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第12話

-漣-  能登島とは距離を置くよう担任から話された。距離を置くだなんて随分と婉曲(ごまか)した言い方だ。要するに関わるな、二度と問題を起こすな、母親に苦情を入れさせるな、面倒事を起こすなって話だ。担任は俺が能登島を本当に怖がっていると思っているらしかった。母親の言葉だけが重くて弱者(こども)の俺には何の自己決定権もない。仕方ないことだ。母親のあのヒステリックを俺だって傍で聞いていた。二度も三度も聞きたいものじゃない。大人の社会が分かっても頷くことは出来なかった。  休み時間のたびに大神が能登島と教室を出て行く。空いた席を見つめてしまう。いつもなら俺の隣に来ていたはずなのに。すぐ隣で声を聞けたはずなのに。手は勝手に朝下駄箱に入っていた手紙を開け、字を見るだけみてまた封筒にしまった。中身はまったく入ってこなかった。以前なら中身を見る前に捨てていた。中身は大体、好きとか付き合いたいとか仲良くなりたいとか友人のフり方が気に入らないとかそんなものだった。態々(わざわざ)読む必要(まで)もない。それでも開ける気になったのは。人の好意を無駄にするなよ、なんて妙に真っ直ぐな眼差しと声が時間差で俺を叱りつけるからか。封筒を暫く眺めた。家のトイレに充満するペーパーと同じ香りがする。花みたいな匂い。 「意外とモテんじゃん」  机に鼻から上を出して笛木がいた。揶揄うような能登島とはまた違う形の大きな目が俺をわざとらしく見上げた。 「意外とってゆーか見たまんまか」  笛木は俺を上目遣いで見続ける。なんも言ってこない。かといって俺から口を開く気も起きなかった。 「ショータ、ヤバいね」 「は?」  すかさず反応してしまった。まずいと思うと同時に笛木はいやらしくにやにやと笑った。 「嫌いンなった?」  冷やかすような緩みきった顔はすぐに引き締まる。そんな表情(かお)もできるのかと感心していた。能登島の話じゃなかったら。 「…元々、」 「好きじゃないだなんて言わせないから」  睨まれる。女って睨むのか。それはそうか、眼の構造なら男も女もそう変わらない。笛木は怖い顔で、俺は返す言葉もなくなる。笛木の言う「好き」は漠然とし過ぎている。能登島に対して激しい嫌悪とか怒りが湧くなんてことはない。それなら好きということか?嫌いか好きかの二項目一対。単純な笛木ならそう区別しかねない。俺こそ、何故その中間がないだなんて思った。どうでもいい奴なら、どうして耳に残る。傷付けたかなんて気にする。会いに行こうだなんて思った。名前を出されるだけで焦る? 「あんだけお熱い目で見といてさ。チップ払えっての」  笛木は立ち上がった。歯茎から傷みそうな甘い菓子みたいな匂いがする。 「あーしはこんなの許せないかんね。お節介はシュミだから。あとはあーた次第だよ、みっしー。あーしはみっしーがショータのこと嫌いンなったとは思えないし」  能登島のことは、別に、俺は… 「まだ好きじゃないとか言ってショータのコト傷付けんならあーしだってただじゃおかない」 「そういう笛木は能登島のこと好きなのか」  好きだと答えるはずだ。笛木は能登島同様に単純だ。それ以外の答えはない。これだけ執拗に絡んできておいて、普通だの嫌いだの苦手だのなんて返答があるはずない。分かりきっている。それでも即答じゃなかったことは意外だった。待てど待てど、俺の予想の数十倍かかっても笛木は答えなかった。いや、0秒くらいで答えると思っていた。 「あーしが答えたら変な意味になるでしょ」  ゲラゲラ馬鹿笑いばかりしている能天気で底抜けに明るかった笛木の目は挑発的に俺を見ていた。緩急のある笑みは口角を吊り上げ、笛木には似合わないひどく陰湿な感じがあった。 「あーし、みっしーって大っ嫌ぁい。でも頑張ってよ、ショーターのことは大大大好きだから。あーしショータのコト、大好(だぁいす)き」  抑揚のない話し方で笛木は肩を竦めた。俺に背を向けて表情は見えなかった。来るものは拒まず、去るものは追わず。過ちは次には忘れ去る。裏表がなく、快活で、分け隔てはあれどあしらうことや無視することはない。祟りがあっても神に触るような。「義を見てせぬは勇無きなり」を好奇心から地でいかせるような。クラスで見せる笛木の態度や表情が途端に薄ら寒くなった。俺が思っている以上に嘘臭く胡散臭く、底意地が悪い。笛木の中にはきちんと軽蔑や嫌悪や計算の概念がある。 -雨-  ショータが凹んでるんじゃないかって思って玄関の近くで待ってた。でもショータのこと待ってたのはオレだけじゃなかった。ショータはオレのほうには気付かないで、耳の裏側で囁いてそうな声で緋野しぇんしぇに呼ばれていった。緋野しぇんしぇはショータのこと苦手っぽかった。懐いてるから?緋野しぇんしぇって懐かれるの苦手そうだし。寄ってきたネコとかイヌとか、足で避けてそう。でも意外とメスの仔猫と暮らしてそう。気持ち悪い会話一方的にしてさ。女子たちがまだ結婚してないとかって騒いでたし。でもまだ20代じゃん?確か。30入ってるんだっけ?絶対モテないって、あれは。見てくれと声がいいだけじゃん?緋野しぇんしぇとついでに美潮にメロメロな女子の諸君、あれがいいのは若いうちで、結局は仕事も浮気も口も上手い男がモテて家庭なんか持っちゃって、出世して嫁の大切さに気付きつつもボケる間もなくぽっくり逝くんだから。他人の結婚なんて心配してる場合じゃなくね?だって緋野しぇんしぇがショータに美潮と関わるなって言った。そんなの聞いたらちょっと現実逃避しちゃうって。しかも緋野しぇんしぇがいきなりショータのこと抱き締めはじめたら誰だってフリーズする。ショッキングピーポーギガマックス。なんで?緋野しぇんしぇマジ?頭の中は真っ白だった。でも予鈴が鳴ってこっちに来ると思ったから逃げるみたいに教室に戻った。緋野しぇんしぇとショータってデキてんの?オレそういうの、AVとかなら割りとアリだと思ってるけどマジならヤバくね。未成年淫行(ロリコン)じゃん。いや、ショータは幼女(ロリ)じゃないけど。女児(ロリ)みたいなもんでしょ。教師と生徒ってところに燃えちゃった?オレもうまともな目で緋野しぇんしぇのこと見れないんだけど。一応、腹違いの兄なのに。ってゆーか兄弟揃ってショータのこと気に入っちゃうとかホント…頭抱えたくなる。あれもこれも美潮がのんべんだらりしてるからだ。青春なんてクソ食らえ!みたいなツラして思春期真っ盛りのイキり根暗拗らせた美潮がちんたらしてっからこんなことになる。学校のイスより固いところ座ったことありませんみたいな小さなケツ叩かないと。 ――でもあの腰抜けは日和見(ヒヨ)った。しかもオレのこと煽ってさ。イキり陰キャってだから嫌い。理科準備室にはオレが行く。ショータのこと好きで仕方ないって目で見ておいてさ。そんなことも分からない?自分のことなのに。勉強ばっかのバカ。もうショータのこと目で追うのやめたらいいのに。好きじゃないなら。元々腫物(ふきでもの)みたいな腰抜け野郎がもっと厄介な事情背負(しょ)い込んでクラスはギスギスするだろうな、これから。ショータが居心地悪い思いするならオレは頑張るけど。だって先生(しぇんしぇ)日和見(ひよりみ)イキり腰抜け陰キャの味方なんだから。家族がエラい人だか何だか知らないけど。それでもオレは、オレがオレとしてショータと付き合うなんて出来るワケないんだから、あの腰抜けにショータを任せたかった。そしたら諦められるから。暗いけど。顔も頭もいいから。男の肉体(カラダ)で生まれてさ、背も高くて。絶対勝てないから。悔しいとか羨ましいとか思える隙もない。あの腰抜けには一生分かんないことだし、多分あの腰抜けにはフツーのことなんだろうけど、ショータのこと好きなのかって、ヒドいよな。オレは女体(おんな)でお前等は男。オレとショータは女体(おんな)と男。フツーのことだよ、美潮(オマエ)認識(なか)じゃ。 -星-  後悔していた。だが勢いのまま呼び出したのは俺だ。何度目になるのかも分からない溜息を吐いて理科準備室で待てども待てども結局子犬は来なかった。残念に思いながらも安堵もあった。子犬を見ると自分でも何をしてしまうか分からない。何故理科準備室がに呼んだのか、ここに呼んで何をする気だったのか今では想像も出来ない。改めて考えることも避けようとしている。向き合いたくもない。その奥に不安があることを知っている。落ち着かなくなる。精通を迎えた時と同じような、重苦しい感じだ。平然とアダルト雑誌を開く同級生たちから離れたくなった時の気分によく似ている。燈はどう思うだろう。燈とでさえそんな話は出来なかった。俺は燈にも、燈は俺にもそんな話はしない。非日常的な不安に襲われるから。ただ身体が限界を訴えれば、偶々街で見かけ、目を引いた長い髪の後姿やしなやかな脚などを思い出して行為に没頭した。もうそこまでくるとあの不安が入り込む余地はなかった。溜まりきった欲の解放にばかり躍起になってしまう。だが今は、ただただあの子犬の顔を見るのが怖い。俺が俺でなくなる。燈でいようとするたびに爆発しそうになる。燈ならあの子犬を見守るはずだ。触れることもせず、黙って見ていられるはずだ。俺は違う。燈になれない。あの子犬の髪に触れたくなる。肌を(はじ)いてみたくなる。あの鼈甲飴の中に映りたくなる。腹の奥から熱いものが込み上げた。空腹に似ている。喉も渇く。水を浴びたい。あの子犬が怖い。俺は俺を信用出来ない。予鈴が鳴る。子犬は来ない。俺は角張った木椅子から腰を上げる。蜘蛛の巣の張った備品が目に入る。小さな頃好きだった学校の七不思議に出てきそうだ。部屋の隅の人体模型も俺を嘲笑っているみたいだ。あの子犬の前でさえ燈になれない俺を。叱ってくれ。枕元に立ってくれ。燈がいなければ何ひとつ、俺の自己の確立もできない俺を。ふと、旅行に行くと言って帰って来なくなった父親のことを思い出す。雨が降ったから傘を持って駅まで行った。待っても待っても、バス停からも改札からも父親は現れなかった。あれは大人の事情というやつで、俺たちの意向なんて何ひとつ聞かれず、父は俺の父親ではなくなった。燈が迎えに来て、お袋には叱られた。苦い思い出に浸りながら職員室に戻るつもりでいた。理科準備室のドアに手を伸ばす。手動だったはずだが俺の目の前で蹴破られたように開いた。 「緋野せんせ、」  入ってきた子犬の姿に俺は自制心を失った。勢いのまま軽く硬い身体を抱き締めていた。背骨を折るほど、俺の胸を潰すほど、抱き締めてもまだ抱き締め足らなくなる。熱い。苦しい。呑み込んでしまいたい。それでも両腕には確かに子犬の感触がある。訳が分からなくなる。チャイムが鳴ったが、それは俺をわずかにでさえ冷静にさせてはくれなかった。 「せんせ…?あの、」  無邪気に動く唇に堪らなくなって噛み付いた。下腹部が膨れ上がり感じがした。全身は様々な情報を処理しきれずに震えた。鳥肌が立っている。汗ばんでいるくせ寒い。 「んぁッ」  ドアは開いたままだった。周りを気にするべきだ。ここは学校で、俺は教師で、彼は生徒で未成年だ。 「ァ、…んっン」  口の中は冷たく感じられる。俺の身体が熱くなっているから。力強く捕まえているせいで子犬に身動きひとつ取らせてやれない。 「ショータに何してんスか」  頭の中から血が一気に引いていった。唾液の糸を引いて唇が離れる。腕に子犬の重みが掛かった。 「ま、どーでもいーっスけど。あーしそーゆーの、気にしないし」   腹違いの妹。それでも他の生徒と大した線引きはなかった。本当に妹なのかも俺には信じられなかった。 「ふ、ぁ……笛木ちゃ…」  俺の腕の中で子犬は身を捩り、逃げようとする。一生徒に、腹違いの妹に見られたことよりもそのことのほうが俺には重大な事柄だった。拾い上げるように子犬の身体を閉じ込める。行かせない。渡さない。離さない。血縁者だろうと、クラスメイトだろうと。 「緋野、せ、ん…っんん、っ」  後頭部を掴んでもう一度口付ける。誰に見られようが構わない。 「ふ、えきちゃ……ぁっ…」  舌を挿し込む直前に泣きそうな声で子犬は女生徒を呼んだ。俺の腕から、陽だまりでよく遊んできたような温かな身体が擦り抜けていく。離したくない。行かせたくない。 「返してください。ショータ、行こ」  女生徒は子犬を連れて行く。俺は閉められたドアを見つめていた。水色のペンキが塗られた木目を辿っていると父親を迎えに行ったあの日がまた蘇った。お袋は俺の頬を張って、父親が帰ってこないことを嘆いた。燈はお袋を宥めて、もう父のことを話したらいけないのだと肝に銘じた。多分燈の前であっても。

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