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第11話
-漣-
担任の説明が悪かったのかは分からないが母親は電話相手に怒り狂っていた。何かあるとこうなる。サッカーで転んだ時も、理科の実験で備品が割れて小さな切り傷を作った時も。さらに小さなことではお遊戯会の主役にならなかった、音楽会の指揮者にならなかった、クラブ長に学級委員に生徒会に…それが親として当然の反応なのだそうだ。立候補していないのに学級委員になっていた年もある。目立つことが最大の幸せで、責任 の上に立つのが最高の愉悦だとでも思っているらしい。だとしたら母親に従うのは間違ってる。歯向かえば父に話が行き、産んだ恩を得々と説かれるだけだった。自分たちで子作りしたことを忘れている。もしかしたら俺はコウノトリに運ばれてきたものくらいに思っているのかも知れない。恩などあるだろうか。産んで育てることは果たして恩なのか。トイレに産み捨てロッカーに詰め込まなかったことを感謝しなければならないのなら理不尽な税 だ。でも面倒で俺は壁越しにヒステリックな声を聞いていた。ただ電話相手 に構って欲しいだけだと俺は何となく知っている。専業主婦になってから母親の情緒不安定な態度は顕著になった。その矛先が俺の通う学校になった。俺が社会人になったらそう頻繁には行かない店へのクレームに変わるのだろう。父は飛び火を恐れて事勿れを貫く。そんなことはいいから勉強はしっかりやってくれ。それが父の答えだった。
ここで俺が出て行くと余計話がややこしくなるだけだった。母親の腹から出てきた時に同時に生まれた、無条件に親に感謝し尊敬し恩に報いらなければならない税を俺は傍観し肯定し払い続けなければならない。ただ。
『能登島くんなんかどうなったっていいでしょ!うちの渚沙ちゃんに何かあったらどう責任取ってくれんの!』
俺はドアを開けた。母親がクレームを入れるくらいにしか使わない固定電話は陶器のような質感で小洒落ていた。怒り狂っていた母親は口を閉じて目尻を下げる。
「能登島は悪くない」
「ま、まぁ…そう…」
「能登島を悪く言わないでくれ」
猫撫で声は聞き分けがいい。でもそれはただ俺との会話をやり過ごすためだけのものだった。この人が俺の母親だ。俺の血肉の半分だ。この愚鈍で浅はかで軽率な人が。父親も母親に頭が上がらない。婿入りだから。祖父の後輩だから。何より穏やかすぎる。
母親はまだ話を続けるつもりらしい。何を言っても無駄だ。俺のことは表面上すべて肯定してもすでに心の内は決まっているのだから。能登島が悪くて俺は全面的に被害者。本当は俺が先に能登島に手を出したのに。
『可哀想に!能登島くんに脅されてるんだわ!お家から近いからあんな偏差値の低い高校を選んだっていうのに!いいこと、金輪際うちの渚沙ちゃんを能登島くんなんかに関わらせないでちょうだい!まったくいくつ命があっても足りゃしないわ!』
能登島と関わらない。今までだってろくに関わっちゃいなかった。それでいて俺がすべて駄目にした。胸の奥が張って仕方ない。2時間近くに及ぶ苦情にもならない母親の自己満足がやっと治まった。受話器を置く音と溜息が聞こえた。見えない社会 に怒っている。実害などないくせに。学業生活で怪我をしたことない奴がどれほどいる。
「渚沙ちゃん!明日は学校はどうする?嫌なら行かなくてもいいのよ?」
リビングに居座る俺の元に来て母親は訊ねた。俺を休ませて担任に精神的な追撃をしたいだけだ。口も利きたくなかったが、俺はこの家に産まれて、食事も洗濯もすべて母親に頼っている。俺が家事に手を出すことは許さなかった。長男がやることじゃないんだそうだ。姉や妹がいなくて良かったと思う。
「いや、行きます」
この家に押し込められて母親の監視下に置かれるよりずっといい。たとえ能登島ともう関われなくても。
-夕-
礁太は肩を落として沈んでた。ボクは急かさないし待つ。礁太がボクの席に来てくれなくなった辺りから嫌な予感はしてるけど。美潮のことだね、間違いなく。だって休み時間のたびにボクを連れ出して、黙 りなんだもん。それでチャイムが鳴ってボクに謝る。ボクは礁太の肩を抱き寄せて、気にすんな、大丈夫 、オールオッケーって返す。ボクは礁太の親友だから。礁太…ボクの礁太。礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太、ボクの礁太…
また礁太は何も言わないでチャイムが鳴る。階段の隅に座ってどこをずっと見てた目がこっちを向いた。別に至近距離から礁太を見ていられるし、礁太がボクの片腕に収まってるから何の迷惑も負担もない。むしろ得なくらい。でも礁太の弱みに付け入ってるほうがさらに得だからボクはそれを明かさなかった。建前みたいに何の中身もない安っぽい気休めで無難に応えた。
「ホントにゴメン」
「だから気にすんなって。親友だろ?」
背骨ごりっごりの背中を撫で回す。ボクの礁太は痩せっぽちだ。心配になる。売れ残った菓子パンだらけの食生活、早朝バイトに曜日によっては放課後もバイト。親は呑んだくれて礁太だけが借金返済に奔走しているとかなんとか。
「うん…さんきゅ、サトちゃん」
ボクの礁太、礁太礁太礁太礁太礁太。このまま酷いことを言ってみたくなる。お前なんか親友じゃないよ、って言ったらどんなカオするんだろう?想像して、震える。苦しくて気持ち良くなる。泣いちゃったら背骨折れるほど抱き締めたい。ボクの礁太。もう予鈴 鳴ってるのに礁太はボクの胸元に収まって、なんだかカップルみたいだった。カップルか。礁太がボクとカップルになったらボクは礁太を殴って引っ叩いて首を絞める妄想に苦しむんだろうな。それでそれが楽しくて、本当に礁太を傷付けそうだ。今だって、罵ってみたくて仕方がないんだから。
隣の階段から音から人影が上がってくる。靴音はなかった。礁太を胸元に押し付けてボクは人影を睨んだ。緋野てんてーだ。相変わらずの冷えた目がボク等、っていうよりかは礁太を見ていた。
「何をしている」
アイスドールが喋った。礁太はビックリしたみたいで震えながらボクから離れた。
「もう予鈴が鳴っている。教室に戻れ」
どろっどろに溶けた濃厚ミルクバニラみたいな声は同性のボクからしてもイケてると思う。イケボってやつ?顔が良いやつは大抵声か性格はダメだと思ってたけど、アイスドールは顔と声とスタイルは所持 してるんだもんな。あと頭脳 。しかも公務員なんて最高じゃん。中年肥りさえしなきゃ老けても渋おじで留まりそうだし。
「へ~い」
ボクも緋野てんてーの後に続こうとしたけど礁太は固まったままだった。ボクの制服掴んで、項垂れて、「礁ちゃん?」って呼んだら首を横に振った。何か否定するときの動きだった。ムリって意味でヤダって意味だ。礁太がナーバスになってる一件には美潮の他に緋野てんてーが関わってるみたいで、あんまり想像つかないけど怒られたりしたのかな。それで緋野てんてーの授業怖いとか?ばっくれちゃうかな。テストの点数は良いほうだし。でも礁太は、赤点じゃん…?内申点に響くでしょ。
「ダメっぽい?」
「…だいじょーぶ。ゴメン」
あんまり大丈夫そうな雰囲気じゃなかった。教室に戻るとみんな席に着いていた。教壇の緋野てんてーは名簿開きながら無言でボクと礁太を目で追っていた。本鈴には間に合ったのに。腰を下ろしたと同時にチャイムが鳴った。緊迫感で私語も許さない静かな教室にこれまた静かな緋野てんてーの「出席を取る」って声が響いた。
授業はいつもどおりだったのに演習問題出された5分間、緋野てんてーはやたらと礁太のことばっか見てた。気付いたのボクだけだと思うけど。問題すぐ解けたし。それで余裕ぶっこいてたのバレて解くように言われて、解の自信はあるけどこのクラスでは低成績 じゃないとダメだからわざと違う解にして訂正を食らう。自然に間違わなきゃならないからそっちのほうが正解するより難しい。ノート見せろとか言われなくて良かった。
「ノートを見せてみろ」
教壇から降りようと思ったら緋野てんてーはまるでボクの内心を見透かしたみたいにそう言った。嘘でしょ、マジか。ノート広げて緋野てんてーはアイスドールのくせにちょっと疑わしげな目でボクを見る。赤いボールペンで丸付けられて、それがなんか牽制とか威嚇に思えて仕方なかった。なんで黒板で間違ったこと訊いてこないのかとか、ボクだって疑わしい。
「この間違い方はありがちだ。他の生徒のためにもなったと思う。ありがとう」
緋野てんてーって嫌だな。怖すぎ不気味すぎ。ボクはノート引き取ってとっとと席に戻った。ボクの隣の人だってもう大分余裕で問題解き終わってるのになんでボクなのさ。どいつもこいつも礁太を見てる。ボク含む。当の礁太は髪掻いて意外と真面目に問題解いてた。
-星-
普段なら10分もかからない朝の職員会議であの子犬と美潮の話題が挙がった。保護者の強い意向であの子犬と美潮を近付けさせないよう留意しろという話だった。そのためなら多少強引になってもいいらしい。C組の担当教諭の畏った長電話に合点がいく。子犬への説明は俺からするように頼まれ、担任や副担任からでは互いに気を遣うことになるのは容易に想像がついたため承諾した。担任や副担任から話すのが筋なのかも知れないが、あの場に居合わせた俺も無関係というわけではなかった。
朝のホームルームが始まる前に少し遅刻気味だった子犬を玄関で捕まえた。子犬は大きな目で俺を見上げて取り乱していた。俺はこの子犬に教師としてあるまじきことをした。その自覚はある。ただ罪悪感だけがどうしても生まれない。すぐに話を終わらさなければ或いはまたやりかねなかった。犯罪だ。ネットニュースにも週刊誌にも載るような。用件を簡潔に伝えても子犬はまだよく理解していないようだった。それはそうだ。全面的にこの子犬が悪いことになっているのだから。そのことを俺は事細かく説明はしなかったが、美潮とは話すな・近付くな・関わるなと言えば大体察しはつく。この子犬と美潮には間違いなく何かあった。どちらかが必ず100悪いという話ではないだろう。しかしどちらもそのことを話はしなかった。
俺の話を聞き終えた子犬はただでさえ俺に呼ばれて青褪めていたというのにさらに真っ青になってもう返事も出来なくなっていた。お前は悪くない、と一言掛けてやれたら良かったのかも知れない。学校側もそれは分かっている、と。その選択は確かにあった。だが言わなかった。
「困ったら俺に相談しろ」
ここは担任や副担任に相談させるのが筋だ。しかしこれもまた言わなかった。担任や副担任は美潮とその保護者の対応で手を焼くことになるだろう。何よりこの件に関してこの子犬に説明したのは俺だ。
予鈴が鳴った。子犬はただ窓から入った日差しで白く照る床を凝視していた。骨っぽい肩を軽く叩いてやる。大きな目はゆっくり振り向いて俺を見る。輝いた目に俺が影絵のように映っている気がした。息を忘れてそれを覗こうとした。子犬の眉が悩ましげに歪んだ。子犬らしからぬ艶っぽさを掴み取りたくなった。傷んだ髪を抱いて俺は子犬を胸板に押し付けていた。自分の行動が信じられなかった。コンタクトレンズが乾くほど目を見張った。驚きに反して開き直っている腕は子犬を放す気配もなかった。むしろ両腕で閉じ込めてさえいる。心臓の鼓動が破裂するほど速くなっている。硬い。わずかな肉感に燃え滾る想いがした。指が入る浅い弾力に狂いそうになる。
「昼休みに理科準備室に来い」
何をする気なのか俺自身分かっていなかった。この子犬を自分の管轄下に連れ込んでどうするつもりだ。こんな幼い子供を。胃が痛む。腹が減っている。だがそれは食欲じゃない。この子犬を齧って呑み込んで腹に収めたいとは思うくせに。
チャイムが鳴る。離さなければならない時間だった。教室まで子犬を送った。C組担任と目が合った。俺は会釈して子犬を教室に戻す。頭がおかしくなった。俺が俺じゃなくなってしまう。かといって燈でもない。犯罪者だ、俺は生徒に手を出した性犯罪者だ。未成年のあんな子供に。C組の授業までには頭を冷やし、平静を装う必要がある。姿さえ見なければ俺は俺でいられる。逃げるように職員室へ戻った。下腹部に熱が籠って逃げ場を探し、喉は焼けるほど渇いていた。ただ爪先と指先は冷えている。あの子犬が恐ろしくなる。寒気がした。その反面身体の中心は燻ってはまた熱を持つ。どうしても目蓋の裏に焼き付いた子犬の目の輝きと濡れた唇に呼吸が浅くなり、満足に息も出来なかった。
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