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第14話

-月-  (ひかり)はかなり疲れた様子で帰ってきた。食欲もあまり無いらしく、箸は進まない。それとも気に入らなかったか。そろそろ身体も若くない。トマトサラダと豚肉の塩麹焼きとオニオンスープにしてみたが、これからは納豆や卵かけごはんにひじきサラダ、豆腐とわかめの味噌汁などがいいのだろうか。珍しくコンタクトレンズを外しておれとは違う色の眼鏡を付けている。おれが黒染めしないで髪整えて眼鏡を掛けたらこうなるんだろう、と少し物珍しい気分になった。輝は風呂に入るまでコンタクトレンズだから、眼鏡になる頃には整えた髪は少しおれより短いくらいでほとんどおれと変わらない。 「ニワトリのいじめって知ってるか」  豚肉の塩麹焼きを見下ろして輝は帰ってきてから二言目か三言目かを口にした。 「知らない」 「俺も今日知った」  ひどく落ち込んだ様子で輝はカットした豚肉を齧っていく。今時の高校はニワトリを飼育しているのだろうか。小学生の時までおれたちの学校にもウサギやシャモはいた。輝の勤めるところは農芸高校や畜産科のある学校ではなかったはずだ。 「どうして?」 「特に、意味はない」  輝は黙々と夕飯を食べる。元々そんなに会話はないから口数自体は普段と変わらないけれど雰囲気で分かる。双子だからか、それとも家族だからか。 「…そう?」  控えめな食器の音だけが響く。遠くで救急車のサイレンが鳴っているのまで聞こえた。テレビを点けたり音楽でも流せば良いのだろうけれどいつも忘れる。 「美味かった。ごちそうさま」  輝は空いた食器をシンクに運んで自室に籠ってしまった。職場で何かあったのならおれが踏み込めることでもない。ニワトリのいじめ。それが輝に重く()し掛かっているみたいだった。いじめの問題を抱えているのか。夕飯の片付けを終えるとソファーに座って輝の口にした「ニワトリのいじめ」を端末で検索した。養鶏の中にもある野生の厳しさが並んでいた。集団によって傷だらけになったニワトリの画像は普段の買い出しでこれからの生涯を分かっているはずだというのに、屠殺されることとはまた異質の感慨をもたらした。輝はこれで気落ちしてしまったのかも知れない。調べるだけ調べてみてもおれには輝に対して何かできることはない。  風呂上がりの輝は珍しくビールを飲んでいた。つまみもなかった。おれは給湯器の電源を落としてキッチンテーブルのところで缶ビールを呷る輝に声を掛けた。いつ買ったのかも分からないビールだ。それくらいおれたちはビールを飲まない。たまに質の良い牛肉が届き、気分が向いた週末にワインを嗜むくらいだった。 「俺は、恥ずべきことをした」 「…そうなのか」  こういう時はどうすればいいのか、おれなりに考えて輝の近くには座らずに少し離れたソファーに腰を下ろす。けれど無関心というわけでもなかったから身体は輝に向けていた。 「ある生徒とある生徒が、問題を抱えて、」  輝はまた缶ビールを呷る。明日早く起きられるだろうか。おにぎりを持たせて朝食の時間も寝かせるのがいいか。 「俺は、その2人と関わりのある生徒に、2人を関わらせないように頼んだ」  また缶ビールを呷る。おれからしてみればよくある話のように思えた。事勿れ主義の教師は多い。処世術だ。正しいことをするよりも、そうして事を荒立てたほうが悪と見做(みな)される場合もある。輝はおれと双子だけれど、ある分野に於いてはおれよりずっと純真だ。 「その生徒から教わった。ニワトリのいじめの対策には隔離しかない。自分はそれの檻なのかと」 「断られたのか」 「いいや…協力してくれるらしい。だが俺は、さぞかし不甲斐ない大人に思えただろう。それだけじゃない」  輝はふとおれを見て固まった。おれと同じ目が大きく開いた。おれと同じ形の唇が開いて、震え、おれから顔を逸らす。 「すまない。そろそろ寝る」 「おやすみ」  理想像があるのだろう、輝にとっては輝にとっての教師の。おれにはない。あったのかも知れないけれど、だとしたら外れた。いつまでも輝と同じレールの上を並んで歩いてはいられない。残念なことかも知れないが。 -漣-  能登島は無邪気に大神に笑いかける。大神は能登島の肩を抱いて2人で教室を出て行く。俺の耳は雑音に包まれる。 「下手だよね、ショータも(サト)ちゃんも」  俺の席の前が陰る。笛木はもう笑っていなかった。ただただ拗ねたような表情で俺を見下ろしている。繕っていたのだ、今まで。 「腰抜け野郎。ちんたらちんたらしてさ。オマエが動けば解決する話じゃないの。ショータからはアンタに近付けないんだから。ジロジロじろじろ未練がましいんだよ」  笛木の言葉は強く刺さる。そのとおりだ。俺の母親が根回ししたなら俺からきちんと説明する必要がある。能登島を捕まえて。 「捕まえてきてやろっか、ショータのこと」 「必要ない。そういうことは、自分でやる」  彼女の眉が小狡く動いた。やはり見たことがない表情だった。 「ふぅん。やる気があるならよろし」  砂糖の塊みたいな甘ったるい匂いを残して笛木はどこかへ行ってしまった。見栄を張ったはいいが俺が近付くだけ能登島を傷付けはしないかとそればかりが気になった。俺の捻挫なんて能登島に負わせたものと比べるまでもないほど軽い。  能登島の接近は甘いものじゃなかった。大神が一緒にいることは想定内だったが、まさか能登島を置いて大神が俺の前に立ち塞がってくるとは思っていなかった。昼休みの、外。1年たちがベランダから上履きサンダルで教室近くの外をほっつき歩いている以外は好き好んで皆、外で昼飯は摂らなかった。原則的に室内で摂るよう言われていることもある。 「美潮きゅんさ、思ったより事は大きくなってるみたいでね。てんてー直々(じきじき)に相談されちゃったんだ。酷い話だよね、ボクだって美潮きゅんと仲良いのに、こんなことさせるなんて。言いたいこと分かるっしょ?礁ちゃんに近寄ったらダメだって」  大神の奥で俯く能登島を見た。大神が視界に割り込む。 「無いと思うケド、礁ちゃんが近寄ったらボクは礁ちゃんから美潮きゅんを守らなきゃだし、分かってよ。またどっちかがどっちかとドンパチやると思ってるし、そうなっちゃ困るんでしょ、ストレス性胃痛持ち寸前のてんてーたちは。自覚しなきゃ、自分の立場を」  両腕を開いて大神は俺を通す気はないようだった。俺は同意を示すしかなかった。 「他の級友(ひと)に頼んだらきっと気を遣いまくってさ、変にゴタゴタしてさ、そのうち礁ちゃんは面倒臭い、礁ちゃんの所為(せい)だ、礁ちゃん憎し!ってなるじゃん。てんてーは絶対、美潮きゅんの味方になるしかないんだから。そしたら内申点だの気にして、こんな些細な出来事の経緯も知らない級友(ひと)たちにはどう映るのさ。とある動物の社会(せかい)にもいじめってあってさ、いじめられる個体と、いじめる個体、それから取り巻く個体。一番恐ろしいのはこの取り巻く個体だよ。それでもいじめる個体といじめられる個体さえ隔離しておけば、取り巻く個体は無害も無害なんだから。分かるだろ?外野(はた)からみたら君はいじめる個体。あとはどういう割り振りか、分かるでしょ?」  意外にも大神は嬉々として語っていた。俺はまた能登島をバリケードと化した大神の脇から覗こうとする。 「遠くから見てなよ。もう諦めなって。笛木ちゃんに唆されでもした?変なこと言ってたもんね」 「…別に、笛木は関係ない」 「そっか。そうだよね、笛木ちゃんも変なこと言うから驚いちゃった。美潮きゅんはホモじゃないもんね。そのうち学校で一番の美人でも引っ掛かる心算(こころづもり)で、誰とも付き合わないんだもんね。だいじょぶ、だいじょぶ、その時にはこんなごたごたがあっただなんて黙ってるし…」  能登島を諦め、大神に背を向ける。仕方のないことだ。俺の撒いた種なんだから。 「でもボクで良かったでしょ。このゴタゴタはボクと礁ちゃんと美潮きゅんで留めておこ?みんなに気を遣わせるの嫌なんだって。優しいよね。それでサイテーだよ、引き裂こうなんて。大人側(てんてーたち)は?」  俺は教室に戻って、笛木の冷たい視線を浴びる。 -星-  大神に2人の生徒を頼んで、あとはもう丸投げという具合だった。職員室に怒りの電話が鳴ることもなく、C組の問題も聞かない。相談しろと言ったがあの子犬も俺の元に来ることはなかった。週に5日、金曜のみ2時間の数学ではクラスの様子など分からない。ただ俺がこの問題から外されただけなのかも知れない。美潮が転落した現場に居合わせただけだ。  放課後の廊下でまた大神と会う。彼は雑な挨拶をして、もうあのことについては何も触れなかった。指名すればノートとは違う解を出し、小テストでも満点取れたというのに赤点を自称する。目にする時は大体あの子犬と並んでいるのが職員室の窓から見えた。 「大神」  すれ違ったというのに俺は彼を呼んでいた。 「ボクと美潮くん、礁ちゃ…能登島くんの3人の問題にしておくので、大丈夫ですよ。学校側の指導(はんだん)による隔離じゃなくて、クラスの中でのいじめ問題になんてなったら大変ですもんね」 「苦労かける」  大神は緩く首を振って謙遜する素振りをみせた。 「美潮くんのほうも能登島くんにはまったく興味がないようですから、ボクもそんなに首突っ込む要素(ひつよう)なんてないんで」  言うだけ言って、もう用は無いとばかりに大神は教室棟に曲がっていった。俺はまだ何か言おうとしていた。開きかけた口を閉じる。職員室に戻って部活動終了時間まで採点をしていた。哀愁を漂わせる放送が流れ、空はもう暗かった。少し人の匂いが籠もった職員室から抜け出し、風に当たりに行った。肩を回しながらそうしていると少し気が休まった。指についた赤いインクを拭う。 「緋野せんせ」  蛍光色のシューズが暗い中でぼんやり浮いて見えた。子犬だ。サッカー部の備品を手にしていた。 「あの、…もうすぐ終わると思うんで、…あの、ちょっとだけ、いい…ですか」  まだ電気の点いている教室からの光も届かず落ちかけていた夕日も子犬を照らさない。それでもこの子犬は俺にとってひどく眩い。 「分かった。進路指導室で待つ」  子犬は下手な敬語で分かったと答えて走って行った。全身の毛穴の熱した針で刺されていくようだ。汗ばんだ掌で身体中を撫で回されているようだ。あの子犬と会うとおかしくなる。肌も体温も、四肢でさえ俺のものじゃなくなる。湿った風が吹いて俺は心地良かったが、あの温かい子犬を冷やしはしないかと不安が過ぎる。職員室に戻ってそこから鍵を借りて進路指導室に向かう。古く安い合皮のソファーがテーブルを挟んで向かい合っている。大学入試の分厚い本も室内のラックに無数に並んでいた。もう少ししたらここから問題集を借りてコピーするのだろう。 「失礼しまっす」  声を裏返らせて子犬が入ってくる。ソファーを進めると遠目で見ていたよりも硬いが緩んだ顔をしてソファーに深く座った。 「最近どうだ」  手始めに俺から話を振る。雑談から本題のほうが少し緊張しているらしい子犬にはいいだろう。 「…えっと、そのこと…なんです、けど…」  控えめだった笑みが引いていく。(さざなみ)のようだ。俯いていく子犬の愛くるしい顔から目が離せなかった。きちんと話を聞いていなければ、ならないのに。 「…美潮、クンとまた、話したり、したい…で、す」  子犬の言葉は躊躇しながら辿々しく、すぐにでも途切れてしまいそうだった。絞り出し、擦り切れそうな声が俺の両腕と胸元を飢えさせる。これが通常の状態であるはずだというのに俺の両腕と胸元には何かが足らない。薄い肉感と硬い感触が。 「オレが悪いのは、分かってる、です……でも美潮、クンがオレのところに来てくれるのに、サトちゃ、大神クンが、気を遣って、くれて…オレ、ちゃんと謝るから…」 「美潮が、来てくれる?」  傷んで色の抜けた髪が縦に揺れる。触れてみたい。撫でてみたい。指を通して、一房でもいい、その硬さを確かめてみたい。砂浜の匂いがしそうだった。 「美潮クンが、オレのところに…来てくれる、です…でもオレ、怖くて、逃げてばっかりで……サトちゃ…大神クンが居る時は、大神クンが代わりに、行ってくれる、です…」  子犬は震えて青褪めていた。飴玉は舌の上で転がされた時みたいに濡れている。それを俺は黙ったまま見つめてしまっていた。怯えた鼈甲飴も俺を窺いながら見上げた。瞳孔が白く照っている。喉が渇いて目眩がした。舐めたくなる。噛んでみたい。ただこの飴玉だけは舌の上でゆっくり溶かしたい。俺の温度で。俺の口で。甘い味が欲しい。 「あ、の…ごめんなさい、です。もとはと言えばオレが全部、悪いのに…」  黙らなければおかしなことを口走りそうで、唇を噛んでいた俺に子犬は機嫌を取るような態度をみせた。 「でも…美潮クンに、ちゃんと謝って…それから…きっと、美潮クンも、多分、オレにちゃんと謝って欲しいから……怪我もさせちゃったし…」  子犬のそれはもう懺悔に近く、ほぼ呟きと化していた。自分の膝ばかり見下ろして、俺にはまだ傷んでいない髪の生際が見えた。青い芝生の上を日差しの中で走り回った子犬の匂いがしそうで、鼻先を埋めたくなる。咽せるほど吸い込みたい。乾燥して艶のない毛に顔を包まれてみたい。 「美潮と何があったのか、話してくれるのか。そうすれば、考えなくもない」 「…それ、は…」 「言いたくないなら結構」  一度、一応の決着はしたことだ。美潮の保護者に弁解したところで、あの様子では聞く耳を持たないだろう。この子犬が絶対的な悪にしたいのだから。話してみなければ分からない、と判断できるような手合ではなかった。相手の出方次第でよりこの子犬の()が悪くなることもある。 「あ、の…じゃあ、その、誰にも言わないでくれる、ですか。誰にも、言わないで…ほしいです。他のせんせにも、絶対…」  幼さばかりが目立つ健気な子犬の纏う雰囲気が一瞬で変わった。惹き寄せられる。小振りな唇から目が離せなかった。あの小さな口で食い殺されると思った。退廃的な欲望が湧いている。牙にもならない白い歯で砕かれたい。陶然としたまま子犬の告白を聞いていた。キスされた、です。その言葉と同じように俺はソファーから立ち上がって子犬の口に噛み付いた。

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