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第16話

-月-  玄関の開く音がして(ひかり)が帰って来たのだと出迎えると、あの子を抱えていた。据わった目が何か良からぬことがあったのだと告げていた。 「別のところに泊まる。彼を頼む」  輝はあの子をおれに差し出して、おれは流されるままに、なんてものではなくてもう積極的に腕を伸ばしていた。思っていたよりも軽くて、内臓なんてなくて骨だけの重さなのではないかと疑った。 「輝」 「親御さんには伝えてある」  輝はおれの話も聞かずにまた外へ戻っていった。誘拐とは流石に思っていないが、異性間でないのなら問題ないのだろうか。昨今のニュースからいえば同性間であれ教師の家に泊まるなど大問題になりかねない。おれは今、非常に拙い、危ういところに居るのかも知れない。どうしていいのか分からずおれの部屋に寝かせた。何故こんな状態になっているのかも分からず額に触れてみるが熱があるという感じは特にしなかった。シャツのボタンを開いてから蒸しタオルを作りに行く。輝は警察に自首しに行ったのではないかとふと思った。少し熱いくらいのタオルを冷ましながら自室に戻る。もしかしたらこれ夢で、ドアを開けたら誰も居ないのではないか、そんな考えが浮かんだ。けれどあの子はおれが寝かせたとおりそのままでベッドの上にいた。おれの手には少し熱いくらいだったけれどこの子が火傷しないかと蒸しタオルを広げて放熱してからまた畳み直す。シャツを開けて首から拭いていった。胸元に小さな痣がある。不自然に点々と。拭いているうちに彼は目を覚ました。大きな目はぼんやりとおれを見てから飛び起きた。 「ご、ごめんなさ…っ、オレ…」  まだ混乱しているようでおれの殺風景な室内を見回して、それからおれを観察するように眺めた。怯えているような彼が可哀想でおれは新たな情報は与えなかった。 「おれの部屋だから、落ち着くことだ」  知らない場所に連れて来られ、緊張しているようだ。怖がっていたら可哀想だ。おれは君に酷いことはしないと伝えたかった。けれどそうだ、彼の中ではおれは輝なのか。 「あ…あの、せんせ…」  彼はベルトを外した。どこか怪我でもしたのか。おれはスラックスを眺めた。裾を巻くっているために晒された足首が見えた。ただでさえ細いのにそこに巻かれた明るいグリーンとオレンジのプロミスリングがさらに細さを強調する。 「せんせ…、ごめんなさい、です…」  まだ子供といえる年頃の彼がスラックスを脱いで下着一枚になる。黒の布地に赤いゴムのボクサーパンツで腿の筋肉が目立った。顔を赤くして彼はゴムを捲り尻を出す。露わになった引き締まった臀部と狭間に揺れる袋におれは驚いて口を覆ってしまった。 「勝手に、気絶して……ごめんなさい、です……いっぱい……お、お仕置き、し…して、ください…」  何を言っているのか訳が分からず、おれは一瞬頭の中が真っ白になったがおれは今彼にとって輝だということを思い出す。あの子の顔はもう桃のように染まっていた。口の中が潤っていく。よく熟れた桃が食べたい。 「え…っと、礁太くん」 「ぇ…?」  涙ぐんだ目がおれを見つめる。彼も驚いたようだった。しくじったらしい。こういう呼び方ではないのだろう。それもそうだ、飽くまで輝と彼は教師と生徒のはずだ。世間体は。どういう関係なのか今晩で疑わしいものに変わったけれど。 「礁。おれとここにいる時は、そう呼ぶ。いいか」  彼は頷いた。おれも頷きを返し、下げられたゴムを腰まで戻す。 「…せ、んせ?」  不安げに輝きに満ちた瞳がおれを捉える。彼の怖がるものをすべて取り除きたい。 「風呂入るか?腹は減ってないか?夕飯はまだなのだろう?」 「緋野せんせ…、ゴメン、なさい…です、」  ほぼ全裸に近いこの子は肩を落として項垂れる。下着一枚と(くるぶし)までの靴下だけ身に纏う姿は滑稽を通り越し淫らな雰囲気があった。おれは穴が空くほど眺めていたと思う。惹きつけられる。元気付けてやらなければならない。これはおれに科せられた義務だ。まだハンガーにも掛けていなかったシャツを羽織らせる。風邪などひいて咳き込んで声を嗄らす様を想像すると身が竦む。 「気にするな。怒ってない」  おれは自分の掌が汚れてはいないかと確認した。触れて彼が溶けたりしないかと反対の肌で体温を測る。爪も伸びていない。少し傷んで茶色に近い髪に触れる。小さな顔がおれを見上げた。電気で網膜が焼かれてしまう。おれはこの子の大きな目が潰れないよう近付いた。怖がりな仔猫が登ってくるみたいに幼さのある手がおれの服を摘んだ。 「せんせ…、ひ、の…せんせ…」  おれはしがみつかれ、重なった場所から熱くなった。輝ならどうするのだろう。考える間もなく躊躇いがちな唇がおれの口角に当たる。肩に乗っていたシャツが落ちてしまう。シャツごと硬い背中を抱いた。 「せんせ…」  2人でベッドに倒れた。ミントと柑橘の香りがする。おそらくシャンプーの匂いだ。 「せんせ、今日いつもと、ちょっと違う、です…」  後頭部を抱いて彼におれを見えないようにした。いくら一卵性の双子でも多少の違いはある。輝は黒染めをして髪も整えているけれど、おれは茶けた髪のまま多少伸びても放っておいている。輝はコンタクトレンズを使うけれどおれは家にばかりいるから眼鏡だ。 「落ち着いたら夕飯を食べよう」  チキンのハーブソテーとレンコンサラダを作った。買ってきた揚げ豆腐もある。輝は夕食を摂れるだろうか。 「せんせ」  おれの胸元にこの子は潜ろうとする。顔を覆いたくなるような感動があった。何かを達成したような。 「今日…優しくて、ちょっと…ちょっとだけ、その、こ、怖いです…」  おそるおそるこの子はおれを見上げた。おれを疑っているような、けれども信じているような。騙すみたいで申し訳ない気分になった。おれの触れ方が優しいなら今夜だけはこの子をぐずぐずに甘やかしたい。コンポートみたいに。 「嫌か?」  彼が髪を揺らすと梨を齧るような音がする。どこもかしこも甘そうだった。赤みが引いた顔も杏のようで。 「初めて、会った時みたいで……オレは、その……オレは、」  大きな目が泳いだ。夕飯前だというのに鼈甲飴を舐めたくなる。この子といると甘いものが欲しくなる。 「オレは、なんだ?」  悪戯心が働いておれはシャンプーと汗の匂いがする髪に鼻先を埋める。他人の家の匂いに安らいでいる。ここには輝でもそう入らない。 「…怒らない、です、か…」 「怒るわけないだろう」  彼はおれの機嫌を少し気にしていた。おれは怒ってない。何も。前髪を分けて頭を撫でた。仔猫を前にしている気分になる。 「す、きです…」  おれはこの子にとって輝だ。おれが返事をするわけにはいかなかった。ただひとつ言えるのは輝は生徒をこんな風に家に連れ帰ったりしない。こんな怪しい関係を匂わせたりしない。もうおれの口から輝の答えは出せるけれど。輝の口から聞きたいのだろう、この子は。代わりに額に口付けた。年頃だろうににきびのない綺麗な肌をしていた。驚くだろうな、おれと輝が別人だなんて知れたら。その時この子が傷付かないように、この子の好意を守りたい。だからおれは輝のこの奇行に付き合う。 -星- 「疲れただろう。送っていく」  俺は机の上で寝そべる子犬に声を掛けた。子犬は頼りなく身体を起こした。気怠げに腕はぶら下がり、俺がまた強姦したのだと生々しく思わせる。意識がある日はまだ良かった。行為中に気絶してしまうこともある。貧血だろう。元々あまり栄養状態が良さそうではなかった。 「だ、大丈夫……で、す。自分で帰れます」  嗄れた声で子犬は答える。叫んだり泣いたりしていた。当然だ。俺がそうさせたと思うと悪い気がしないから俺も随分と卑しい人間だ。真横の木椅子を蹴ると子犬は肩を震わせて床から俺に注目する。床なんて見るな。俺だけ見ていればいい。 「服を着ろ。着せてやろうか」  頭を振る姿は水浴びをした犬そのものだった。胸元に俺のマークが浮かんでいる。服を着終えると俺はまだ何か遠慮している子犬を駐車場まで引き摺った。ドアを開けても子犬は乗ろうとせず、無理矢理押し込む。俺が運転席に乗るまで逃げ出すことはなかったがチャイルドロックを掛けて住所を訊ねた。子犬は年賀状に書くような住所は言わないで大まかな位置を伝えるだけだった。すぐ近くの国道を東南に行ったところのコンビニとだけ告げられる。まさか自宅住所を覚えていないのか。職員室に戻り住所を調べることもできたがそれには個人情報の都合でC組の担任か副担任、もしくは保健医を捕まえる必要があった。 「自宅住所が分からないのか。家まで送ると言っているんだ…それとも家庭訪問は迷惑か」  俺の斜め後ろで子犬は縮こまっていた。ドアの内側に貼り付くように。今すぐ車を降りたいらしいのがその様子から分かった。 「迷惑…じゃ、な、いです……でも、その、散らかってる、から…その…」 「上がりはしない。送り届けたらすぐ帰る。俺も忙しいからな。早く答えろ」  ハンドルに身を預けているとぼそぼそと子犬は住所を喋った。ナビに入力していく。最寄りコンビニに降ろしたところで少し歩く場所だった。車を発進させナビに任せる。赤信号や一時停止のたびに後部座席を確認してしまうほど子犬には存在感がなかった。子犬が最初に指定したコンビニの近くの十字路で停まっていると子犬はまたぼそぼそと口を開いた。 「あの…」 「なんだ」 「やっぱり…あそこのコンビニで、降ろして欲しい……です、」  俺は返事をしなかった。右折してコンビニの前を通り抜ける。子犬は何も言わなかった。古い民家の多い区画に入り、住所の示すかなり古びた木造アパートの脇に停車する。 「着いたぞ」  子犬は自分から降りようとせず俺が後部座席のドアを開けに回ろうとした。激しい物音が聞こえる。アパートの敷地内からだった。俺が気を取られている間に子犬は車から降りていた。物騒な世の中だ。俺のような職権濫用して未成年淫行で強姦まで重ねている犯罪者よりも恐ろしい強盗や人攫いが居ないとは限らない。特に激しい物音を聞いている今なら生々しくそれを感じられる。早く帰らせるつもりで送ったがアパートに入って行こうとする子犬を引き留める。 「危ない。様子を見てくるから車の中で待っていろ」 「多分…オレん家だから……大丈夫です」  子犬は俺の腕をすり抜けてアパートのほうへ行こうとする。予定外だったが俺もついていった。3人ほどのスーツの男たちが端の部屋を囲んでいた。ノックは殴打に等しく、近所迷惑の域を越えていた。その集団のうちの1人が俺たちに気付く。子犬の肩が張る。 「ゴメン…まだ、返せるあてが、なくて……来週。来週には…」  震えた声で子犬は言った。何と言われたのかは分からなかったが1人が吠えた。子犬の肩が揺れ、俺はその身体を支える。 「能登島さん宅の礁太郎クンだっけぇ?先週もそれだったよなァ。困るんですよねぇ、貸した(もの)返してもらわないとぉ。来週にはいくらになると思ってんだァ?」  吠えた男は目を大きく開き、長い舌を見せた。 「女ならイイ仕事紹介すんだけどよぉ…おたく、内臓半分売るにもそのカラダだと価値が出ないんだな。とりあえずツラ確認したから今日のところは引きますけどねぇ、約束どおり来週もダメ、なんてことになったときのために礁太郎クンにも出来そうなイイ仕事を探しておきますよ。親父さんにもよろしくどうぞ」  ドラマや映画で観たことのある借金取りそのままで、俺は子犬の肩を抱き寄せる。 「いくらだ、今週分は」  歌舞伎のような雰囲気のある男は舌舐めずりして俺に媚び(へつら)うような態度で金額を告げた。子犬は固まったように俺を見ている。 「中へ入ってろ」  手で子犬を追い払う。(きず)だらけで凹んだ跡のあるドアが見えた。子犬はまだ立ち尽くしている。 「今週と来週分は俺が建て替える。彼を売ろうとするのはやめてくれないか」 「建て替え?返ってくるあてなんぞありませんよ。どういうお知り合いかは分かりませんがね、部外者は首を突っ込まないことです。こう言っちゃなんですが、関わっていいことなんて微塵もない。余計なところに相談するなんて野暮な真似、しませんよねぇ?ま、貸した金が返ってくる分にはこちらとしてはありがてぇ話ですが」  贖罪のつもりなのかも分からなかった。安い額ではないが、かといってあの子犬を易々と手離すよりは手離しても構わないと思える金額だった。株式投資で当てた額で十分に賄える。あの子犬が売られたら?一生で使い切るかも分からない額に安堵するのもいい。どこかで瓦解して食うにも着るにも困る日が来るかも知れない。そんな不安と可能性は誰にでもある。来週再来週、子犬に飯を食う余裕があるのなら不確定な未来に揺らぐな。職権濫用、未成年淫行、強姦、そこに反社会的勢力との接触。燈にも言えない秘密が増える。

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