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第13話

-漣-  本鈴(チャイム)が鳴ってもあの席は空いたままで、ギリギリになって戻ってきた大神はいつものように後頭部に両手を当てて背凭れに身を預け、能登島は緋野に呼び出されたことを告げた。大神に見抜かれたことと緋野に呼び出されたことの両方に俺は言葉にならない言葉を吐きそうになって寸前で呑み込んだ。おそるおそる大神を見たと同時に教室に笛木と能登島が戻ってくる。笛木に妙に近い。喉元が締められているような感じがした。能登島はぼんやりした呑気さに不穏な感じを帯びて、笛木の腕に掴まっている。笛木と能登島はそんな関係じゃないはずだ。笛木は能登島を大好きだと言ったが、それは俺が向けられてきたものとは違うはずだ。雰囲気も、声も、何より目の開き方で分かる。何人見てきたと思ってるんだ。何人、何十人、何百人と見てきた。少しずつ、分かってくる。笛木は能登島をそういう意味じゃ好いちゃいない。俺が、そう信じたいだけかも知れない。 「礁ちゃんと何かあった?」 「…別に」 「そりゃ良かった。それなら近いうちに礁ちゃんの落胆(きげん)も治りそうだな~」  俺は大神のほうを見られなかった。本当は知っているんじゃないのかとか、探りを入れているだけなんじゃないのかとか、本当に知らないのかとか、疑問ばかりが浮かんだ。 「ああ見えて案外礁ちゃん、美潮きゅんのコト好きだからさ?」  三白眼と目が合った。途端に大神はへらへらと笑った。能登島。好き。目を逸らす。 「冗談だって。本気にしないでね」  本気にするわけない。 「…当然」  自分で答えておいて胸を絞られるような思いがした。深く息が漏れる。見つめていた席に能登島が笛木に支えられながらよろよろ座る。どこか痛めたのか、それとも具合が悪いのか。俺の所為か。緋野に呼び出されたと大神が言ったばかりだ。能登島は身体から力が抜けたように机に伏せていた。今は気怠くて無防備だが、教室に入ってきた時は、嫌がる能登島に俺が無理矢理キスした時みたいな妖しさがあった。まさか緋野に、俺みたいに…………まさか、そんはずはない。緋野は教師だ。リスクを犯して生徒に手を出すとは考えづらい。ニュース番組に出るような事件だ。見ていられなくなって能登島から視線を外す。それでも少しすればまた能登島の後姿ばかりを見ていた。シャツの皺、髪を掻く仕草、溶けたように姿勢を崩す背中。少し硬く動く左手とペン。声を聞きたい。無邪気に呼ばれたい。俺は前髪を掻き上げた。溢れる欲が止まらない。静かにしろ、騒がしい、落ち着いて行動しろ。沢山要求した。でも能登島への欲望はそれ以上に多く強い。クラスメイトに向けるには不合理だ。同性に向けるには相応しくない。得体の知れない感情に炙られる。これは苛立ちや怒りなのかも知れない。息が浅くなる。能登島の名を呼んでみたい。俺のほうを向け。俺を見てくれ。俺に笑いかけてくれ。都合の良い妄想だ。俺が能登島を深く傷付けたのに。  放課後になって手を洗う能登島に近付いた。怖くもある。何から話そう。弁解するか。ただ今このときの苦しさから解放されたい。能登島のことばかり考えるのをやめたい。焦ってる、俺は。でも能登島は呼ばれる前に俺に気付いた。蛇口を捻った浅黒い手が濡れている。その肌が温かくてしっとりしてることを俺は知っていた。焦る。でもこの場面を間違えられない。何から話そうかも決められてなかった。感情のままに取り返しのつかないことまで口にしてしまいそうで。俺が求めたとおりに大きな目には俺が映った。目が合った時間はほんの一瞬にも満たなかった。部活に行く前の能登島は驚いた顔をして走り去る。何と説明されたのだろう。俺は能登島を責めるつもりなんかない。責められるとしたら俺のほうだ。二度も無理矢理キスした。痛くて苦しくて甘かった。凝り固まったものが溶けていくみたいだった。悔いはない。能登島を傷付けてしまったことを除いては。 -夕-  ボクは放課後にボケ~っと散歩してるのが好きだった。週3である美術部に誘われたりとか廃部すれすれの華道部に誘われたりしたけど、帰宅部なのに帰宅もしないでぶらぶら校内を散策するのは楽しい。日が沈んで、校庭に怒声が響いて、校舎からは吹奏楽器の音がして、裏校舎の端からは軽音部の演奏。慌ただしく帰る波に逆らうのも、まだ決まりの中で過ごす列を眺めてるのも、なんだかボクは取り残された感じがして、優越感ていうのか、傍観者っていうのか。自販機で買ったそこそこ健康的な甘いフルーツジュースの肴にしてさ。 「サトちゃん」  玄関前の共有スペースで肘付いて中庭を見ていたら部活に行ったはずのスポーツウェアにハーフパンツの礁太が何かから逃げてくるみたいに大慌ててボクのところに来て、そのまましがみついた。 「どした~?部活遅れちゃ~うぞっ」  礁太はボクの腕を掴んで頭をぐりぐり擦り寄せる。ボクの礁太、ボクの礁太、ボクの礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太礁太。ボクに甘えてるんだ。 「やっぱちゃんと、話す…」 「うん?うん」  礁太はボクのシャツを掴んでいた。膝小僧に絆創膏が貼ってある。転んで擦り剥いたのかな。押してみたくなった。保健室連れ込んで、消毒液に浸した綿を当ててみたかった。礁太の血で白い綿が染まって…礁太は傷が沁みて、痛がって。鋭いピンセットは汚れた綿を摘んだまま濡れてる傷を向いていて…鮮明な妄想が広がってボクはぶるっと震えた。可哀想になって苦しくて、元気そうな礁太に安心しながら残念にも思う。 「オレね、もう美潮とは一緒に居られないんだ」  急な話題だとは思ったけど、特に驚く話でもなかった。そうなるかもってのは容易に想像できた。だって美潮って腫物じゃん、正直。美潮を受け持つ教師とか毎年毎年嫌だろうなって思うもん。母親もなかなかのモンスターペアレントだって聞いたことあるし。誰からだっけ?忘れた。 「そうなん?」  でもボクは知らないフリしておいた。そのほうが色々聞けるし、何より、そんなことボクが容易く推測できちゃ拙いでしょ。知らないフリ、分からないフリ、気付いてないフリ。これが一番。まだしがみついてる礁太をボクからも受け入れる。何があっても礁太の味方だよって。妄想の中でも痛いことしちゃった罪悪感も少々。 「美潮のお母さんがすごく怒ってるんだって。先生たちも協力するからもう美潮とは関わるなって…」 「うん、そっか」 「みんなにはナイショにしてて。気、遣わせるから…サトちゃんも美潮と席近いけど、気、遣わないで。オレ、全然気にしないから…巻き込むみたいで、ゴメン」  ボクは生まれた時から、生まれた時は言い過ぎだな、受精卵になった時から、これも言い過ぎだな、父親の袋の中で発生した時から、礁太に逆らえるはずないって刻まれてるんだよね。 「ボクはボクの好きなようにやりますって。だから気にすんなって。それに多分、普段(いつも)どおりだろ?」  そもそも美潮が誰とも関わりたがらないんだし、口開けば礁太に対する文句という名の自己顕示(しゅちょう)ばっかりなんだから。しかも自覚無し。 「…うん。そうだよね、いつもどおりのことだよね。ビックリしちゃって、オレ…やっと言えた。よかった」  まだ礁太の表情は晴れなかった。痩せてるクセにもっちもちしてる頬っぺ摘んでやった。 「あんま深刻に考えなさんな。誰が何と言おうとボクはいつもどおり、礁ちゃんの味方だからさ」  味方だとか敵だとか多分礁太はそういうの嫌がると思うけど。 「ゴメン、サトちゃん邪魔しちゃって。話せて、ちょっと楽になった。ありがと」 「気にすんなって。あとは帰るだけなんだから」 「もうそろそろ行くね」  共有スペースの腰掛(イス)真後ろにある玄関とを隔てた廊下に礁太を送る。視界の端、廊下の遠くに美潮が見えた。暗い影の中で真っ黒く塗り潰されてる。体格(プロポーション)は美潮に間違いなかった。追ってきたんだ?礁太のこと。それで礁太は逃げてきたんだ? 「礁ちゃん」  もう行こうとする礁太を呼び止めた。耳元にボクは口を寄せた。 「いってらっしゃい」 「う、うん!行ってくる!」  いきなり顔を寄せたボクに少し礁太は戸惑っていた。しかもありがちな会話だし。礁太は飼主大好きな犬が捻挫するほど尻尾振るみたいにボクに手を振った。階段からその細い背中が消えるまでボクも手を振り続けて見送った。片足引き摺ってる美潮が近付く。 「そろそろ帰り?手、貸そうか」  美潮は眉間に皺を寄せてボクを睨んでいた。どうせそれも無意識なんでしょ。 「今、礁ちゃん見送ってたとこ。なんか落ち込んでてさ。なんでだろうね。可哀想だな。礁ちゃんが元気ないとクラスもなんか暗いしさ」  訊かれてもいないのにボクは語った。敢えて美潮が気にするようなことを。CGみたいに綺麗な顔が少し伏せた。ゲジゲジみたいな長い睫毛がなかなか綺麗だった。これはモテるね、そうだな、30手前くらいまでなら。 「俺は、…別に…」 「早く元気になってくれるといいケド」 「……そうだな」  意外な反応にボクは美潮を見ちゃってた。美潮は相変わらず下等生物(バカなやつ)とは目も合わせたくないって感じに顔を目を伏せてた。苦悩する美少年、悪くないんじゃない。そのまま彫刻にでもなっておけよ。 -星-  職員室はまだ落ち着きがなかった。そのうち美潮の話題が上がり、彼の転落"事件"については双方に注意をしてもまだ悩みの種らしい。美潮の保護者の苦情の電話だけで2時間近くは奪われる。俺は特に気にしないでいたが、美潮と能登島双方の仲の良い友人にも協力するよう話してはくれないかと相談を持ち掛けられ、一度は断ったが担任教諭と副担任の疲弊ぶりを見ると了承せざるを得なかった。大人の事情に関係のないクラスメイトまで巻き込むつもりなのだ。美潮と仲の良い友人はすぐに思い浮かばなかった。あの子犬と仲の良い友人は大神と思われるが、大神は美潮の席の隣だ。彼が板挟みになる。出る必要のない赤点補習に参加したり、正解している問題を故意的に間違えたり、クラスでも高得点を取っているのに赤点を詐称したり不可解な点が目立つ妙な生徒だったが、果たしてこの板挟みにはどう応じるのだろう。  C組に寄る途中の廊下で探していた大神はすぐに見つかった。中庭の奥の渡り廊下の少し上には夕日があった。 「大神」 「お、緋野てんてー。ちわ~っす」 「ああ、ご苦労。話がある」  C組はすでに空いていた。二者面談のように適当な席を向かい合わせて大神を座らせる。大体の生徒はこういう突発的な面談に怖気付くものだった。だというのに大神は堂々としている感じがあった。口元こそ剽軽な笑みを浮かべているが、むしろ教師(こちら)を詰りたいというような雰囲気さえある。 「何故、呼ばれたか分かるか」 「面倒臭いカノジョみたいな訊き方じゃないですか。そうですね、ボクの進路が危うい、以外に思い当たる節がありません」  あの子犬とはまた違う、媚びながらも人懐こい笑みで俺を見て答えた。その目には軽蔑の念があるようで仕方ない。 「訊き方が悪かった。単刀直入に言って、美潮と能登島のことだ」 「あ~、あれですか。仲は悪くないと思いますよ。完全に事故ですね。美潮くんはそう思ってないみたいですけど」 「何か知ってるのか」 「何も知りません。ただ礁ちゃ…能登島くんは怒りに任せて誰かを突き飛ばすなんてことはしませんよ。もし故意だとしたらやむを得ない事情でもあったんじゃないですか。生憎ボクには想像もつきませんが」  大神はすらすらと用意された言葉をそのまま並べたように話した。友人として庇っている、知らない者からすればその節もなくは無い。 「その話はもう片が付いた。そうではなく、その次の話だ」 「能登島くんが妙に美潮くんによそよそしい(こと)ですか?美潮くんについては元々クラスでは浮きがちですケレドもね」  すでに話を聞いているのだろうか。大神の表情からは何ひとつ読めない。軽快に笑っているように見えて、この生徒は気難しいのかも知れない。 「大神に協力してほしいことがある」 「ドッキリ仲直り大作戦とかですか」  八重歯の見えた口角が下がっていく。冷めた眼差しが俺を挑発しているようだった。 「…美潮と能登島が関わらないよう、立ち回って欲しい」  口にした途端、生徒に何を言っているのかと思った。いじめをするな、仲良くしろ、喧嘩をするな。口酸っぱく指導するのが教師だろう。それを、2人の関係をさらに引き裂くように企てるなど。 「それって教師(てんてー)の言うことですかね」  返す言葉もなかった。 「水と油は混ざり合いませんもんね。ところでニワトリはいじめが始まったら、それはそれはもう悲惨なもので、いじめた個体、いじめられた個体各々を別の檻に入れるしかないそうですよ、専門家じゃないので曖昧ですが。つまり同じクラスの中で隔離すればいいんですね。いわばボクが檻になれば?」  口調は軽かった。しかし深く激しい侮蔑がそこにはあった。俺は教師だ。生徒をニワトリとして見たことなどない。理性ある人間として見てきたつもりだ。

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