺に理解出来るものなのかどうかも分からなかった。 「……っんん、ぅ、ん…」  子犬は長く鳴いた。首からも力が抜け俺の掌が傷んだ髪の中に沈む。丁寧に一房一房ブラッシングしてみたくなる。まだ離せないでいる俺の胸を子犬の健気な手が這った。唇だけ解放する。虚ろな目が溢れるように潤んで揺れていた。数秒してから俺を見る。それから長くはないが濃い睫毛が伏せられ、また持ち上がる。唇が照って子犬には不似合いな雰囲気を醸し出していた。手離さなければならない。廊下の時計が軋むような音を立てて長針をずらす。本鈴を聞き逃していた。()うに授業は始まっている。 「俺に呼び出されたと言え」  教師としてあるまじきことだ。しかし建前でしかなかった。本音はまるで悪怯れていない自身に溜息が漏れる。まだ眠そうな目で俺を見上げる子犬の肩を叩く。 「緋野せんせ…」 「悪かったな。担当を調べて俺からも言っておく」  唇が疼く。荒れている。子犬のことを話した燈の柔らかな笑みがまだ脳裏に張り付いている。 -夕-  見るからに隣の席は苛立っていて、多分それはボク以外の他の人等も割りと敏感になってたと思う。ここまでこの授業で静かのは珍しい。この授業の教科担当は新米でちょっと変わり者。他人なんてどうでもいいか見えちゃいないってタイプの変わり者じゃなくて周りのことを気を付けよう気を配ろうとは思ってるんだろうけど空回りしちゃうような。生徒に怯えているようでもあって半端に威信を見せようとするから揶揄われたりもする。それでそれが分からないほどバカじゃないからより一層迷走してまた揶揄われて冷やかされる。昨年なんか意地の悪い優等生と同じクラスだったもんだから同じような感じの先生がノイローゼになってまだ復帰出来てない。今日は庇おうとしてくれる礁太がいないからどうなることかと思ったけど美潮の不機嫌が周りを牽制してた。物落とす音にさえも気を遣ってるみたいだった。自分の機嫌くらい自分で取れって話だけど厄介なことに美潮は多分自分が不機嫌ってことの自覚すらない。訊いてあげよっか、ボクが。今日は(わざ)とらしいくすくす笑いも聞こえない。 「しぇんしぇー」 「てんてー」  ボクは手を挙げた。授業中分かってても挙手なんかしたことないのに。でも声が被った。先生がこっち向く前に教室に礁太が戻ってくる。先生がこっちを振り返って礁太を目で追った。笛木ちゃんの手が降りる。ボクも手を下げた。 「やっぱなんでもないでーす」  礁太はボクを一度だけ見たけどすぐに先生のほうに駆け寄って耳打ちした。ボクの礁太が口元に手を当てて、先生が頷くのを待っている。ボクの礁太。ボクの礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太。美潮を横目で見てやった。ぼーっとしながらその目はただボクの礁太だけを見つめて、さっきまでの不機嫌は一気に消えた。自分の機嫌くらい自分で取れっての。自分で分かってないのは素敵なことだけどね。万年不機嫌みたいなものなんだし。憂鬱と鬱屈で美男子が割増しだね。  先生の元から戻ってくる時に礁太はボクを見た。それで少し抑え気味にボクの隣へ目を動かそうとした。結局ボクだけを見る。ボクの礁太。ちゃんとご飯食べた?また痩せちゃうよ。ボクの礁太の占める割合がこの世から減っちゃうよ。違う、そんなのは嘘偽りだ。痩せ細って骨と皮だけになって乾涸(ひから)びそうになりながらもまだ無理に笑おうとする姿が本当は見たい。腹の奥でじんわりした熱が広がのと同時に絞められるような心地がした。もう胃の中に入らないのに嚥下しきれないほど口に食べ物を無理矢理に押し込まれて嘔吐(もど)しかける姿まで浮かんで、吐き出さないように口を塞いで。可哀想だと思うのにちょっと気持ち良くなっちゃった。激太りしなよ。ボクがそんな妄想しないように。もっと前向きに痩せて欲しいと思えるように。美潮もそう思わない?なんてボクが美潮に視線を送っても、女の子たち稀に男の子が瞬息ノックアウトする目は礁太だけを見て、逸らしもしない。照れ屋で多感で周りからどう見られてるのか割と気にしてるイキったヤツだと思ってたけど鈍感なことで。それで純情だ。もしかしたら礁太と並べるほど。いや、ボクの礁太もあれで擦れてるところは擦れてるから、或いは礁太より。でも美潮はやっぱりそれにも気付かないんだろうな。

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